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三本木 (京都市上京区) 
Sambongi
三本木 三本木 
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【参照】かつての花街の面影を残す付近の町家


立命館草創の地の碑


精輝楼(立命館草創の地の碑より)、前身は吉田屋、その後、大和屋といわれ、1997年まで旅館としてこの地に存在した。
 鴨川西岸、東三本木通(ひがしさんぼんぎどおり)には上之町、中之町、南町があり、三本木(さんぼんぎ)の併称になっている。 
◆歴史年表 平安時代以来、この地は平安京域外にあり、鴨川の氾濫原だった。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉の築いたお土居の内(西)に、寺院が移転させられる。
 江戸時代、1708年、宝永の大火後、公家町拡張に伴い、代替地としてこの地が与えられる。公家屋敷、幕府役宅などが建てられた。
 江戸時代中期、開発が進み、お土居は消滅する。後、新地として開かれ、旅館や料亭が軒を並べる遊廓街に変わった。
 江戸時代末、花街として賑わい、10軒ほどの料亭があった。長州、薩摩藩邸に近く、「吉田屋」(後の「清輝楼」、「大和屋」)は、勤王志士の密会所になる。
 1867年、「吉田屋」は、薩土盟約の舞台になる。坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通らが覚書を決定している。桂小五郎(木戸孝允)も出入りし、のちに夫人になる三本木の芸妓・幾松(松子)と知り合う。幾松は、近藤勇、新撰組に急襲された桂を、機転を利かせ穴蔵の地下通路から鴨川の河原に逃したという。
 1868年、三本木の芸妓・駒野は、三条河原で晒された新撰組組長・近藤勇のために、講釈師に追悼の一席を演じさせた。
◆木戸松子 江戸時代後期-近代の女性・木戸松子(きど-まつこ、1843-1886)。京都の生まれ。芸妓名は幾松、法名は翠香院。父は若狭(福井県)小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛、母は医師・細川益庵(太仲)の娘・末子。父は町奉行の祐筆をしており、藩内事件の責により妻子を残し京都へ出奔する。一家離散し母は実家に戻る。その後、母の再婚に伴い、1851年-1852年、上洛、一条家諸大夫の次男・難波常二郎(恒次郎)養女になる。1856年、14歳で三本木「吉田屋」より舞妓に出され、2代目・幾松の芸妓名を継ぐ。置屋「瀧中」に属した。勤皇芸者として売れっ子になる。1861年-1862年、桂小五郎(木戸孝允)と出会う。1864年、池田屋事件後、二条大橋に潜んだ桂に握り飯を届けたという。1864年-1865年、出石に潜伏した桂を迎えに行く。1870年、孝允と結婚、長州藩士・岡部富太郎の養女になり、木戸松子と名乗る。社交界に登場し鹿鳴館で注目を浴びた。1877年、孝允没後、出家し翠香院と号した。晩年は三本松の寓居に暮らした。44歳
 墓は夫・孝允とともに霊山護国神社内墓地にある。
◆駒野 江戸時代後期の女性・駒野(?-?)。詳細不明。三本木の芸妓として人気を博した。新撰組隊長・近藤勇の愛人になる。1868年、鳥羽・伏見の戦いで敗れた近藤は、下総流山の陣で捕らえられ、江戸板橋で斬首になる。首は、三条河原に運ばれ河原に晒された。駒野は、近藤追悼のために辻講釈師を雇い、河原で近藤一代記の一席を演じさせた。駒野は、官軍に捕らえられ、髪を切られ、京都を追放された。その後の行方は知れない。
 近藤との間に男児があり、東福寺に入った。僧侶になり父母を弔ったともいう。
