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三条烏丸御所跡(三条南殿跡) (京都市中京区) Ruins of Sanjo-karasuma-gosho(Imperial Palace) |
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三条烏丸御所跡 | 三条烏丸御所跡 |
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![]() 「三條烏丸御所跡」の石標 |
烏丸通より三条通西入ル南側に「三条烏丸御所跡(さんじょう-からすま-ごしょ)」の石標と説明板が立てられている。総称として三条南殿とも呼ばれた。 この地には平安時代後期、大邸宅が建てられ、鳥羽上皇の御所にもなった。 ◆歴史年表 平安時代後期、藤原光子(1060-1121)の邸宅が建てられている。 その子・藤原(徳大寺)実能(1096-1157)に邸宅は受け継がれる。 1129年、実能から鳥羽上皇(第74代)に献じられその御所となる。 現代、1987年、京都市埋蔵文化財研究所により発掘調査が行われる。平安時代後期の遣水跡、三条大路南側溝、建物跡などが見つかる。 ◆藤原光子 平安時代後期の女房・藤原光子(ふじわら-の-みつこ、1060-1121)。女性。父・左中弁隆方、白河院の近臣・為房の妹。白河上皇(第72代)の側近、第73代・堀河天皇、第74代・鳥羽天皇の乳母となる。権大納言・藤原公実の妻、待賢門院(鳥羽天皇皇后)、通季(西園寺家の祖)、実能(徳大寺家の祖)を産む。61歳。 ◆藤原実能 平安時代後期の公卿・藤原実能(とくだいじ-さねよし、1096-1157)。男性。父・藤原公実、母・光子(藤原隆方の娘)。徳大寺家の始祖。内大臣、1156年保元の乱で藤原頼長に敵対し後白河天皇方につく。乱後、左大臣。衣笠に徳大寺)を建て、家名となる。日記『実能記』。62歳。 ◆鳥羽天皇 平安時代後期の第74代・鳥羽天皇(とば-てんのう、1103-1156)。男性。父・第73代・堀河天皇、母・苡子(贈太政大臣・藤原実季の娘)。1103年、第73代・堀河天皇の東宮となる。1107年、即位するが、祖父白河法皇による院政がしかれた。1123年、子の顕仁(第75代・崇徳天皇)に譲位し、鳥羽離宮を居所とした。1129年より、崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたり院政をしく。また、荘園公領制を確立させた。1141年、出家し、御願寺の造営、熊野参詣は23回行う。安楽寿院内の陵墓に葬られた。54歳。 1149年、第76代・近衛天皇の即位は、皇位継承をめぐる皇統内部の対立となり、その没後、1156年、保元の乱が起きた。 ◆三条烏丸御所 平安京左京四条三坊九町に位置した三条烏丸御所は、「三条烏丸殿」、「三条桟敷殿」、総称として「三条南殿」とも呼ばれた。藤原光子、子・藤原(徳大寺)実能に引き継がれ、鳥羽法皇の御所となる。 現代、1987年の発掘調査により、平安時代後期(11世紀末-12世紀前半)の遣水跡、三条大路南側溝、建物跡などが見つかった。遣水跡(幅6.5m、深さ0.4m)は、底に河原石を敷き詰め、中島(4m×2m)もあり、景石も据えられていた。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ』、『平安京散策』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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