安祥寺 (京都市山科区)
 Ansho-ji Temple
 安祥寺  安祥寺 
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「吉祥山安祥寺」の石標












鐘楼


鐘楼、梵鐘















本堂(観音堂)

本堂

本堂

本堂

本堂

本堂




多宝塔跡

多宝塔跡


多宝塔跡


多宝塔跡

地蔵堂




大師堂


弁天社


弁天社


弁天社




十二所神社 


十二所神社

 安祥寺山の南麓、琵琶湖疏水沿いに安祥寺(あんしょうじ)が建つ。山号は吉祥山という。平安時代の藤原順子(ふじわら-の-のぶこ)の発願による。第54代・仁明天皇、第55代・文徳天皇の菩提、国家安泰の祈祷道場とされ、かつては広大な寺域を有していた。
 高野山真言宗(古義真言宗別格本山)、本尊は十一面観音。  
◆歴史年表 創建の詳細不明。
 平安時代、848年、8月、847年/仁寿年間(851-854)/865年、第54代・仁明天皇女御で第55代・文徳天皇の母・藤原順子(ふじわら-の-のぶこ)の発願により、開基・恵運(えうん)によって創建された。(「安祥寺伽藍縁起資材帳」)。恵運は、前摂津国少掾上毛野朝臣松雄の松山一箇峰を得た。藤原氏北家が天皇家外戚として、仁明天皇、文徳天皇の皇統が継承されることを祈祷するための寺院とされる。(『東寺要集』下)。当初は上寺が創建された。
 851年、3月、七僧を配した。法会が行われる。(「安祥寺伽藍縁起資材帳」)。太政官符が下され、以後毎年、頴穂(えいほ、穂の付いた稲)1000斤を山城国が負担する。
 852年、常燈科を施入した。
 855年、6月、官営寺院に準じた定額寺になる。(『日本文徳天皇実録』「安祥寺伽藍縁起資材帳」)
 856年、10月、順子により粟田山(山城国宇治郡)の山林50町(49万㎡)が買い上げられ施入される。(『日本文徳天皇実録』「安祥寺伽藍縁起資材帳」)
 859年、年分度者三人(一定数に限られ許された出家)が定められる。また、維摩会、最勝会堅義の列に入る。
 貞観年間(859-877)、寺勢拡大する。
 861年、維摩会、最勝会に聴衆、立義者の諸用が定められる。
 865年、阿闍梨2人(恵運、弟子・三修)が置かれた。以後、順子の御願により国家安泰のために孔雀明王経法を修した。
 867年、恵運が『安祥寺伽藍縁起資財帳』を作成する。
 871年、順子が亡くなり、陵墓「後山科陵」が安祥寺山に築かれた。(『日本三代実録』)
 875年、御斎会に聴衆への参加が認められる。
 平安時代中期、勧修寺支配下に入る。勧修寺5世・深覚は当寺座主職を兼任した。以後、勧修寺長吏が当寺の寺務を兼帯する。
 10世紀(901-1000)末、衰微する。
 平安時代後期、宗意(1074-1148)が下寺の復興をする。
 南北朝時代、1377年、21世・興雅が高野山の宝性院・宥快に継がせ、以後、高野山の兼務になる。
 室町時代、1468年、所領地は、勧修寺門跡の支配下に入る。(『山科家礼記』、同年条)
 1479年、応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により上寺、下寺ともに焼失した。以後、荒廃、廃寺になった。
 江戸時代初期、下寺が現在地に移転し再建された。徳川家の庇護を受ける。
 1614年、高野山の宝性院の支配下に入る。俗に「高野堂」と呼ばれる。
 1666年、寺地10万坪(33万㎡)が毘沙門堂に割譲された。
 1672年、御陵村が代替地として施入になる。
 宝暦年間(1751-1764)、現在の伽藍が建てられた。山上山下に塔頭700余りが建てられていたという。
 1759年、多宝塔が再建された。
 近代、1906年、多宝塔が焼失する。
 現代、1951年、日本史研究者・景山春樹(京都国立博物館)が上寺跡を調査した。
 1993年、山科駅付近の発掘調査により、下寺の木炭木槨墓の一部が発見された。 
 2002年-2003年、京都大学などにより上寺の測量調査が行われ、方形堂跡などが確認される。
