嵯峨陵(嵯峨天皇皇后嘉智子嵯峨陵・檀林皇后深谷山陵) (京都市右京区)  
mausoleum of Sagano-misasagi
嵯峨陵 嵯峨陵
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【参照】嵯峨陵、嵯峨天皇皇后・橘嘉智子陵
 嵯峨陵(さが の みささぎ)には、平安時代の第52代・嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばな の かちこ、檀林皇后)が葬られている。
 嵯峨天皇皇后嘉智子嵯峨陵(さがてんのうこうごう かちこ さが の みささぎ)、檀林皇后深谷山陵(だんりんこうごう ふかたに やまのみささぎ)とも呼ばれる。
◆歴史年表 平安時代、850年、5月4日、嵯峨天皇皇后嘉智子(檀林皇后)は、嵯峨院で亡くなる。遺言により薄葬とされた。嵯峨陵に葬られる。
◆橘嘉智子 平安時代の女性・橘嘉智子(たちばな の かちこ、786-850)。檀林皇后(だんりんこうごう)。父は橘清友(たちばな の きよとも)、母は贈正一位田氏。美貌の人だったという。809年、入内した。815年、第52代・嵯峨天皇の皇后になる。?年、業良(なりよし)親王、810年、正良(まさら)親王(第54代・仁明天皇)、810年、正子(まさこ)内親王(第53代・淳和天皇皇后)、817年、秀良(ひでなが)親王などを産む。836年頃、仏教を深く信仰し、唐の禅僧・義空(ぎくう)を招き、禅院檀林寺を創建した。このため、檀林皇后とも呼ばれた。842年、伴健岑(とも の こわみね)、橘逸勢(たちばな の はやなり)らが謀反を企てたとして流罪になり、仁明天皇の皇太子・恒貞(つねさだ)親王が廃された。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥・道康(みちやす)親王が皇太子になる。この承和(じょうわ)の変に嘉智子も関わったという。844-847年頃、兄・橘氏公(うじきみ)とともに、橘氏の教育のために学館院を設立した。梅宮大社(右京区)は井手より遷して橘家の氏神として祀ったという。
 橘氏としては最初で最後の皇后になり、842年、嵯峨上皇没後も皇太后、太皇太后として勢威を振るう。仏教を深く信仰し、宝幡、刺繍の袈裟などを唐の五台山に寄進したという。
 嵯峨院で亡くなり、遺言により薄葬とされた。深谷山陵(嵯峨陵)に葬られた。
◆陵墓 府道40号線から坂道の参拝道を北に登ると山腹に陵がある。南面している。
◆檀林皇后の伝承・地名 檀林皇后の山陵は営まれなかったともいう。そのため、檀林皇后の伝承は嵯峨野の各所に、地名として残されている。
 ◈「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」(右京区太秦帷子ヶ辻町)は、皇后葬送の車が通りかかり、棺を覆っていた経帷子(きょうかたびら)が、一陣の風に吹かれ散った地ともいう。(『雍州府志』)。また、第50代・桓武天皇皇子・仲野親王(792-867)の棺だったともいう。
 ◈皇后の「かもじ(髢、加文字、髪文字の略、女性の髪を結う際に、頭髪に補い添えた髪)」を祀ったという長明神社(たけのみょう じんじゃ)(右京区嵯峨二尊院門前長神町)があった。
 ◈散ったという上衣(じょうい)を祀った裏柳社(右京区嵯峨釈迦堂門前裏柳町)があった。
 ◈緋(ひ)の袴を祀ったという日裳宮(ひものみや)(右京区嵯峨小倉山緋明神町)などがあった。


52 嵯峨天皇 (在位:809-823) →53 淳和天皇 (在位:823-833)→54 仁明天皇 (在位:833-850)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*陵墓の周囲に人家はありません。参拝道は坂道になっています。

*参考文献 『昭和京都名所図会 4 洛西』『歴代天皇・皇后総覧』『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 嵯峨陵(嵯峨天皇皇后嘉智子嵯峨陵・檀林皇后深谷山陵)  京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町 
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