大谷本廟 (西大谷) (京都市東山区)
Otani-hombyo Temple
大谷本廟 大谷本廟
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円通橋






円通橋












総門


総門


総門


総門












仏殿(本堂)



仏殿(本堂)






二天門



八角堂


八角堂、祖壇の奥にある。





祖壇



明著堂い。


明著堂、扁額


明著堂、さらに奥に祖壇がある。


 五条坂、東山の中腹にある大谷本廟(おおたに-ほんびょう)は、大谷の旧称を踏襲し「西大谷(にしおおたに)」と称される。正式には「本派本願寺別院」と呼ばれている。
 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の親鸞廟所(墓所)になる。親鸞が荼毘に付されたという鳥辺野の南とされている。歴代宗主、門末の墓もある。 
◆歴史年表 鎌倉時代、1263年1月16日(旧暦11月28日)、浄土真宗開祖・親鸞は、弟・尋有僧都(じんう-そうづ)の住坊「善法坊」(現在の角坊別院)で亡くなる。
 1263年1月17日、本願寺派によると、親鸞の遺骨は鳥辺山南辺(現在の大谷本廟御荼毘所付近、延仁寺)で火葬された。翌日、遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」の地(知恩院付近)に葬られた。当初は、石造笠塔婆に周囲を木柵で囲った簡素なものだったという。
 1272年、親鸞の末娘・覚信尼(初代留守職、るすしき)、門弟らは、墳墓を改葬し、吉水の北辺(現在の崇泰院の裏庭付近、覚信尼の夫・小野宮禅念の所有地)に遷し、「大谷廟堂」と呼んだ。六角の廟所には、親鸞の遺骨と影像が安置された。このためこの地は「元大谷」と呼ばれる。
 1274年、元大谷を覚信尼に譲ったという。
 1277年、覚信尼は3度に渡り、宗祖の墓所として寄進することを東国の門弟に通達した。門弟に代わり廟堂を護持する任(後の「留守職」)に就く。
 1295年頃、親鸞木像(御真影)が安置され、「大谷影堂」と呼ばれる。本願寺の発祥になる。
 1312年、3代・覚如は、青蓮院の法智の勧めにより「専修寺」の額を掲げる。比叡山の反対により撤去する。 
 1321年、覚如は、大谷廟堂を寺院化し、「本願寺」と号した。本願寺が成立した。
 室町時代、1465年、比叡山衆徒による本願寺破却(「寛正の法難」)の際にも、墓塔は守られた。この時、蓮如は山科に本願寺を再興し、本廟と本願寺は別立になった。
 安土・桃山時代、1589年、大谷廟堂が再興されたともいう。
 江戸時代、1603年、12代・准如の宗主の時、徳川家康による知恩寺域の大拡張に伴い、幕命により本廟(廟堂)は東山五条坂西大谷(現在の大谷本廟の地、延年寺山西麓)に移された。以後、この地は「大谷(北鳥部)」と称された。境内は24丈四方にあり、寺領1石余を有した。
 1605年、仏殿が建立される。
 1660年、西方30歩に仏殿(本堂)改築が始まる。
 1661年、仏殿(本堂)が建てられる。13代・良如自刻の仏像を本尊にした。輪番所が置かれる。鐘楼(鼓楼)が建てられる。九条の西光寺の願いにより、祖廟の外に墳塔を営むことを許可し、大谷墓地が始まる。祖墳を南谷(現在地)に移転する。
 1662年、親鸞廟墳の北に、11代・顕如、南に12代・准如の墳が造られた。以後、歴代宗主の墓が造られる。
 1669年、茶所(接待所)が建てられた。
 1673年、福井別院の本尊を遷した。
 1694年、14代・寂如の時、新たに廟堂を建立する。この頃、本廟の報恩講(大谷会、本廟報恩講)が営まれる。21代・明如以来、これを「龍谷会」と称した。
 1698年、廟塔に「祖壇」の扁額を掲げる。
 1702年、14代・寂如は「龍谷山」の山号の扁額を書し、仏殿に掲げる。山号は、「おおたに(豅)」に因む。
 1709年、寂如の時、廟塔前に拝堂(明著堂)を建立する。
 1710年、総門が建てられた。
 1716年、寂如の時、「明著堂」の額を書し、拝堂正面に掲げる。以後、明著堂と呼ばれた。
 1724年、玄関、対面所、聴聞所、納骨堂が造られる。
