墨染寺 (京都市伏見区)
Bokusen-ji Temple
墨染寺 墨染寺
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本堂


本堂扁額「桜寺」



本堂扁額「鬼子母神」


庫裏



屋根瓦には「桜」の文字が彫られている。



鬼子母大菩薩を祀る。



日蓮像


墨染井と刻まれている。江戸時代、1768年に2代目中村歌右衛門寄進の手洗鉢












三代目の墨染桜


墨染桜の花弁


【参照】近くを流れる琵琶湖疏水
 深草墨染町、琵琶湖疏水の西にある墨染寺(ぼくせんじ)は、「桜寺」「墨染桜寺」「すみぞめ寺」とも呼ばれる。境内に咲く墨染桜(すみぞめざくら)で知られ寺号の由来になった。山号は深草山という。 
 日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。
歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、874年、第56代・清和天皇(850-881)の勅願により、摂政・藤原良房(804-872)が建立した元号寺院の貞観寺(じょうかんじ)が前身という。良房の娘・明子の産んだ惟仁親王(清和天皇)の加護のために建立したという。
 その後、衰微する。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1591)/16世紀(1501-1600)後半、豊臣秀吉は寺領千石の土地寄進を行い、大僧都・日秀上人により建立された。秀吉の姉・瑞龍尼(日秀尼)が法華経に帰依したのを契機とし、寺号も法華本宗・墨染桜寺(ぼくせんおうじ)と改めたという。当時は御成間御殿、7つの子院・塔頭を有した。秀吉は寺を度々訪れている。
 江戸時代、徳川の時代になり、塔頭・威徳院(いとくいん)に統合縮小し、現在地へ移転になったという。(『山州名跡誌』)。その後、荒廃する。
 年代不詳、宇治・直行寺、梅津・本福寺に住した、第37世・学妙上人により復興されたという。
◆藤原良房 平安時代前期の公卿・藤原良房(ふじわら-の-よしふさ、804-872)。通称は白河殿、染殿、諡は忠仁公。京都の生まれ。藤原冬嗣の2男、母は尚侍(ないしのかみ)・藤原美都子(みつこ)(阿波守・藤原真作の娘)/大庭(おおば)女王。814年、第52代・嵯峨天皇より皇女・潔姫(きよひめ)を降嫁される。826年、蔵人、中判事(ちゅうはんじ)、大学頭などを経て、第52代・仁明天皇の即位に伴い蔵人頭、834年、参議になる。835年、中納言、839年、陸奥出羽按察使に進む。842年、嵯峨上皇の死を契機にした承和の変で、伴・橘両氏の勢力を削ぐ。皇太子・恒貞親王を廃し、妹・順子の産んだ道康親王(第55代・文徳天皇)の立太子に成功し、自らは大納言に進む。848年、右大臣兼皇太子傅(ふ)になる。850年、仁明天皇が没し、文徳天皇が即位し外戚になる。第1皇子・惟喬親王を抑え、天皇と娘・明子(あきらけいこ)が産んだ第4皇子・惟仁親王(第56代・清和天皇)を生後8カ月で皇太子にした。854年、左大臣・源常(ときわ)の没後、右大臣のまま廟堂の首班の地位を占めた。857年、左大臣を経ずに人臣で初の太政大臣、従一位になる。858年、文徳天皇が没し、9歳の清和天皇が即位し、良房は太政大臣になる。866年、応天門の炎上事件に乗じ、伴善男を失脚させ、自らは正式に摂政になった。871年、准三后になる。872年、東一条第(平安左京一条三坊)で没した。『貞観格式』『続日本後紀』の編纂に参画した。69歳。
 正一位・忠仁公が贈られた。嵯峨天皇の信任を得た父の後を継ぎ、藤原北家の権力基盤を作る。妹・順子の入内、兄・長良の子の基経を養子とし、基経の妹・高子も清和天皇の女御として入内させた。良房の頃を「前期摂関政治」ともいう。邸宅の染殿(平安左京北辺四坊)は桜の名所として知られた。
 白河辺に葬られた。
◆日秀 安土・桃山時代-江戸時代前期の日蓮宗の僧・日秀(?-?)。増長院日秀上人。身延山18世・日賢の弟子。日秀尼と親交あり、天正年間(1573-1591)、墨染桜寺を再興する。1604年、大坂・成正寺(じょうしょうじ)の開山になる。
◆日秀尼 室町時代後期-江戸時代前期の日蓮宗尼僧・日秀尼(にっしゅうに、1533-1625)。俗名は智(とも)、本名は智子、字は妙慧、道号は村雲、通称は村雲尼、院号は瑞龍院。尾張(愛知県)の生まれ。父は木下弥右衛門、母は天瑞院(大政所)、豊臣秀吉の姉。農民・弥助(後の武将・三好吉房、犬山城主)に嫁ぐ。1568年、秀次、1569年、秀勝、1579年、秀保を産んだ。1588年、秀保は羽柴秀長の養子に入れた。1590年、秀次の尾張転封後は犬山城に移る。1591年、秀吉が嫡子・鶴松を喪い、秀次・秀勝を養子に入れる。1592年、秀勝は文禄の役で病死(戦死とも)、1595年、秀次は秀吉に高野山で切腹させられる。夫は連座し讃岐に配流された。(秀次事件)。秀保も病死(十津川温泉で事故死とも)した。聚楽第を出て、嵯峨野に善正寺を建立し、秀次一族の菩提を弔う。秀次の首は庵の傍らに埋葬し供養した。1596年、本圀寺の16世・日禎(にちじょう)により得度する。村雲に瑞龍寺を建立した。1598年、第107代・後陽成天皇より瑞龍院の院号を受け、瑞龍院妙慧日秀と名乗る。天皇は寺領を寄進した。1612年、夫没後、1615年、大坂の陣で秀頼ら親族を失い、豊臣方の山口兵内の妻・お菊(孫娘)も処刑された。92歳。
