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蓮華寺 (京都市左京区) Renge-ji Temple |
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蓮華寺 | 蓮華寺 |
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![]() 山門 ![]() ![]() ![]() ![]() 鐘楼堂 ![]() ![]() 鐘楼 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() ![]() 百体地蔵 ![]() 書院 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() ![]() ![]() ![]() 石橋 ![]() 舟石 ![]() 鶴石 ![]() 蓬莱山の石碑 ![]() 明かり燈篭 ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 蓮華寺型石灯籠 ![]() 蓮華寺型石灯籠 ![]() 【参照】雪の日の比叡山、高野川 |
旧若狭街道(国道367号線)沿いの上高野、比叡山の山容を望む高野川の畔に蓮花寺(れんげ-じ)はある。境内は1300坪(4297.5㎡)を有している。 洛北蓮華寺、池の寺とも呼ばれる。山号は帰命山(きみょうざん)という。 天台宗延暦寺派の末寺、本尊は釈迦如来像。 京都洛北・森と水の会。御朱印が授けられる。 アメリカ合衆国の日本庭園専門誌"Sukiya Living Magazine, The Journal of Japanese Gardening"の「しおさいプロジェクト」「日本庭園ランキング(数寄屋生活空間)」に、2003年に第4位に選ばれている。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 年代不詳、かつて時宗の古寺だったという。旧地は、下京区、西八条塩小路(七条塩小路とも)付近にあり、方一町の寺地を有し、西来院という院号だったという。当初は時宗だった。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失する。その後、荒廃した。 江戸時代、現在地(左京区)は、加賀藩、前田利家家老・今枝重直(1554-1628/1627)の隠居所になっていた。重直は、藩主・前田利家の娘・富姫(八条宮智忠親王妃)に従い一時、京都に移り住んだ。 1662年、重直の孫・今枝近義は、祖父(父・直恒とも)の遺志を継ぎ、菩提のために草庵を寺とした。蓮華寺をこの地に移し、開山は延暦寺・実蔵坊実俊(じつぞうぼう-じっしゅん)を迎えたともいう。寺名は、境内にあった廃寺の寺号に由来するともいう。再興の際には多くの文人が協力した。 1666年、近義は庭池に木下順庵銘文、石川城篆額の顕彰碑を立てている。 1681年、黒川道祐が訪れ『北歴覧之記』中『近畿游覧誌』に記している。 1786年、『拾遺都名所図会』に境内図が描かれている。 近代、1872年まで、境内の土蔵は寺子屋として使われていた。 現代、1978年、仏師・西村公朝により、本堂天井に龍図が復元された。 ◆今枝 重直 室町時代後期-江戸時代前期の武将・今枝重直(いまえだ-しげなお、1554-1628/1627)。男性。初名は定直、通称は弥八。 美濃(岐阜県)の生まれ。父・斎藤道三の家臣・今枝忠光。織田信長に仕え、1570年、姉川の戦い、1571年、伊勢長島、1575年、長篠の戦いに加わる。1582年、信長没後、次男・信雄に仕え、1584年、小牧・長久手の戦いに出陣。後、豊臣秀吉・秀次に仕えた。1594年、従五位下内記に叙任、豊臣姓を賜る。1595年、秀次没後、前田利長に仕えた。1598年、日置忠勝の5男・直恒を養子とした。1600年、関ヶ原の戦、1614年、大坂冬の陣、1615年、大坂夏の陣に加わる。1619年、隠居し、家督を直恒に譲った。金沢で亡くなる。74歳。 仏法に深く帰依し、得度後、宗二居士と称した。茶道を嗜み、石川丈山、狩野探幽と交わり、この地に隠棲した。 ◆富姫 江戸時代前期の富姫(ふうひめ、1621-1662)。女性。院号は真照院。加賀(石川県)の金沢城に生まれる。父・加賀藩主・前田利常、母・珠姫の4女。1642年、叔母・東福門院の養女になり、22歳で八条宮智忠親王に輿入れする。