 1771年、境内11295歩あり、8000基の墓塔が並んだ。
 1860年、20代・広如の時、総門に九条尚忠筆の扁額「大谷本廟」を掲げる。
 1867年、二天門より出火し、仏殿、玄関、対面所、奥書院、輪番所、納骨堂、香積などを焼失する。
 近代、1870年、現在の仏殿、仮書院、香積、納骨所が再建された。
 1872年、21代・明如の時、二天門を再建する。
 1899年、書院を再建した。
 1908年、対面所、聴聞所、手水屋形、通用門が建てられた。
 現代、1969年、第一無量寿堂(納骨所)、会館が造営される。
 1990年、新無量寿堂(第二無量寿堂)が建てられた。
◆親鸞 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。法名は範宴、綽空、善信、諡は見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で亡くなったという。浄土真宗の祖。90歳。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆覚信尼 鎌倉時代中期-後期の浄土真宗の尼僧覚信尼(かくしんに、1224-1283)。俗名は王御前。常陸国に生まれた。親鸞の末娘、母は恵信尼。1235年頃、親鸞と共に東国より帰京した。その後、久我通光に女房として仕え、兵衞督局と称した。日野広綱の側室になり、1239年、覚恵、光玉を産む。1250年頃、夫没後、両親と同居した。1254年頃、母・恵信尼は越後に帰り、覚信尼は親鸞と暮らす。1262年、親鸞の没後、葬送、拾骨を取り仕切る。その後、小野宮禅念と再婚し、吉水北辺(崇泰院付近)の大谷に住んだ。1266年、唯善を産む。1272年、東国門弟の協力を得て、大谷の親鸞墓を居住地に移し、親鸞の廟堂(影堂、京都廟堂、大谷廟堂)を建立する。遺骨、影像を安置した。本願寺の始まりになる。1274年以後、覚信尼と子孫は、廟堂の留守職(管理権)になる。1275年、夫の禅念は敷地を覚信尼に譲り没した。1277年、廟堂の所有権は親鸞門弟に寄進され、廟堂の留守職(るすしき、管理権)は覚信尼、子孫に留保される。1283年、留守職を息子の覚恵に譲り没した。60歳。
 覚信尼の死後、留守職をめぐり覚恵・覚如父子、唯善の間で争いが起こる。(唯善事件)
◆八尋不二 近現代の脚本家・八尋不二(やひろ-ふじ、1904-1986)。福岡県生まれ。明治大学政経学部中退、1927年、マキノ・プロダクション御室撮影所で「学生五人男」が初脚本になる。1928年、東京・河合映画製作社に入社、1931年、京都・帝国キネマに移籍する。1934年、脚本家8人で鳴滝村に「鳴滝組」を結成した。山中貞雄、萩原遼らと共同ペンネーム「梶原金八」を使う。1937年、組の活動を停止した。1939年、「沼津兵学校」、1942年、「大村益次郎」、1947年、東横映画で「金色夜叉」、1954年、溝口健二監督「山椒大夫」(ベニス映画祭銀獅子賞受賞)、1958年、忠臣蔵物の最高傑作「忠臣蔵」、1960年、秀作「千姫御殿」を手がけた。監督・伊藤大輔らと雑誌『時代映画』を編集・発行した。500本の脚本を執筆した。82歳。
 墓は西大谷墓地(東山区)にある。
◆建築 ◈「総門(唐門)」は、江戸時代、1710年に建立された。
 近代、1870年、現在の仏殿(本堂) が再建される。1872年、二天門を再建する。1899年、書院を再建した。1908年、対面所、聴聞所、手水屋形、通用門が建てられた。現代、1969年、第一無量寿堂(納骨所)、会館が造営される。1990年、新無量寿堂(第二無量寿堂)が建てられた。
 ◈「祖廟(祖壇)」には、親鸞の遺骨とともに、本願寺歴代、門徒の遺骨が納められている。
 ◈「八角堂」は祖壇の奥にある。
 ◈「明著堂」は、東西5間、南北10間、内部に柱がない。さらに奥に祖壇がある。江戸時代、1709年の14世・寂如筆の扁額が掲げられている。
 ◈守真所、鐘楼、鼓楼などが建つ。
◆石窟
 本廟内石窟は、親鸞が学問をした場所という。江戸時代の『京童跡追無』(1667)に記されているという。
 石窟は親鸞の廟堂(大谷廟堂)のあった祟泰院付近より移されたという。(『大谷本願寺通記』(1785)。入口付近に漆喰の跡、踏石があり、かつては扉が付けられていた。石材には、江戸時代の石仏、五輪塔、小形板碑などが使われているという。
