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醍醐天皇 後山科陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Daigo |
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醍醐天皇 後山科陵 | 醍醐天皇 後山科陵 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「醍醐天皇 後山科陵」の石標 ![]() 醍醐天皇 後山科陵、 OpenStreetMap Japan |
醍醐古道町(だいご-ふるみち-ちょう)に、後山科陵(のちの-やましな-の-みささぎ)はある。 平安時代の第60代・醍醐天皇(だいご てんのう)が葬られている。 古く、後山科陵は、「上御殿(上ノ御殿)」と称された。南東近くにある子・第61代・朱雀天皇が葬られた醍醐陵は「下御殿(下ノ御殿)」と呼ばれていた。 ◆歴史年表 平安時代、930年、旧9月29日、醍醐天皇が右近衛府で亡くなる。陵は造られなかった。壙を掘り、校倉が納められ、棺などが葬られた。旧10月11日、遺骸、副葬品が埋葬される。旧10月12日、陵上には卒塔婆3基が立てられた。 931年、旧11月、源添が勅を奉じた陵湟(りょうこう)掘削が終わる。 934年、旧7月13日、宣旨(せんじ、勅令を伝えるために弁官・外記局などから発布される文書)により、醍醐寺が陵の監守を行う。以来、江戸時代まで天皇命日(聖忌)には陵前で法会が催された。 952年、旧8月15日、第69代・朱雀天皇は亡くなる。旧9月20日、山城国・来定寺の北野で火葬にされた。旧9月21日、遺骨は当初、父・醍醐天皇陵の傍らに納められる。 鎌倉時代、現在地に「延喜御陵」として描かれている。(勧修寺『山城国宇治郡山科条里図』) 江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵で修補される。 ◆醍醐 天皇 平安時代前期-中期の第60代・醍醐 天皇(だいご-てんのう、885-930)。男性。敦仁(あつざね)、源維城(みなもと-の-これざね)、法名は宝金剛。京都の生まれ。父・臣籍に降下した源定省(みなもと-の-さだみ)(第59代・宇多天皇)、母・内大臣・藤原高藤(たかふじ)の娘・藤原胤子(いんし/たねこ)のの第1皇子。887年、父の皇籍復帰、宇多天皇の即位により皇族に列した。890年、親王宣下、891年、敦仁に改名し、893年、立太子になる。897年、13歳で即位した。父の訓示「寛平御遺誡」により、大納言の藤原時平・菅原道真が仕えた。899年、両人は左右大臣に任命される。901年、時平の讒言(ざんげん)により、道真を大宰権帥に左遷した。(昌泰の変)。以後、時平が主導権を握り、復古に動く。20人ほどの女御・更衣があり、寛明親王(第61代・朱雀天皇)、成明親王(第62代・村上天皇)など36人の子女を儲けた。904年、中宮・藤原穏子(やすこ)との間の長子・保明(やすあきら)親王を2歳で東宮とし、御息所に時平の娘・仁善子を入れた。905年、紀貫之らに『古今和歌集』撰進を命じた。909年、時平が没する。923年、保明親王も21歳で早世する。仁善子の子・慶頼王を皇太孫にしたが、925年、5歳で夭折した。これらは道真の怨霊の仕業と噂された。923年、道真左遷の詔を覆し、右大臣に復し贈位を行う。だが、930年、清涼殿に落雷し、大納言・藤原清貴らが亡くなり、天皇は病に臥した。寛明親王(第61代・朱雀天皇、保明親王の同母弟)に譲位した。出家日に右近衛府で亡くなる。 京都で没した。46歳。 平安時代では最長の33年間在位した。摂関を置かない親政は、時平の影響下にあった。班田の励行、荘園整理令施行、国史『日本三代実録』の完成、延喜格式の撰修も行う。後に治世は「延喜・天暦の治」と呼ばれた。和歌を良くし、『古今和歌集』の撰進、勅撰集に入首、家集『延喜御集』を編む。日記に「二代御記」の一つ『醍醐天皇御記(延喜御記)』がある。醍醐寺の北の山科陵(伏見区)に葬られた。 ◆陵墓 陵墓は、考古学・文献史学的に疑問の余地がないとされている。平安時代中期に造営された陵として確定した唯一例になる。陵名は複数あり、「後山科山陵」(『類聚符宣抄』『扶桑略記』)、「山科陵」(『日本紀略』)、「山科新陵」(『醍醐雑事記』)などがある。「後山科陵」は、後山階陵(仁明天皇女御 尊称太皇太后順子)と同名になる。ただ、当初は「山科」であり、後に「山階」が使われた。 陵墓は平坦な内径墳(径45m)であり、ほぼ南面し、拝所が設けられている。空堀(幅5m、深さ1.2m)、その外側に土手(幅3.5m)がある。 平安時代中期、930年旧9月に醍醐天皇は右近衛府で亡くなる。卒塔婆3基を立て葬儀が行われた。陵は造られなかった。兆域は東西8町、南北10町あり、土葬で盛土ではなく地面より下に壙(あな)(3丈 [9m] 四方、深さ9尺 [2.7m] )を掘り、校倉(1丈 [3m] 四方、高さ4尺3寸 [1.3m])が納められた。(『醍醐雑事記』『西宮記』)。その中に棺が納められた。ほか、天皇の愛用品だった硯、黒漆筥(はこ)、琴、箏(そう)、和琴、笛なども副葬品として納められた。(『慶延記』『今昔著聞集』) 931年旧11月、源添が勅を奉じた陵湟(りょうこう)掘削が終わる。934年旧7月、宣旨(せんじ、勅令を伝えるために弁官・外記局などから発布される文書)により、醍醐寺が陵の監守(陵寺)を行う。陵戸(りょうこ/みささぎべ、陵守の世襲の古代賤民)5、徭丁(ようてい)25人が置かれた。以来、江戸時代まで命日に陵前で法会が催されていた。鎌倉時代、現在地に「延喜御陵」として描かれている。(勧修寺『山城国宇治郡山科条里図』)。江戸時代後期、1862年-1863年、文久の修陵で修補されている。 59 宇多天皇(在位:887-897)→60 醍醐天皇(在位:897-930)→61 朱雀天皇(在位:930-946) *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『山科の歴史を歩く』 、『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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