親王の御殿(桂離宮)は、前田家の援助により修造された。子はなく、1654年、後水尾院(第108代)皇子・穏仁親王が猶子にる。1662年、親王が亡くなり、同年に死去した。41歳。 墓所は野田山前田家墓所(金沢市)にある。 ◆実蔵坊 実俊 江戸時代前期の天台宗の僧・実蔵坊 実俊(じつぞうぼう-じっしゅん、?-?)。詳細不明。男性。延暦寺僧だった。1662年、洛北の蓮華寺の開山になる。 ◆今枝 直恒 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・今枝 直恒(いまえだ-なおつね、1587-1652)。男性。本姓は日置(へき)、通称は民部。 父・池田家家老・日置忠勝、母・今枝忠光の娘の5男。1598年、12歳で伯父・前田家家老・今枝重直の養子になる。前田利長、利常に仕えた。1614年、大坂冬の陣、1615年、大坂夏の陣に出陣した。1623年、世子光高の守役、1645年、光高の臨終に際し世子綱紀の守役になる。65歳。 ◆今枝 近義 江戸時代前期の武将・今枝 近義(いまえだ-ちかよし、1614-1680)。男性。名は直治、直賢、直友、通称は弥平次、民部。父・今枝直恒。重直の孫。1635年、元服した。1642年、宗門奉行になる。1652年、父・直恒の死去により家督相続。加賀金沢藩の5代藩主・前田綱紀に仕え、家老になる。1657年、明暦の大火の際に、江戸藩邸藩士を指揮し防火した。1662年、蓮華寺を再興した。1667年、病のため家老職を辞職する。1675年、隠居し養子・直方に家督を譲る。1662年、桂宮別荘の完成に協力した。66歳。 茶道に造詣深く、人脈広く、寺の再興の際には、文人・石川丈山らが尽力した。 ◆山号 山号の蓮華寺とは、蓮華蔵に由来する。蓮の花は仏の世界を表す。奈良東大寺の盧舎那仏は本源として蓮華座に坐し、自身を変化させた千の釈迦が各世界で説法しているとしている。 現在地に同名の廃寺があり、その名を継承したともいう。 ◆仏像 ◈本堂、須弥壇に「阿弥陀三尊」を安置する。本尊「釈迦如来坐像」(60㎝)は、螺鈿の厨子内に納められている。金銅仏であり、左右に黄檗宗・隠元の簾「本源宗正派」「覚苑永長春」が掛る。螺鈿は明朝初期作、側面上部に松竹梅図、下部に花鳥図が施されている。 ◈左に、鎌倉時代の「阿弥陀如来像」が安置され、上品下生印を結ぶ。台座と光背は江戸時代の後補、須弥壇は近年の後補による。 ◈右の螺鈿厨子内に、秘仏「不動明王像」が安置されている。厨子文様は立華図、右に石榴文様で寿、左に枇杷文様で福が描かれている。 ◆文人 蓮花寺の建立に際しては、当時の文人が協力している。 朱子学者・木下順庵(1621-1699)、石川丈山(1583-1672)、黄檗宗開祖・隠元隆琦(1592-1673)、黄檗宗2世・木庵性瑫(?-1684)、画家・狩野探幽(1602-1674)、近郊の八瀬童子なども関わった。 ◆建築 本堂、鐘楼堂、井戸屋形は、再興時に建てられている。安土・桃山時代の様式を伝える。 ◈「本堂」は黄檗禅様式、柱はケヤキ材、壁はヒノキ材、床は四半敷瓦、寺号の扁額は石川丈山筆による。 ◈「鐘楼堂」は、黄檗宗萬福寺の様式を継いでいる。格子、むくり破風。釣鐘には「黄檗二世 木庵性瑫山僧」の銘が入る。宝形造、檜皮葺。 ◈「庫裏」、阿弥陀三尊を安置する中間、「書院」が一棟になる。 ◈「山門」は、創建当時の建立による。 ◈「土蔵」は近代、1871年の学制がしかれる以前は、寺子屋として使用されていた。 ◆庭園 書院前の池泉式回遊・観賞式庭園は約400坪(1322㎡)の広さがある。作庭者は不詳、小堀遠州、実俊、石川丈山ともいう。再建時の江戸時代前期、寛文年間(1661-1672)の作庭とみられている。安土・桃山時代の様式とともに、江戸時代前期の様式も加わる。 庭の背後(東)に深い森が迫り庭は閉じられている。庭一面に苔が自生している。「水」の字をかたどった水字形という池泉には高野川より水が引かれている。池は境内の三分の一の面積を占める。水路は、江戸時代初期、京都代官・五味藤九郎豊旨により拓かれた。 池の中央に中島の亀島がある。左後方(東北部)に蓬莱山の岩組があり、茂みの中、亀の背に石碑「朝散大夫内史今枝府君碑」(3m)が立てられている。今枝重直の一代記が刻まれた石碑であり、木下順庵の撰文、石川丈山の篆額がある。作庭当初は、この碑を中心にした池泉の庭だった。 亀には耳があり、麒麟と合体した姿であるという。地を支配するという亀は、天を支配するという麒麟と一体となる。