足利尊氏邸跡・等持寺跡・大西殿跡 (京都市中京区)  
Ruins of Ashikaga,Takauji Residence
足利尊氏邸跡・等持寺跡・大西殿跡 足利尊氏邸跡・等持寺跡・大西殿跡
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「足利尊氏邸・等持寺跡」の石標





説明板
 中京区御池通高倉上ル東側に、「足利尊氏邸・等持寺跡(あしかが-たかうじ-てい・とうじじ-あと)」の石標、説明板が立てられている。
 この地には、南北朝時代-室町時代に、足利尊氏の「三条坊門第(二条万里小路第)」があり、「室町幕府発祥の地」という。
◆歴史年表 平安時代前期-中期、この地(平安京左京三条四坊七町)には、公家・歌人・藤原定方(873-932)の大西殿があった。
 第63代・冷泉天皇皇后・昌子内親王(950-1000)の御所になる。
 南北朝時代、建武の頃(1334-1336)、初代・足利尊氏は二条南、柳馬場高倉(中京区)に宿所を設けたという。尊氏はこの「三条坊門第(二条万里小路第)」で政務を執ったという。また、三条坊門を挟んだ南側に、幕府政務を任せ二元政治を執った弟・直義(ただよし)の館「三条坊門第」(三条坊門南、高倉東1町)があったという。(『中昔京師内外地図』)
 1349年、2代・義詮は上洛し、三条坊門第に入った。
 1358年、尊氏が三条坊門第で亡くなる。
 1365年、義詮は三条坊門第の東隣(三条坊門南、万里小路東、1町四方)に、邸宅を新造し移る。
 1378年、3代・義満は、室町第(花の御所)に移った。
 室町時代、1409年、4代・義持は、三条坊門の邸宅(姉小路の北、東は万里小路、北は三条坊門小路、現在の松下町付近)を新造した。7月、立柱の儀が執り行われている。(『花盛卿記』)。10月、鎮宅の法が執り行われた。(『東寺王代記』)。義持は北山第より移った。(『足利家官位記』)。邸は「三条坊門殿」、「下御所」とも呼ばれた。
 1426年条、「参室町殿」(姉小路の北、東は万里小路)と記されている。(『薩戒記』)
 1446年、等持寺は焼失した。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で、等持寺は再び焼失する。その後、再建される。別院の等持院(北寺、北等持寺)に統合された。以後、足利氏の菩提寺として崇敬を集めた。
 1508年、三条坊門第は、10代・義稙の館になる。大内氏の助けで帰洛、改築して御所にした。
 現代、1995年、10月、京都府保健事業協同組合・京都文化博物館により石標、説明板が立てられた。
◆藤原定方 平安時代前期-中期の公家・官人・歌人・藤原定方(ふじわら-の-さだかた、873-932)。右大臣、三条右大臣。内大臣・藤原高藤(たかふじ)の次男。母は宮道弥益の娘・列子。姉か妹に胤子(いんし)。娘・仁善子(三条御息所)は、醍醐天皇の女御、藤原実頼の妻になる。892年 、内舎人になる。902年 、 内裏菊合に参加した。906年、従四位下参議右中将、909年、参議、913年、従三位中納言になる。亭子院歌合に参加した。919年、右大将、920年 、大納言、921年、正三位、923年、東宮傅兼任。924年、右大臣になる。926年、従二位(公卿補任)に叙せられた。932年、没後、従一位を追贈される。
 邸が三条坊門小路北面にあり、三条右大臣と呼ばれる。第60代・醍醐天皇の外家として権勢を振るう。娘婿の藤原兼輔(かねすけ)とともに第59代・宇多天皇、醍醐天皇の宮廷歌壇を支えた。歌人として家集『三条右大臣集』がある。『古今和歌集』『後撰集』『新千載集』に採られた。藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒らと交流した。管弦の名手としても知られた。60歳。
 墓所は、勧修寺(山科区)、鍋岡山麓(山科区)ともいう。
◆昌子内親王 平安時代中期の第63代・冷泉天皇皇后・昌子内親王(しょうし/ まさこ-ないしんのう、950-1000)。第61代・朱雀天皇第1皇女、母は女御・煕子(きし)女王。母は生後間もなく、父・朱雀上皇も30歳で亡くなる。963年、皇太子憲平親王(後の第63代・冷泉天皇)に入内した。967年、冷泉天皇即位とともに中宮に立后した。天皇は在位2年で退位し、973年、皇太后になる。子はなかった。985年、仏教に帰依し、大雲寺に観音院を創建し、観音院太后とも称された。986年、太皇太后になる。和歌が『新古今和歌集』などに収められた。和泉式部の夫・橘道貞の三条邸で亡くなる。50歳。
