壇林寺跡 (京都市右京区) 
The ruins of Danrin-ji Temple
壇林寺跡  壇林寺跡  
 Home  Home


「壇林寺の旧跡」の石標、野宮神社すぐ南
前中書王の遺跡、前中書王とは、平安時代の第60代・醍醐天皇16皇子・兼明親王(914-987)のことで、左大臣となるものの関白・藤原兼通(925-977)により親王に戻された。中務(中書)卿に補任されたため、嵯峨野山荘「雄蔵(おぐら)殿」に隠棲したという。


「山城国一ノ寺 壇林寺門跡」の石標、野宮神社の北付近


【参照】嵯峨陵、嵯峨天皇皇后・橘嘉智子陵
 平安時代、嵯峨野に第52代・嵯峨天皇皇后の橘嘉智子(壇林皇后)が建立した壇林寺(だんりんじ)という寺があった。 
◆歴史年表 
平安時代、承和年間(834-848)、第52代・嵯峨天皇皇后・橘嘉智子(壇林皇后)が、唐の禅僧・義空を招いて開山とし、尼寺の壇林寺を建立した。日本最初の禅門の寺だったという。境内は、野宮(右京区)の南、天龍寺一帯であったとみられている。広大な境内に十二坊を数えたという。嵯峨院(大覚寺)の別館だったともいう。山城国一之寺と称された。
 848年、皇后没後、官寺となる。
 平安時代中期、第66代・一条天皇の頃(在位986-1011)、荒廃したという。跡地には、浄金剛院という寺が建立されたという。
 鎌倉時代、第88代・後嵯峨天皇(1220-1272)は、仙洞亀山殿(嵯峨殿)を造営した。
◆橘嘉智子 平安時代の女性・橘嘉智子(たちばな の かちこ、786-850)。檀林皇后。父は橘清友、母は贈正一位田氏。美貌の人だったという。809年、入内。815年、第52代・嵯峨天皇皇后。第54代・仁明天皇(正良親王)、正子内親王(第53代・淳和天皇皇后)などを産む。橘氏としては最初で最後の皇后になり、嵯峨上皇没後も皇太后、太皇太后として勢威をふるう。836年頃、仏教を信仰し、禅院檀林寺を創建し、檀林皇后とも呼ばれた。842年、仁明天皇の皇太子・恒貞親王が廃された政変の承和の変にも関わったという。844-847年頃、兄・橘氏公とともに、橘氏の教育のために学館院を設立した。梅宮大社は井手より遷し橘家の氏神として祀ったという。嵯峨院で亡くなり、深谷山陵(嵯峨陵)に葬られた。
◆義空 平安時代前期の禅僧・義空(生没年不詳)。中国杭州海昌院の斉安国師に師事した。835年、皇太后・橘嘉智子が恵萼(えがく)を唐に送り、斉安の推挙により来日した。東寺西院から、檀林寺開山となる。檀林寺で南宗禅の講演を行う。だが、禅を受容する精神風土はまだ日本になく、失意のうちに数年で唐に戻ったという。
◆檀林皇后の伝承・地名 檀林皇后の伝承は嵯峨野の各所に、いまは地名として残されている。
 「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」(右京区太秦帷子ヶ辻町)は、皇后葬送の車が通りかかり、棺を覆っていた経帷子(きょうかたびら)が一陣の風に吹かれ散った地とされる。(『雍州府志』)。また、第50代・桓武天皇皇子・仲野親王(792-867)だったともいう。
 皇后のかもじ(加文字、髪文字の略、女性の髪を結う際に頭髪に補い添えた髪)を祀ったという長明神社(たけのみょう じんじゃ)(右京区嵯峨二尊院門前長神町)、散ったという上衣を祀った裏柳社(右京区嵯峨釈迦堂門前裏柳町)、緋(ひ)の袴を祀ったという日裳宮(ひものみや)(右京区嵯峨小倉山緋明神町)などがある。
◆壇林寺門跡  壇林寺門跡(だんりんじもんぜき)は、松森山宝寶閣(まつもりやまほうかく)壇林寺という。現在地に、1964年に覚全により建立された。
 真言宗。本尊は檀林皇后を模ったという准胝如意輪観音(壇林妃観音)を安置する。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『おんなの史跡を歩く』『京都の地名 検証2』 


   関連・周辺清凉寺     周辺野宮神社      関連         


【参照】壇林寺門跡

【参照】壇林寺門跡


【参照】壇林寺門跡、宝蔵造り本堂の三層楼屋根という本堂

【参照】壇林寺門跡、壇林皇后の供養塔という。
 壇林寺跡 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町   075-871-3924
 Home    Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光