宇宙全体が未来永劫に存することを意味する。池中に北より亀頭石、亀島に接して立石による鶴石、舟石がある。亀島には南より石橋が架かる。 手前右手(南西)には、舳先を上げた入舟の形をした舟石(ふないし)が池中に置かれている。室町時代の枯山水式庭園の手法になる。出舟ではなく入舟の例は珍しいという。これは、浄土世界は対岸の彼岸ではなく、此岸(しがん、現世)にあることを教えている。 書院の前方の亀島に唐様大丸形(唐人帽丸形)、その延長線上の池畔に、小丸形(唐人帽丸形)が据えられている。小丸形は大丸形の半分の大きさであり、これら2基を並べることで、庭の遠近感を強調している。さらに、池の北に唐人笠琴柱形も据えられている。池の南東には石造五重塔、宝篋印塔、石仏(大日如来、如意輪観音)などが立つ。 書院北に北庭があり、茶席がある。 ◆燈籠・碑 ◈2基の本歌「蓮華寺型石燈籠」(2m)が本堂南前に立てられている。基礎は六角形、竿は丸竿、火袋、笠(板葺の板文)は窄まったような急勾配の六角形になっている。宝珠は後補により、丸い燈籠になる。笠の降り棟の先に蓮華紋があり、9段の屋根葺になる。江戸時代の茶人が好んだ。江戸時代の茶人が好んだ。 ◈庭園の亀島、池畔に唐様大丸形、小丸形、唐人笠琴柱などの燈籠がある。 ◈亀島には寺創立の顕彰碑「朝散大夫内史今枝府君碑」があり、石川丈山、木下順庵の題字と撰文による。「従五位下能筆家亡父の碑」の意味になる。 ◆文化財 ◈かつて、今枝近義寄進の室町時代の紙本著色「山王霊験記」2巻(重文)を蔵していた。現在は、久保惣記念美術館(和泉市)に移されている。 ◈「東塩小路蓮華寺文書」、狩野探幽(1602-1674)筆「今枝重直像」狩野探幽筆「庭園古絵図」。 ◈「釣鐘」は、裾が蓮の花弁の波状になる。「黄檗二世 木庵稲山僧」の銘文が入る。 ◈本堂の天井画は、かつて絵師・狩野探幽筆の龍図だったという。その後失われた。現代、1978年に仏師・西村公朝(1915-2003)により復元された。 ◈本堂に大厨子があり、漆塗りに螺鈿を施している。草花に鳥が宿り、蝶が舞う。明より伝来したものという。 ◈本堂須弥檀に、狩野探幽原画の「牡丹唐獅子」という無色の毛彫がある。 ◆道祐 江戸時代の医師・黒川道祐(?-1691)は、当寺を訪れ次のように記している。「庭に池水あり、中島に今枝宗二の石碑あり、銘文は儒学者木下順庵、篆額は石川丈山、本堂の額は黄檗隠元禅師」(「東北歴覧之記」中「近畿游覧誌」)。 ◆百体地蔵 境内に百体地蔵が祀られている。中央には地蔵菩薩像、周囲に大日如来像が300体ほどあるという。 これらは、河原町通の路面電車敷設に伴う工事の際に土中より堀り出された。 ◆文学 渡辺淳一『化粧』には、当寺での紅葉狩りが描かれている。 ◆花暦 境内、庭園に楓の樹が多く植栽されており、紅葉の名所になる。初秋に自生している秋明菊(貴船菊)が花開く。 そのほかの草花としては、3月にセリバオウレン、ハルトラノオ、ショウジョウバカマ、ヒトリシズカ、バイカオウレン、ニリンソウ、エンレイソウ、ホトトギス、イカリソウ、カタクリ、ヤブレガサ、4月にシャクナゲ、フタリシズカ、マイヅルソウ、シャガ、オオタツナミソウ、ミヤコワスレ、シライトソウ、エビネラン、6月にヤマアジサイ、ミヤマアジサイ、ナツツバキ、ホトトギス、キブネギク、11月にイチョウ、モミジなど。 ◆年間行事 年始(1月1日-3日)、春季彼岸会(3月23日)、盂蘭盆会(8月13日-16日)、施餓鬼(8月24日)、秋季彼岸会(9月22日)、十夜・天台大師会(11月24日)。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *大部分の建物、庭園の一部は現在撮影禁止。掲載写真の一部は撮影禁止以前に撮影しています。 *参考文献・資料 『京の古都から 18 蓮華寺』、『京の石造美術めぐり』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都・美のこころ』、『京都 四季の庭園』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『京都府の歴史散歩 中』、『日本庭園をゆく 5 修学院』、『京都の隠れた御朱印ブック』、「蓮華寺案内」 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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