 内親王の御所には越中守平保衡女、その娘の歌人・和泉式部が仕え、晩年には藤原為頼(紫式部の伯父)が太皇太后宮大進を務めた。紫式部が『源氏物語』で描く藤壺中宮、その御所三条宮は、昌子内親王と大西殿をモデルにしたともいう。
 陵墓は冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵(左京区)になる。
◆足利尊氏 鎌倉時代後期-南北朝時代の室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかが-たかうじ、1305-1358)。初めは高氏。法名は等持寺殿仁山妙義、長寿寺殿。源頼朝同族の家に生まれた。父は貞氏、母は上杉清子。第96代・後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の元弘の乱(1331-1333)に対し、初めは幕府軍に付く。その後、倒幕に転じた。1333年、六波羅探題を急襲し幕府を滅ぼした。後醍醐天皇自ら政治を行った建武新政により厚遇される。従三位、武蔵守に叙任され、天皇の諱(尊治)の一字を与えられ尊氏に改名する。1335年、関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を鎮め、天皇と対立した。後醍醐軍との攻防の後、持明院統の豊仁親王(北朝第2代・光明天皇)への譲位で天皇と和睦した。1336年、建武式目を制定し新幕府(室町幕府)を開く。吉野に移った後醍醐天皇は、南朝を建てた。1338年-1358年、征夷大将軍になる。1339年、後醍醐天皇が吉野で死去し、尊氏は弟・直義(ただよし)とともに天皇のために盛大な法要を営む。1341年、後醍醐天皇追善のために、暦応資聖禅寺(天龍寺)を建立した。1352年、当初は直義と二元政治を執り、観応の擾乱で殺した。京都二条万里小路邸で死去した。夢窓疎石に帰依した。54歳。
 墓所は京都・等持院(北区)にある。
◆足利直義 鎌倉時代後期-南北朝時代の武将・足利直義(あしかが-ただよし、1306-1352)。初名は忠義、高国、通称は三条殿、錦小路殿。足利貞氏の子、尊氏の弟。1333年、第96代・後醍醐天皇の建武政権の樹立に貢献する。1334年、北条時行の中先代の乱で後醍醐天皇皇子・護良親王を殺害し、政権と決別する。室町幕府創設後は尊氏を補佐した。観応の擾乱(1349-1352)で、尊氏執事・高師直と対立し、尊氏とも対立する。和睦するが、尊氏と戦い降伏した。鎌倉で没した。毒殺とされる。47歳。
◆足利義詮  鎌倉時代後期-南北朝時代の室町幕府第2代将軍・足利義詮(あしかが-よしあきら、1330-1367)。幼名は千寿王丸、法号は宝篋院(ほうきょういん)。鎌倉の生まれ。足利尊氏の3男。1333年、元弘の乱で、第96代・後醍醐天皇の軍を討つために尊氏が西北し、母とともに人質として鎌倉に置かれた。1333年、鎌倉幕府滅亡後、関東を管領する。1349年、叔父・足利直義と高師直が対立し、上洛して直義に代り政務を統轄した。1352年、南朝との講和が敗れ京都を追われる。直義の養子・足利直冬、南朝との戦を繰返す。1358年、尊氏没後、征夷大将軍になる。1362年、斯波義将を執事に任じ、1363年、南朝方の大内弘世、直冬党の山名時氏を幕府に帰服させた。1367年、病に倒れ、家督を足利義満に譲る。北朝の再建を果たし、南北朝動乱を北朝優勢に導いた。京都で没した。38歳。
 黙庵周諭に深く帰依し、宝筐院(右京区)に葬られたという。
