京都種痘術創始五十年紀念碑 (京都市中京区)  
A memorial monument of Founding of vaccination of Kyoto
京都種痘術創始五十年紀念碑 京都種痘術創始五十年紀念碑
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京都種痘術創始五十年紀念碑、京都市の駒札


京都種痘術創始五十年紀念碑


京都種痘術創始五十年紀念碑、台石


京都種痘術創始五十年紀念碑

京都府医師会館

京都府医師会館
 京都府医師会館の前庭内に、「京都種痘術創始五十年紀念碑(きょうと-しゅとうじゅつ-そうし-ごじゅうねんきねん-ひ)が立てられている。碑には「京都種痘術紀念創始五十年」と刻まれている。
◆歴史年表 江戸時代、弘化年間(1844-1848)、京都で痘瘡が流行した。
 1849年、9月、鼎哉は牛痘法の早期導入を進め、長崎から痘苗を取り寄せた。孫に接種し効力を確認した。京都で牛痘法による種痘が試みられた最初になる。10月、日野除痘館(中京区新町三条下ル頭町)を開設した。
 1850年、5月24日、鼎哉が亡くなり、西大谷墓地(東山区)に葬られる。
 近代、1898年、11月11日、大徳寺(北区)で種痘創始50年記念祭を行う。西大谷墓地の鼎哉の墓前で法要が行われ、祭典執行発起人有志の29人により碑が立てられた。
 現代、1950年、種痘伝来100年記念事業として、京都府医師会が鼎哉の墓石を再建した。碑は京都府医師会館内(上京区丸太町通智恵光院東入)に移設される。
 1966年、医師会館(中京区壬生高田町)が再移転し、碑も新会館内に移設される。
 2010年、10月、医師会館(中京区西ノ京栂尾町)の再々移転にともない、新会館内中庭に移設された。
◆日野鼎哉 江戸時代後期の蘭方医・日野鼎哉(ひの-ていさい、1797-1850)。号は暁碧、蔭香。豊後国(大分県)生まれ。郷里で儒者・理学者・帆足万里(ほあし-ばんり)に師事した。1824年、長崎に行き、医者・博物学者・シーボルトにオランダ医学を学んだ。1833年、京都で開業(東洞院通蛸薬師下ル)している。1849年、長崎のオランダ商館医・モーニケが牛痘苗の接種に成功し、鼎哉はその痘苗(モーニケ苗)を入手する。京都で孫らに接種して植え継ぐことに成功した。同年、日野除痘館(中京区新町三条下ル頭町)を開き、牛痘接種を行う。京都で牛痘法による種痘が試みられた最初になる。著『白神(ワクチン)除痘弁』。54歳。
 日野の植え継いだ痘苗は門人・笠原良策により福井、緒方洪庵(おがた-こうあん)により大坂に分苗され、それぞれ普及された。
 大谷墓地(東山区)に葬られた。
◆笠原良策 江戸時代後期-近代の医師・笠原良策(かさはら-りょうさく、1809-1880)。諱は良、字は子馬、号が白翁。越前国(福井県)生まれ。1829年、江戸で徳本流 (医師・永田徳本) の伝承者になる。古医方・磯野公道の塾に入門した。後、大武了玄に蘭学を学ぶ。京都の日野鼎哉に蘭方を学ぶ。1845 年、牛痘接種の必要を知り、藩主・松平春嶽に牛痘苗の輸入を上申した。1849 年、鼎哉が植え継いだ痘苗の一部を譲り受け福井に運び、北陸で種痘を実施した。71歳。
◆牛痘接種 1796年にイギリス人医師・エドワード.ジェンナー(1749-1823)が牛痘接種に成功した。
 江戸時代、1823年にドイツの医者・博物学者フィリップ.フランツ.フォン.シーボルト(1796-1866)は、牛痘苗を持参し来日した。長崎「鳴滝塾」の門人を集め、牛痘接種が行われた。ただ、痘漿(とうそう、痘瘡の水疱から出る膿汁)は、熱のためウイルスで死滅しており接種は成功しなかった。この場に日野鼎哉が居り、接種を見学している。
 1849年、佐賀藩医・蘭方医・楢林宗建(ならばやし-そうけん、1802-1852)の進言により、瘡蓋(かさぶた)の形でバタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)から輸入される。ドイツ人の蘭館医・オットー.モーニケ(1814-1887)は宗建の子らに接種し、種痘苗(モーニケ苗)は受け継がれた。
 1849年9月19日/22日、鼎哉、その門人・笠原良策は、唐通詞・熲川(えかわ)四郎八に種痘苗の輸入を依頼した。7月、四郎八は、長崎で自分の孫に種痘を行い、その瘡蓋を硝子瓶8個に入れて鼎哉に飛脚便で届けている。
 鼎哉は、自分の孫・朔太郎、門人・桐山元中の子に接種し、種痘苗を増やした。6日後に真痘と確認され京都初の種痘が成功した。10月16日、鼎哉は除痘館(中京区新町三条下ル頭町)を開設している。鼎哉、良策、桂洲ら22人が属していた。
 11月7日に大坂除痘館で分苗式を行っている。鼎哉の弟で医師・日野葛民(大坂道修町)、医学者・蘭学者・緒形洪庵(おがた-こうあん、1810-1863)の要請があった。以後は大坂、関西に分苗された。笠原は痘児2人を連れ、福井に帰り分苗している。
 京都の日野除痘館は、経済的な負担などにより開所2カ月後に閉鎖されている。1850年5月に、鼎哉は亡くなった。
◆碑 京都種痘術創始五十年紀念碑には、祭典執行発起人29人の名が刻まれている。朝臣俊介の書による。
 近代、1898年、最初の種痘から50年を記念し、日野鼎哉の西大谷墓前で法要がおこなわれた。現在の碑が、祭典執行発起人有志により立てられている。鼎哉の墓はすでに無縁墓になっており、棹石の部分は失われていた。その台石上に碑が立てられた。
 1950年、種痘伝来100年記念事業として、京都府医師会が鼎哉の墓石を再建した。碑は旧京都府医師会館内(上京区丸太町通智恵光院東入)に移設される。その後も2度の医師会館移転に伴い、碑も移されている。
◆京都医会 近代、1889年に京都医会発起人総会が開催される。1890年9月、設立総会(花見小路歌舞練場)が開かれた。会長・半井澄(なからい-さやか、1848-1898)、副会長・安藤精軒(あんどう-せいけん、1835-1918)、幹事・山田文友らが選ばれた。
 なお、1923年に日本医師会が設立されている。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、『増補版 京都の医史跡探訪』『京の医学』『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 京都種痘術創始五十年紀念碑 〒604-8418 京都市中京区西ノ京栂尾町(京都府医師会館内) 
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