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旧山口銀行京都支店(旧北國銀行京都支店) (京都市中京区) Former Yamaguchi Bank Kyoto Branch |
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旧山口銀行(旧北國銀行)京都支店 | 旧山口銀行(旧北國銀行)京都支店 |
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![]() 東側 ![]() 東側、正面入口 ![]() 東側、正面入口 ![]() 東側、正面入口 ![]() 東側、正面入口 ![]() 東側、正面入口 ![]() 東側、正面入口 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 東側、塔屋 ![]() 東側、塔屋 ![]() 東側、塔屋 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 北東角 ![]() 北東角 |
烏丸通蛸薬師南西角に、旧山口銀行京都支店(きゅう-やまくちぎんこう-きょうとしてん)はある。後に北國(ほっこく)銀行京都支店としても利用された。その後、複合商業施設としても活用される。 設計は辰野片岡建築事務所による。辰野式の最後の作品になった。 ◆歴史年表 近代、1916年、山口銀行京都支店が竣工した。 現代、2004年、9月、北國(ほっこく)銀行京都支店は中京区橋弁慶町に移転する。 2007年、4月、複合商業施設「flowing KARASUMA」が開業した。5月、建物は、京都の近代建築を考える会の「市民が選ぶ文化財」に選定される。 2013年、12月、「flowing KARASUMA」は閉店する。 ◆辰野金吾 近代の建築家・教育者・辰野金吾(たつの-きんご、1854-1919) 。旧姓は松倉。唐津生まれ。唐津藩(佐賀県)藩士・姫松倉右衛門の次男。1868年、辰野宗安の養嗣子になる。1873年、工部省工学寮に入学した。イギリス人・建築技師・ジョサイア・コンドル(Josiah Conder,1852-1920)の指導を受ける。1879年、工部大学校(工学寮)造家学科の第1回卒業生として卒業した。1880年、留学のため、ロンドンのコンドルの師・バージェス(William Burges,1827-1881)建築事務所などで建築を研修した。フランス、イタリアも回る。1883年、帰国し工部省に入る。設計の処女作になった銀行集会所(1885)の設計を行う。1884年、コンドルの後任として、工部大学校教授に就任し、日本建築講座を担当する。1886年、辰野建築事務所を設立する。造家学会(現在の日本建築学会)創立に参加した。1887年、日本銀行の設計者に決定し渡欧する。1888年、帰国した。1898年、建築学会会長、工科大学長に就任する。1902年、工科大学を退官した。 「日本近代建築の父」といわれた。議院建築調査会委員を歴任する。工学博士。66歳。 日本人で洋風建築技術を最初に学ぶ。創成期の日本近代建築を主導した。門弟に伊東忠太、関野貞、大熊喜邦らがいる。主な作品は、工科大学本館(1888) 、日本銀行本店(1896) 、両国国技館(1909)、東京中央停車場(東京駅、1914) などがある。 ◆片岡安 近代の建築家・政治家・片岡安(かたおか-やすし、1876-1946)。石川県生まれ。加賀前田藩士・細野直重の次男。1897年、東京帝国大学工科大学造家学科卒後、日本銀行技師になる。1899年、日本銀行大阪支店を設計した。日本生命保険副社長・片岡直温(なおはる)の婿養子になる。1903年、第三十四銀行技師になった。1905年、辰野金吾と辰野片岡建築事務所を開設した。1912年、大阪市中央公会堂指名コンペの一員に選ばれる。1917年、関西建築協会(現在の日本建築協会)を創立し、初代理事長になる。(-1946)。1918年、内務省都市計画調査会委員、社団法人大阪工業会常務理事に就く。1919年、日本生命保険取締役(-1927)、片岡松井建築事務所を開設した。1920年、東京帝国大学より工学博士号を授与する。1922年、片岡建築事務所を開設した。京都帝国大学工学部建築学科講師嘱託になる(-1929)。社団法人大阪工業会会長になる(-1946)。本庄京三郎に招聘され、関西工学専修学校(現在の大阪工業大学)初代校長・理事長に就任した。1923年、大阪信用組合(現在の大阪信用金庫)組合長(-1946)。1927年-1931年、石本喜久治と片岡・石本建築事務所を設立した。1934年-1936年、金沢市長になる。1940年-1943年、大阪商工会議所会頭になった。70歳。 日本都市計画研究の先駆者だった。現存作品として、大阪市中央公会堂(1918)(重文)、芦屋仏教会館(1927) 、大阪信用金庫旧本店(現在の同信金日本橋支店、1936) などがある。 ◆建築 近代、1916年に、大阪の山口銀行京都支店が竣工した。設計は辰野片岡建築事務所による。その後、金沢市に本店がある地方銀行の北國(ほっこく)銀行京都支店として使用された。2004年に長谷ビル(中京区)が土地建物を取得し、建物を修復した。2007年4月に複合商業施設「flowing KARASUMA」が開業した。同年5月、京都の近代建築を考える会の「市民が選ぶ文化財」に選定されている。2013年12月に閉店した。 東面し烏丸通、北側は蛸薬師通に面している。角地に建てられ、全体として建物は小振りになる。外観は直線的な意匠であり左右対称ではない。壁をやや張り出している。鉄筋コンクリート造でありながら、煉瓦造の意匠を引き継ぐ。小口積み(ドイツ積み)の赤煉瓦と3本の帯石の白い花崗岩による小規模な「辰野式」が採られている。ただ、時代はモダニズムへの移行期にあり、すでに赤煉瓦は外壁の装飾の一つでしかない。辰野式の最後の作品になった。1階・2階ともに縦長の窓が並ぶ。細部装飾も少なく、セセッション(19世紀末のオーストリアのウィーンに興り、ドイツ、オーストリアの各地に広がった芸術革新運動、分離派)の幾何学的で簡略化された装飾がある。屋上の北東に塔屋(ドーム)、南東にも屋根状の塔屋がある。 施工は不詳、鉄筋コンクリート(RC)造、2階建、陸屋根。 ◆山口銀行・北國銀行 山口銀行(前身・第百四十八国立銀行)は、統廃合を重ね三和銀行・UFJ銀行を経て、現在の三菱UFJ銀行の前身の一つになる。 ◈ 近代、1879年に大阪の山口財閥3代当主・山口吉郎兵衛(1851-1887)は、「第百四十八国立銀行」を創業した。1898年に第百四十八国立銀行の営業を継承し、「山口銀行」を開業する。 1933年に、鴻池銀行、三十四銀行、山口銀行の3行合併により「三和銀行」が設立される。 2002年に、 三和銀行、東海銀行が合併し、「UFJ銀行」になる。2006年に東京三菱銀行、UFJ銀行が合併し「三菱UFJ銀行」になった。 ◈ 1916年に、現在地に「山口銀行京都支店」が建てられる。1933年に「三和銀行」になった。 後(年代不明)に、建物は「北國銀行京都支店」として使用される。2004年9月に、北國銀行京都支店は中京区橋弁慶町に移転している。2013年7月に北國銀行京都支店は廃止になり、北國銀行大阪支店(大阪支柱中央区)に統合された。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都の赤レンガ』、ウェブサイト「京都の近代建築を考える会」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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