◆足利義持 南北朝時代-室町時代前期の室町幕府4代将軍 ・足利義持(あしかが-よしもち、1386-1428)。法名は道詮、法号は勝定院、室町殿。義満の子、母は三宝院坊官安芸法眼の娘・藤原慶子。1395年、9歳で将軍職を継ぐ。政務は義満が行う。義満は異母弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛した。1402年、従一位、1406年、権大納言兼右大将に昇る。1408年、父・義満没後、親政を始め、宿老・斯波義将、畠山満家らが助けた。義満に太上法皇の称号を贈ろうとする朝議を辞退する。1409年、内大臣になる。父の政庁・北山第を破却し、三条坊門第に移った。1412年、北朝の第101代・称光天皇を擁立し、両朝和約に違反するとして飛騨・伊勢両国司らが蜂起する。1416年、関東に起った上杉禅秀の乱に弟・義嗣は加わる。1418年、その義嗣を殺害した。1419年、父の施政だった明との国交を断絶する。1423年、鎌倉公方の足利持氏を制圧し、子・義量(よしかず)に将軍職を譲って出家した。1425年、義量が夭逝し、再び政務を執る。後継者の選定を宿老にまかせ、くじ(神判)による跡目決定になる。同母弟・義教が選ばれた。禅宗に深く帰依した。法名は道詮。法号は勝定院。京都で没した。43歳。
 墓は等持院(北区)にある。
◆三条坊門第 南北朝時代、建武の頃(1334-1336)に、初代・足利尊氏は二条南、柳馬場高倉(中京区)に宿所を設けたという。尊氏はこの「三条坊門第(二条万里小路第)」で政務を執ったという。尊氏邸の範囲については、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mあったという。(京都文化博物館の説明文)
 三条坊門を挟んだ南側に、幕府政務を任せた弟・直義の館「三条坊門第」(三条坊門南、高倉東1町)があったという。(『中昔京師内外地図』)。1349年、2代・義詮は上洛し、三条坊門第に入る。1358年に、尊氏が三条坊門第で亡くなっている。
 1365年、義詮は三条坊門第の東隣(三条坊門南、万里小路東、1町四方)に、邸宅を新造し移る。1378年、3代・義満は、室町第(花の御所)に移った。
 室町時代、1409年、4代・義持は、三条坊門の邸宅(姉小路の北、東は万里小路、北は三条坊門小路、現在の松下町付近全域、柳八幡町、東八幡町、菊屋町の一部)を新造し移る。7月、立柱の儀が執り行われている。(『花盛卿記』)。10月、鎮宅の法が執り行われる。(『東寺王代記』)。義持は北山第より移った。(『足利家官位記』)。邸は室町殿(花の御所)の上御所に対して、「三条坊門殿」、「下御所」とも呼ばれた。邸内には義持の定めた「十境」があり、勝音閣、覚苑閣、湖橋、蘸月池などが挙げられた。この頃に、幕府の最盛期を迎える。
 1426年条、「参室町殿」(姉小路の北、東は万里小路)と記されている。(『薩戒記』)
◆等持寺 かつて等持寺(南等持寺)があった。創建年代は不明という。南北朝時代、1339年以前にはすでに建立されていたという。
 建武の頃(1334-1336)、足利尊氏は二条南、柳馬場高倉(中京区)に宿所を設けていた。その後、邸宅は菩提寺として等持寺になる。開山は夢窓疎石(1275-4351)であり、初代住持は古先印元(1294-1374)だったという。等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集めた。
 山号の逸話として、尊氏は天下取りの開運のために、3寺建立を将軍地蔵に誓った。だが、資材の調達ができない。そこで、「寺」の字をいずれも含む「等」「持」「寺」の3文字が山号として選ばれたともいう。(『翰林葫蘆(かんりんころ)集』)。なお、尊氏の院号は「等持院」だった。3代・義満の頃、1337年に夢窓派の拠点として十刹の一つとされる。 
 南北朝時代、1380年、足利義詮追善の法華八講が、管領・斯波義将、義堂周信のすすめにより等持寺で行われ、以後慣例になる。
 室町時代には、二条南、三条坊門北、万里小路西、高倉東の現在の中京区等持寺町付近に東西一町、南北二町に境内域があった。官寺として幕府の公的な仏事を修した。
 室町時代、1446年に焼失し、応仁・文明の乱(1467-1477)でも焼失する。その後、再建される。別院の等持院(北寺、北等持寺)に統合された。
 等持寺町(中京区)の町名が残る。近代に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社だったという。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都文化博物館の説明板、『京都府の地名』、『続・京都史跡事典』、『京都・山城寺院神社大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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