奉先堂碑 (京都市左京区二ノ瀬)
ruins of Hosendo
奉先堂碑 奉先堂碑 
50音索引   Home 50音索引   Home

奉先堂碑


裏の杉林


【参照】大日大聖不動尊


【参照】大日大聖不動尊の滝

 鞍馬街道の二ノ瀬、大日大聖不動尊の参道脇、山間を走る叡山電鉄鞍馬線路傍に、江戸時代の儒学者・林羅山(はやし らざん)に関わる奉先堂(ほうせんどう)跡がある。 
 ただ、羅山は二ノ瀬に過ごしたことはなく、林家の領地があった。いまは建物はなく、篆額の「奉先堂」碑だけが残されている。
◆歴史年表 江戸時代、1611年、儒学者・林羅山が徳川家康より二ノ瀬に領地を与えられた。以後、二ノ瀬の村高35石すべては林家の知行地になる。
 1674年、林羅山の孫・林鳳岡(はやし ほうこう)は、庄屋・今江八兵衛清長に命じ、家廟の堂を建て「奉先堂」と名付けた。羅山の遺品、著作物、遺像を納めた。以来、林家歴代の命日に供物があった。堂は里人により守られる。ほかに羅山の子・叔勝らのために「三哀堂(さんあいどう)」が建てられた。「観薦堂(かんせんどう)」も建てられていた。
 1758年、現在の碑が建立されている。
 近代以降、堂は荒廃した。その後、建物は破却され、資料は今江家を経て、現在は京都市歴史資料館(上京区)に移され保管されている。
◆林羅山 江戸時代初期の儒学者・林羅山(はやし らざん、1583-1657)。京都生まれ。父は加賀郷士末裔で浪人、幼くして養子に出される。1595年、建仁寺に入り、大統庵・古澗慈稽、十如院・英甫永雄(雄長老)に師事、1597年、出家を拒否し家に戻る。1604年、角倉素庵の仲介で藤原惺窩(せいか)に儒学、朱子学を学ぶ。1605年、惺窩の推挙により二条城で徳川家康に謁見した。1606年、イエズス会日本人修道士・イルマン・ハビアンと論争し、地球方形説と天動説を主張した。1607年、家康命により剃髪し道春と称し仕える。2代将軍・秀忠に講書を行う。1614年、大坂の役に際し、方広寺鐘銘事件で家康に追従し勘文を作る。1624年、3代将軍・家光の侍講となる。1632年、幕府より与えられた地、江戸上野忍岡に私塾学問所、孔子廟などを建て、先聖殿(後の忍岡聖堂、昌平坂学問所)と称した。1635年、武家諸法度を起草した。1657年、明暦の大火により神田本邸の文庫を焼失、落胆し4日後に急逝した。
 幕府儒官林家の祖といわれる。朱子学、儒学の官学化に貢献し、近世儒学の祖になる。幕藩体制の身分秩序を位置づける役割を果たす。家康以来、将軍4代に仕え、伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集、「諸士法度」などの法令制定、外交文書起草、典礼調査、朝鮮通信使の応接、オランダ、シャムとの通信、教育、文化にも幅広く関与した。幕命で「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」を編修した。
 生誕地は中京区新町通錦小路上ルとされる。場所は確定されていない。
◆林鳳岡 江戸時代中期の儒学者・林鳳岡(はやし ほうこう、1644-1732)。江戸生まれ。儒学者・林鵞峰の次男、羅山の孫。1680年、職禄を継ぎ大蔵卿法印、弘文院学士。幕府4代将軍・徳川家綱-8代将軍・吉宗まで5代に仕えた。特に5代将軍・綱吉の文政に関与した。1691年、湯島に移された官学・湯島聖堂の大学頭に任じられた。聖堂学問所(後の昌平坂学問所)を管掌し、以後、大学頭は林家が世襲した。講学、幕府の文書行政に参与、朝鮮通信使の応接をした。
◆石碑 「奉先堂」の石碑は、江戸時代、1758年に立てられた。撰文は林信吉による。自然石、高さ1.5m。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『史跡探訪 京の七口』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 3 洛北』「市民しんぶん左京区版 2014年9月15日号」


   関連・周辺     周辺     関連       
奉先堂碑 〒 京都市左京区鞍馬二ノ瀬町 位置座標 北緯35度05分55.7秒/東経135度45分42.7秒(世界測地系) 
  Home    Home 
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光