◆志賀直哉 近現代の作家・志賀直哉(しが-なおや、1883-1971)。銀行員の父・直温(なおはる)の次男。母は銀。父の任地、宮城県石巻市に生まれた。1885年、一家で上京し、旧相馬藩家臣で足尾銅山の開発に関わった祖父・直道の家に同居した。祖父を敬愛し、祖母・留女(るめ)に育てられた。1889年、学習院初等科に入学する。後、中等科、高等科に進む。1895年、母が亡くなり、義母を迎えた。1901年、思想家・文学者・内村鑑三の教会を訪ね、以来交流があった。1902年、学習院で小説家・詩人・武者小路実篤、歌人・木下利玄らを知る。1906年、東京帝国大学文学部英文学科に入学し、小説家・里見弴と親交した。後に国文学科に転じる。1908年、処女作『或る朝』を発表した。1908年頃、7年間師事した鑑三のもとを去る。1910年、実篤らと同人雑誌『白樺』を創刊し、『網走まで』を発表した。東京帝国大学を中退し、徴兵検査の甲種合格により市川の砲兵連隊に入営した。すぐに除隊になる。1912年、『大津順吉』を書く。渡良瀬川の鉱毒事件被害地視察に関し、父と対立し広島県尾道市に移る。『暗夜行路』の前身になる『時任謙作』に着手した。1914年、京都に移る。反対を押して、実篤の従妹・勘解由小路康子(かでのこうじ さだこ)と結婚し、円山の「左阿彌」で挙式した。1917年、父と和解し『城の崎にて』『和解』などを書いた。1921年、構想から25年をかけ唯一の長編小説『暗夜行路』(1921-1937)を執筆し始める。小説は、近代日本文学の代表作の一つに挙げられた。1941年、芸術院会員になる。1949年、文化勲章を受章した。88歳。墓は青山墓地(東京)にある。
 「小説の神様」といわれた。芥川竜之介、反発した太宰治、織田作之助などにも影響を与えた。私小説、心境小説のほか、客観小説にも定評があった。文体は近代散文の典型とされる。
 京都での転居先は、1914年9月、宍道湖畔の寓居より京都に移り、当初は上京区南禅寺町北の坊に住んだ。その後、1915年1月、上京区一条御前通西五丁目衣笠園内、その後、鎌倉、群馬、千葉を経て、1923年3月、上京区粟田口三条坊町、1923年10月、宇治郡山科村に住んだ。その後、1925年4月、奈良に移っている。
◆信楽 旅館「信楽」(しがらき)は、近代以降の文人が盛んに利用した。吉井勇、北原白秋、長田幹彦、谷崎潤一郎、武者小路実篤、近松秋江などがいる。
 志賀直哉(1883-1971)も泊った。小説『暗夜行路』後編(1937)では、東三本木も舞台になる。主人公の時任謙作は、直子に出会い結婚する。志賀は南禅寺北の坊(1914)、一条通御前西五丁目(1915)に住んだ。
 與謝野晶子(1878-1942)も、この旅館を常宿とし、女主人・愛とも懇意にした。晶子の妹が府立第一高女に通っており、度々京都を訪れている。晶子の『舞姫』には、「三本木 千鳥きくとて ひそめきて われ寝ねさせぬ 三四人かな」「冬川は 千鳥ぞ来啼く 三本木 べにゆうぜんの 夜着うつなり縁に」などがある。
 詩人・劇作家の高安月郊(1869-1944)、画家・幸野楳嶺(1844-1895)、箏曲京極流の始祖・作曲家・画家・鈴木鼓村(1875-1931)なども集った。
 高安、鈴木、画家・鹿子木孟郎(1874-1941)は三本木に住んだ。高安は自宅で詩人会「銀峰会」(1902)を開き、英文学者・島文二郎、詩人・湯浅半月(1858-1943)、詩人・児玉花外(1874-1943)、詩人・薄田泣菫、鈴木、鹿子らが集った。
 1909年5月から2カ月余り、留学から帰国した言語学者・国語学者・新村出(しんむら-いずる、1876- 1967)は京都帝国大学文科大学教授に就任し、「信楽」に住んだ。同僚・上田敏(うえだ びん、1874-1916)も一緒だった。
◆吉田屋 現在、「立命館草創の地」の碑が立つ付近に「吉田屋」があった。さらに、南に30mほど下がった地点に、幾松の置屋「難波屋」があった。吉田屋は、その後、「大和屋」といわれ、1997年まで旅館として存在した。
 また、精輝楼はその後、席貸「茨木屋」になり、大正年間(1912-1926)に洋食屋「あづまや」に変わった。さらに、1927年に「大和屋」になったという。南の湯浅邸が吉田屋の跡ともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『おんなの史跡を歩く』、『京都大事典』、『洛西探訪』、『あなたの知らない京都の歴史』、『昭和京都名所図会 5 洛中』 、ウェブサイト「コトバンク」


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