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古高俊太郎邸跡 (京都市下京区) Site of Furutaka,Shuntaro Residence |
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古高俊太郎邸跡 | 古高俊太郎邸跡 |
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![]() 「勤王志士 古高俊太郎邸址」の石標 ![]() ![]() |
河原町通四条上ル一筋目東入南側に、「勤王志士(きんのうしし) 古高俊太郎邸址(ふるたか/しゅんたろう-てい-あと)」の石標が立つ。 かつてこの地に、攘夷派志士・古高俊太郎の邸宅があり、隠れ蓑として「桝喜」を営んでいた。 ◆歴史年表 江戸時代、1864年、6月5日、この地に邸宅があった古高俊太郎は新撰組に捕えられた。 近代、1928年、4月、京都市教育会により石標が立てられている。 ◆古高俊太郎 江戸時代後期の攘夷派志士・古高俊太郎(ふるたか/こたか-しゅんたろう、1829-1864)。男性。湯浅喜右衛門。近江国(滋賀県)の生まれ。父・大津代官所の手代・古高周蔵、母・公家・広橋家家来の娘。父が山科毘沙門堂門跡従者になり京都へ移住した。俊太郎も門跡近習になる。烏丸光徳に和歌を学び、公家と交流した。尊皇攘夷の梅田雲浜に入門し、勤王志士と知り合う。同志・湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子になり、1861年、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達「枡屋」を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。小道具(薪炭商、馬具も)を商い、宮部鼎蔵・有栖川宮・長州との連絡をとる。1864年、店に新撰組が踏み込み捕縛される。壬生屯所で土方歳三に土蔵から、逆さに吊るされる激しい拷問を受けた。1863年、八月十八日の政変後の長州によるクーデタ、テロ計画を自白したとされる。詳細は不明。自白をもとに、同日夜、新撰組が池田屋に集結した尊攘派志士を急襲撃破する。(池田屋事件)。古高は六角獄舎に収容される。1864年、長州藩尊攘派による禁門の変が起こり、獄舎に迫ったどんどん焼けの騒乱に乗じ、幕吏により獄中で斬首された。36歳。 粟津義風、前川茂行と親交があった。没後、1891年、正五位追贈。 遺骸は西ノ刑場跡に葬られ、竹林寺(上京区)に改葬された。霊山(東山区)に墓碑がある。福勝寺(上京区)にもある。 ◆枡屋 古高俊太郎は、この地に「枡屋」を構えた。同志・湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子になる。江戸時代後期、1861年、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達「枡屋」を継ぎ、枡屋喜右衛門と変名した。 古高は、密かに武器を集め、同志と連絡を取り合い援助していたという。この地には多くの志士が集い、倒幕活動の拠点になっていたという。(駒札) ◆池田屋事件の発端 江戸時代後期、1864年、新撰組は宮部鼎蔵の下僕・忠蔵を捕えた。忠蔵は、宮部の潜伏場所を自白する。6月5日早朝に、「枡屋」に新撰組が踏み込み、古高俊太郎は捕縛される。壬生屯所・前川邸に連行され、土方歳三に土蔵から逆さに吊るされる。足裏に五寸釘を打ち込まれ蝋燭を垂らされるという拷問を受けた。古高は、八・一八政変の報復を自白し、連判状を発見されて池田屋事件の発端になったという。同夜、古高捕縛の知らせに宮部鼎蔵・吉田稔麿らは池田屋に集まり、善後策を講じていたところを新撰組に襲撃された。 古高は六角の獄に送られる。7月20日、長州藩尊攘派による禁門の変が起こり、脱走を恐れた獄吏により、平野国臣ら志士とともに古高は獄中で斬首された。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 駒札(立札)、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『上京幕末「大政奉還その前夜」』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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