 瑞龍寺中興三大比丘尼の1人。墓は瑞龍寺(滋賀県)、本圀寺(山科区)、善正寺(左京区)に供養塔がある。
藤原基経 平安時代前期の公卿・廷臣・藤原基経(ふじわら-の-もとつね、836-891)。幼名は手古、諡号は昭宣公、通称は堀河太政大臣。京都の生まれ。藤原長良の3男、母は第58代・光孝天皇の外祖父・藤原総継の娘・乙春(おとはる)。叔父・藤原良房の養子になり、氏長者になった。851年、第55代・文徳天皇から加冠されて元服した。852年、蔵人、その後、左兵衛少尉、侍従、左兵衛佐、少納言を歴任した。858年、蔵人頭、播磨介、左近衛中将などを経て、864年、参議になる。866年、応天門の変で、父・良房と大伴氏、紀氏を排し、藤原氏政権の基礎を築く。従三位、中納言になる。868年、左大将、869年、按察使、870年、大納言、872年、正三位右大臣になった。876年、妹・高子が産んだ第57代・陽成天皇の践祚とともに摂政になる。880年、太政大臣に任じられた。事実上の人臣(臣下)最初の関白になる。883年頃から、陽成天皇と不和になり出仕せず、884年、時康親王を立て第58代・光孝天皇とした。事実上最初の関白になる。885年、光孝天皇に献進した「年中行事障子」は以後、宮廷行事の規範になった。887年、陽成天皇の没後、基経の意思により第59代・宇多天皇が嗣立される。基経は関白に任じた勅書に対し不満を持つ。橘広相の作成文に「阿衡(あこう)の任」とあり、古代中国の単なる名誉職の官名として、政務を怠業した。関白の権威を天皇に認めさせ、譲歩させて勅書を改めさせた。(「阿衡事件」)。888年、娘・温子が入内し、以後、天皇家に対する藤原氏の発言力が確立した。890年、病により関白を辞した。准三宮になる。56歳。
 死後、越前国に封じられ、昭宣公の諡号を賜わる。藤原北家による摂関政治を確立した。菅原道真らと親交した。撰修『日本文徳天皇実録』。邸宅の堀河院、閑院(かんいん)を所有した。第54代・仁明天皇の笙の師だった。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆上野岑雄 平安時代前期の上野岑雄(かみつけ/かんつけ-の-みねお、?-?)。詳細不明。峰雄、上野岑朝臣(かんつけ-の-みねお-あそん)。承和年間(834-848)の人ともいう。『古今集』に入集。
◆文化財 長谷川等伯筆「太閤秀吉画像」がある。秀吉の自賛がある。「あはれてふ色香をさとる桜木の 花の面影墨染にして」。細川幽斎が詠じた。
◆墨染桜 墨染桜は、白い花弁が小さい単弁であり、茎、葉の部分が青く、墨染色(薄墨、喪の色、鈍色 [濃い灰色])のように見える。死者との関係の深さにより、花弁の色合いに濃淡が生まれたともいう。桜は貞観寺の旧地にあったという。
 墨染桜、墨染の地名も次の伝承に起因するという。
 平安時代、891年1月13日、堀河の公卿・太政大臣・藤原基経は亡くなり、この地に葬られた。上野岑雄(かみつけのみねお)は、友の死を悼み、桜に向かい次の哀傷歌を詠んだという。詞書「堀河の太政大臣、身まかりける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける」、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」(『古今和歌集』)。以来、「心なき桜」も感応し、墨染色(薄墨色)の花弁を付けるようになったという。なお、『源氏物語』第19帖「薄雲」巻では、光源氏が藤壺中宮を喪い、二条院の前の桜を見て花の宴のことなどを思い出し、「今年ばかりは」と引用している。
 また、第54代・仁明天皇(810-850)の死を悲しみ、出家した良岑宗貞(よしみね の むねさだね、遍昭、816-890)が、仁明陵のある深草の山桜を詠んだともいう。(『雍州府志』)
 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1536-1598)は、この話を聞き感銘を受けて、姉・瑞竜尼が帰依した日秀に土地を寄進し、寺を再興させたという。
 境内には現在、3代目の墨染桜の若木と、ソメイヨシノが植えられている。
◆墨染井 本堂前にある御手洗鉢「墨染井」は、江戸時代、1768年に歌舞伎役者・2代目中村歌右衛門の寄進による。 
◆墨染遊郭 門前には旧東海道が通じている。江戸時代、元禄年間(1688-1704)、この付近に墨染遊郭があり賑わっていた。ほかに、橦木町(夷町)、柳町(泥町)、稲荷中之町、中書島があった。
 江戸時代、1684年の井原西鶴『好色一代男』では、11歳の世之介が、東福寺、伏見街道を経て、墨染寺の名水を口に含んだ。夕刻、初めて遊里・橦木町に出かける。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『新版 京・伏見 歴史の旅』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都の地名検証 3』、ウェブサイト「コトバンク」


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