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奉先堂碑 (京都市左京区二ノ瀬) Site of Hosendo |
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奉先堂碑 | 奉先堂碑 |
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![]() 奉先堂碑 ![]() 裏の杉林 ![]() 【参照】大日大聖不動尊 ![]() 【参照】大日大聖不動尊の滝 |
鞍馬街道の二ノ瀬、大日大聖不動尊の参道脇、山間を走る叡山電鉄鞍馬線路傍に、江戸時代の儒学者・林羅山(はやし -らざん)に関わる奉先堂跡(ほうせん-どう-あと)がある。 ただ、羅山は二ノ瀬に過ごしたことはなく、林家の領地があった。いまは建物はなく、篆額の「奉先堂」碑だけが残されている。 ◆歴史年表 江戸時代、1611年、儒学者・林羅山が徳川家康より二ノ瀬に領地を与えられた。以後、二ノ瀬の村高35石すべては林家の知行地になる。 1674年、林羅山の孫・林鳳岡(はやし ほうこう)は、庄屋・今江八兵衛清長に命じ、家廟の堂を建て「奉先堂」と名付けた。羅山の遺品、著作物、遺像を納めた。以来、林家歴代の命日に供物があった。堂は里人により守られる。ほかに羅山の子・叔勝らのために「三哀堂(さんあいどう)」が建てられた。「観薦堂(かんせんどう)」も建てられていた。 1758年、現在の碑が建立されている。 近代以降、堂は荒廃した。その後、建物は破却され、資料は今江家を経て、現在は京都市歴史資料館(上京区)に移され保管されている。 ◆林 羅山 安土・桃山時代-江戸時代前期の儒学者・林 羅山(はやし-らざん、1583-1657)。男性。名は信勝、字は子信、通称は又三郎、別号は道春、羅浮子、浮山、羅洞など。京都の生まれ。父・加賀郷士末裔で浪人。幼くして養子に出される。1595年、建仁寺に入り、13歳で大統庵・古澗慈稽、14歳で十如院・英甫永雄(雄長老)に師事した。1597年、出家を拒否し家に戻る。1604年、角倉素庵の仲介で藤原惺窩(せいか)に儒学、朱子学を学ぶ。1605年、惺窩の推挙により二条城で徳川家康に謁見した。1606年、イエズス会日本人修道士・イルマン.ハビアンと論争し、地球方形説と天動説を主張した。1607年、家康命により剃髪し道春と称し仕える。2代将軍・秀忠に講書を行う。1614年、大坂の役に際し、方広寺鐘銘事件で家康に追従し勘文を作る。1624年、3代将軍・家光の侍講になる。1632年、幕府より与えられた地、江戸上野忍岡に私塾学問所、孔子廟などを建て、先聖殿(後の忍岡聖堂、昌平坂学問所)と称した。1635年、武家諸法度を起草した。1657年、明暦の大火により神田本邸の文庫を焼失し、落胆し4日後に急逝した。75歳。 幕府儒官林家の祖といわれる。朱子学、儒学の官学化に貢献し、近世儒学の祖になる。幕藩体制の身分秩序を位置付ける役割を果たした。家康以来、将軍4代に仕え将軍の侍講になった。伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集、「諸士法度」などの法令制定、外交文書起草、典礼調査、朝鮮通信使の国書起草・応接、オランダ・シャムとの通信、教育、文化にも幅広く関与した。幕命で『寛永諸家系図伝』『本朝編年録』を編修した。 生誕地は中京区新町通錦小路上ルとされる。場所は確定されていない。 ◆林 鳳岡 江戸時代前期-中期の儒学者・林 鳳岡(はやし-ほうこう、1644-1732)。男性。名は信篤、字は直民、春常、別号は整宇。江戸の生まれ。父・儒学者・林鵞峰の次男、羅山の孫。1680年、職禄を継ぎ大蔵卿法印、弘文院学士。幕府4代将軍・徳川家綱-8代将軍・吉宗まで5代に仕えた。特に5代将軍・綱吉の文政に関与した。1691年、湯島に移された官学・湯島聖堂の大学頭に任じられた。聖堂学問所(後の昌平坂学問所)を管掌し、以後、大学頭は林家が世襲した。講学、幕府の文書行政に参与、朝鮮通信使の応接をした。著『四書講義』、編著『武徳大成記』。89歳。 ◆石碑 「奉先堂」の石碑は、江戸時代中期、1758年に立てられた。撰文は林信吉による。自然石、高さ1.5m。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都大事典』、『史跡探訪 京の七口』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、「市民しんぶん左京区版 2014年9月15日号」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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