◆文学 鳥辺野(とりべの)は、清水寺南より今熊野一帯の丘陵地をいう。『源氏物語』第4帖「夕顔」巻では、鳥辺野で夕顔の葬送が営まれた。葵の上は荼毘に付された。 
◆円通橋 円通橋は皎月(こうげつ)池に架かる。側面から見ると眼鏡橋になっている。江戸時代後期、1856年に竣工された。大坂播磨屋五兵衛寄進による。
 橋脚はなく、橋板石を敷き詰めたアーチがある。江戸時代としては珍しい。勾欄付。長さ40m、幅6m。
◆景清姿見の井戸 景清姿見の井戸は、かつて皎月(こうげつ)池の西南隅付近にあったという。
 平安時代末期の武将・平景清(たいら-の-かげきよ、? -1196) は、悪七兵衛とも呼ばれた。平維盛(これもり)らに従い源義仲・行家らと戦う。平氏滅亡後は源頼朝に降りる。八田知家(はった ともいえ)に預けられ断食して死んだという。謡曲・歌舞伎に脚色される。
 井戸は景清が捕らえられていたという「牢の谷」の北に当たる。景清はこの井水を用いていたという。その後、五条バイパスの開通により消滅した。
◆大賀蓮
 境内に大賀蓮(古代の蓮)が植えられている。1951年、当時の東京大学検見川厚生農場(落合遺跡)で、遺跡調査をしていた女子中学生により、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒が発見された。実は、約2000年前、弥生時代のものと確定される。
 ハスの権威者・大賀一郎博士(1883-1964)は発芽を試みる。2粒は失敗に終わり、残りの1つが発芽し、翌年にピンク色の花が開いた。その後、大賀蓮は「世界最古の花」として国際的な話題を呼び、世界各国へ根分けされている。
◆樹木 ソテツがある。
◆映画 映画「ゴー!ゴー!若大将」(主演・加山雄三、監督・岩内克己、1967年、宝塚)では、全日本学生ラリー選手権の場面で、大谷本廟横の国道1号線が登場する。
◆墓 僧・下間蓮位(しもつま-れんい 、?-1278)、俳人・安室貞室(やすはら -ていしつ、1610-1673)、画家・徳力善雪(とくりき-ぜんせつ、1599-1680)、俳人・富野似船(とみお-じせん、1629-1705)、儒学者・浅見絅斎(1652-1712)、画家・吉村蘭陵(よしむら-らんりょう 、1769-1836)、蘭方医・日野鼎哉(ひの-ていさい、1797-1850)、公卿家臣・島田左近(しまだ-さこん、?-1862)、西本願寺用人・尊攘派・松井中務(まつい-なかつかさ、1809-1863)、西本願寺侍臣・尊攘派・西村兼文(にしむら-かねふみ、1832-1896)、作家・司馬遼太郎(しば-りょうたろう、1923-1996)、脚本家・八尋不二(やひろ- ふじ、1905-1986)、陶工・清水六兵衛塁世、陶工・清水七兵衛などの墓がある。
◆年間行事 春季彼岸会(3月17日-23日/ 18日-24日)、総追悼法要(4月17日-18日)、覚信尼祥月法要(5月11日-12日)、納骨・永代法要(6月25日-28日)、朝の法座(8月6日-10日)、盂蘭盆会(8月14-15日)、秋季彼岸会(9月20日-26日)、龍谷会(報恩講)(10月15-16日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『昭和京都名所図会 1  洛東 上』、『京都の寺社505を歩く 上』、『源氏物語を歩く旅』、『京都の地名検証』、『京都市の地名』、『龍馬&新選組 京都幕末案内 』、『シネマの京都をたどる』、『京都シネマップ 映画ロマン紀行』、『京都 神社と寺院の森』、ウェブサイト「コトバンク」


親鸞御荼毘所(御荼毘所)  肉弾(爆弾)三勇士の墓    崇泰院   西本願寺  大谷祖廟  京都種痘術創始五十年紀念碑     

鐘楼

守衛室

戦没者記念堂

親鸞像


覚信尼公碑

殉教碑

本廟内石窟、親鸞が学問をした場所という。

本廟内石窟内部

大賀蓮(古代の蓮)

東山

大谷墓地

司馬遼太郎(福田 定一)の墓、南谷

司馬遼太郎の墓
 
大谷本廟 〒605-0846 京都市東山区五条橋東6丁目514  075-531-4171
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