石川丈山の墓 (京都市左京区) 
The grave of ISHIKAWA Jozan
石川丈山の墓 石川丈山の墓
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「史跡石川丈山墓」の石標
  石川丈山の墓


石川丈山の墓


石川丈山の墓
 東山の瓜生山の西の山、舞楽山(中山)の中腹に、江戸時代初期の文人・石川丈山(いしかわ じょうざん)が生前に自ら立てた墓(国史跡)がある。
 近くに門人・平巌仙桂(ひらいわ せんけい)の墓もある。 
◆歴史年表 江戸時代
、1641年、石川丈山は詩仙堂を建てた。
 1645年、丈山は舞楽寺(ぶがくじ)村に、祠を建て、頑仙祠(がんせんし)と名付けた。
 1672年、丈山没後、遺骸は当地に葬られる。
 近代、1928年、国の史跡に指定された。
◆石川丈山 安土・桃山時代-江戸時代の文人・石川丈山(いしかわ じょうざん、1583-1672)。三河生まれ。父は信定。源氏の流れを汲む三河・徳川家譜代の臣の家になる。16歳で徳川家康の近習になる。1600年、関ヶ原の戦いに出陣、家康の信望を得る。1615年、旗本として参戦した大坂夏の陣で、禁じられていた先陣争いで抜け駆けし一番槍りになる。家康の怒りを買い追放される。剃髪し、妙心寺に潜居した。1616年、母の病を看るため江戸へ出た。1617年、京都に戻り、友人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下になり朱子学を修めた。41歳より、安芸・浅野家に仕え後10数年に及ぶ。母没後辞した。相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」を結び隠棲、1641年、一乗寺村の庵に移った。庵には、林羅山、陶工・絵師の尾形乾山、第112代・霊元天皇なども訪れた。角倉素庵らとも親交した。1645年、舞楽寺村に祠を築き頑仙祠と名付ける。70歳で京都所司代・板倉重宗に、故郷での隠退を願い出るが許されなかった。以後、門戸を閉じたという。「渡らじな 瀬見の小川の 浅くとも 老の波そう 影もはづかし」。
 妻帯しなかった。兵法、剣術、鉾、鉄砲、馬術に優れた。詩文にも秀で「日東の李杜」といわれた。書は隷書、茶道にも長け、煎茶も嗜み「文人茶の開祖」といわれる。三亭(酒店、飯店、茶店)の始祖ともいう。作庭家としても活躍し、枳殻邸、一休寺、蓮華寺などの庭園の修復などに関わった。
野間三竹 江戸時代前期の儒医・野間三竹(のま さんちく、1608-1676) 京都生まれ。野間玄琢)の長男。1636年、法橋,、1638年、法眼、1640年、江戸幕府の奥医師に列し、東福門院(秀忠の娘・和子)に仕え、隔年で江戸に出仕した。1646年、家督を継ぎ、1668年、法印。儒学を松永尺五(せきご)に学ぶ。石川丈山と親交あり、詩友だった。父の遺稿を編した『群方類稿』、『古今考』などを著す。 蔵書印「白雲書庫」。病死とも、刺殺されたともいう。
◆平巌仙桂 江戸時代の儒者・平巌仙桂(ひらいわ せんけい)。詳細不明。京都に生まれた。石川丈山の門人、加賀藩の儒官。1672年、致仕し京都に戻る。
◆墓碑 石川丈山墓には、高さ2.4mの自然石が立つ。儒者・野間三竹の撰で「石聘君六六山人墓誌銘」と刻まれている。 


*人家に近い里山の森の中にあります。急な山道を少し登ります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の茶室 東山編』『昭和京都名所図会 3 洛北』 


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平巌仙桂の墓

平巌仙桂の墓
石川丈山の墓 京都市左京区一乗寺松原町付近の山中
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