入道塚陵墓参考地(恒貞親王陵墓参考地)  (京都市右京区)  
Nyudozuka mausoleum reference site
入道塚陵墓参考地 入道塚陵墓参考地
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古墳の南側


宮内庁の制札


石室の石


石室の石


古墳の北側
 嵯峨の京都府立北嵯峨高校の南側に、方墳の入道塚陵墓参考地(にゅうどうづか-りょうぼ-さんこうち)がある。入道塚古墳とも呼ばれている。周辺の古墳時代後期の「大覚寺古墳群」の一つであり、2号墳になる。
 平安時代前期の恒貞親王の陵墓参考になっている。
◆歴史年表 詳細は不明
 古墳時代(3世紀中後期-7世紀前半)後期、嵯峨野の豪族墓である「大覚寺古墳群」の一つとして、2号墳(現・入道塚古墳)が築造された。
 平安時代、884年、9月20日、恒貞親王が亡くなる。
◆恒貞親王 平安時代前期の皇族・恒貞親王(つねさだ-しんのう、825-884)。亭子(ていし)親王、法名は恒寂(ごうじゃく)。京都の生まれ。第53代・淳和天皇の第2皇子、母は皇后・正子(せいし)内親王(第52代・嵯峨天皇皇女)。833年、嵯峨上皇の意向により、第54代・仁明天皇の即位に伴い、恒貞親王は9歳で皇太子になる。親王の再三の辞退も受け入れられなかったという。842年、承和の変(廃太子の変)に連座し皇太子を廃された。淳和院に移され東亭子に住む。以後、仏教に帰依した。849年、三品に叙される。出家し恒寂に改めた。876年、大覚寺の開祖になる。884年、第57代・陽成天皇の廃位後、公卿・藤原基経による親王の天皇即位要請を親王は拒否した。伝記『恒貞親王伝』。60歳。
 嵯峨天皇、淳和上皇に寵愛された。真言宗、天台宗の教義に通じ、史伝、五経、隷書、詩文、琴にも優れた。
◆承和の変 平安時代、842年に承和の変(じょうわのへん、廃太子の変)が起きた。公卿・藤原良房(804-872)の陰謀とされ、伴氏、橘氏の排除を謀ったという。
 833年に第54代・仁明天皇が即位した。淳和上皇(第53代)の皇子・恒貞(つねさだ)親王が皇太子になる。仁明天皇には藤原冬嗣の娘(良房の妹)・順子(じゅんし)との間に生れた道康(みちやす)親王 (後の第55代・文徳天皇) がいた。
 842年に、嵯峨上皇(第52代)の没後、春宮坊帯刀(とうぐうぼう-たちはき/たてわき) ・伴健岑 (とも-の-こわみね)、但馬権守・橘逸勢(たちばな-の-はやなり) 、その同族らが謀反を企てたとして逮捕される。阿保(あぼ)親王(第51代・平城天皇皇子)が、健岑らの陰謀があるとして太皇太后・橘嘉智子に密書を持って密告した。健岑らは上皇死後の混乱に乗じ、恒貞親王を奉じ東国での乱を謀ったとされた。逸勢は伊豆配流になり、途中の遠江で亡くなる。健岑は隠岐に流され、恒貞親王は皇太子を廃された。大納言以下60余人が連座した。
 その後、道康親王は皇太子になり、良房は大納言に昇る。良房の娘・明子(めいし)は皇太子妃とした。850年、文徳天皇即位に伴い、明子の産んだ惟仁(これひと)親王(後の第56代・清和天皇)を皇太子にした。857年に良房は人臣最初の太政大臣に進む。以後、藤原北家(ほっけ)による摂関政治が進む。
◆陵墓  「2号墳(入道塚古墳、入道塚陵墓参考地)」は、京都府立北嵯峨高校の南側に隣接し、校地に一部食い込む形で残されている。
 古墳時代(3世紀中後期-7世紀前半)後期に築造された。飛鳥時代になる。嵯峨野の豪族墓である「大覚寺古墳群」4基の内の一つだった。
 伝承によると、かつて、田畑整地のために古墳が破壊されようとした際に、大入道が現われたという。以後、古墳は残され祀られることになったという。後世、平安時代前期の皇族・恒貞親王陵墓参考地になった。
 陵墓参考地は宮内庁が指定・管理している。天皇・皇族を埋葬した可能性があり、特定に至る資料が存在しない墳墓を意味する。
 現在は、大部分の墳丘が失われ、石室だった複数の大石群が露出している。方墳、横穴式石室、南北25m、東西30m。
◆ほかの大覚寺古墳群 入道塚陵墓の周辺に古墳が点在している。
 いずれも古墳時代(3世紀中後期-7世紀前半)後期に築造された。嵯峨野の豪族の墓である「大覚寺古墳群」は4基があった。内部主体はすべて横穴式石室になっている。 
 ◈ 「1号墳(円山陵墓参考地)」(右京区嵯峨大覚寺門前登り町)は、入道塚陵墓の近く北西にある。平安時代前期の第52代・嵯峨天皇皇女・正子(せいし/まさこ)内親王(809-879)の陵墓参考地ともいわれている。墳丘があり南側の羨道入口に天井石が露出する。
 円墳、直径50m、高さ9.1m。
 ◈ 「3号墳(南天塚古墳)」(右京区嵯峨大覚寺門前登り町)は、入道塚古墳の西隣にあった。現在は、京都府立北嵯峨高校グラウンド地下に埋められている。1975年に開校した高校の建設に伴い消失した。
 墳形詳細も不明、南北8m、東西13m。
 ◈ 「4号墳(狐塚古墳)」(右京区嵯峨大覚寺門前堂ノ前町)は、入道塚古墳の南東方向に現存している。墳丘も残り、南側に羨道入口が開く。
 円墳、径28m、高さ4.5m。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 、ウェブサイト「大覚寺4号墳第2次発掘・測量調査の概要-龍谷大学考古学 研究室」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 入道塚陵墓参考地(恒貞親王陵墓参考地)  〒616-8353 京都市右京区嵯峨大沢柳井手町
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