◆恵運 平安時代前期の真言宗の僧・恵運(えうん、798-869)。慧運、通称は安祥寺僧都。京都に生まれた。安曇(あずみ、阿曇)氏の出。東大寺泰基・薬師寺仲継に法相教学を学ぶ。824年、東寺の実恵(じちえ)に師事し、灌頂を受けた。関東での一切経書写の検校、筑紫観世音寺講師などを歴任する。842年、最澄らと共に博多津から遣唐使船で唐に渡り、青竜寺・義真に灌頂を受けた。五台山・天台山を巡拝し、847年、儀軌、経論、仏菩薩祖師像を携えて明州から帰国、八家請来目録を呈上した。848年頃、安祥寺を開く。861年、東大寺大仏修理落慶供養の導師。864年、少僧都。
 入唐八家(にっとう-はっけ、最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。入唐五家(慧運・宗叡・常曉・眞如親王・圓行)の一人。72歳。
◆藤原順子 平安時代前期の第54代・仁明天皇の女御・藤原順子(ふじわら-の-のぶこ、809-871)。五条后。藤原冬嗣の娘。母は尚侍・藤原美都子。仁明天皇の東宮時代に後宮に入り、827年、道康親王(第55代・文徳天皇)を産む。833年、仁明天皇の即位に伴い、女御になり従四位に叙される。842年、承和の変で、恒貞親王が廃太子され、道康親王が立太子した。生母として従三位に叙せられた。850年、文徳天皇の即位により皇太夫人になる。854年、皇太后になる。858年、子・文徳天皇が亡くなる。東大寺戒壇諸僧から大乗戒を受ける。9歳の孫・清和天皇の生母・明子(あきらけいこ)を助け東五条宮に移り、五条后と呼ばれた。861年、天台座主・円仁により菩薩戒を受け、出家した。864年、太皇太后になる。情厚く容姿美麗だったという。63歳。
 陵墓は安祥寺の北の山腹にある後山階陵(山科区)になる。
◆宗意 平安時代後期の真言宗僧・宗意(そうい、1074-1148)。通称は大夫律師、安祥寺律師。 源基平(もとひら)の孫。1104年、勧修寺7代・勧修寺の厳覚(ごんかく、甥)より灌頂を受けた。1120年、安祥寺座主になり、安祥寺流を開く。1141年、権律師。小野流の聖教、霊宝、秘具を相承し、小野三流の一つ安祥寺流(安流)の祖になる。安祥寺下寺の中興の祖になる。75歳。
◆真言小野流 真言密教の真言小野流は、広義には醍醐寺・聖宝より起きた流派であり、聖宝を始祖(元祖)、仁海は流祖とする。聖宝の後、観賢、仁海、成尊と続く。その後、範俊、義範で2流に分かれ、後に、さらに3流ずつに分かれた。流派により事相(じそう)といわれる行法(灌頂、護摩、観法など)の実践が異なる。口頭で教義などを伝授する口伝為本(くでんいほん)とした。
 真言小野流とは、狭義には根本6流、また、随心院流のみとされる。また、狭義の小野流として「小野三流」があり、「勧修寺三流」(随心院流、安祥寺流、勧修寺流)とされる。広義の小野流として「小野六流」があり、これに「醍醐三流」(三宝院流、理性院流、金剛王院流)が加わる。
 別流として、仁和寺を中心とした洛西の広沢流がある。小野流、広沢流の両流を合わせて「野沢(やたく)十二流」と呼ばれた。野沢もまたさらに36流、100流ほどに分かれた。
◆仏像
 かつては、31体の仏像、多くの仏画・仏具・経典などを保有していた。
 ◈「木造五智如来坐像」(国宝)は、平安時代前期、851年-859年の創建時の作という。かつて、上寺の礼拝堂か五大堂に安置されていた。その後、南北朝時代に荒廃し、下寺に遷された。以後、多宝塔の本尊として安置された。近代、1898年の火災では、京都帝室博物館にたまたま出陳されており、焼失を免れた。貞観時代の金剛界五智如来であり、密教彫刻の特徴がある。「大日像」(161㎝)は智拳印を結ぶ。
 「阿閦(あしゅく)」(107㎝)、「宝生」(109㎝)、「阿弥陀」(107㎝)、「不空成就」(107㎝)の五如来による。木像、布張りに漆、一部に乾漆を施す。漆箔、京都国立博物館寄託。 
 ◈本堂の須弥壇上厨子内に本尊の木造「十一面観音立像」(252㎝)(重文)を安置する。奈良時代(奈良時代末までとも)作になる。当寺の創建以前に存在した山階寺など、他の寺院より遷された可能性があるという。また、奈良大和の金剛山寺(矢田寺)の十一面観音立像との類似性もある。
 円光背の頭上に11面を頂く半丈六になる。材は全体に前方に湾曲する。衣文も翻波式を表さない。左足先に当初のものという木屎(こくそ)漆の盛土もあり、乾漆の表面仕上げが行われていた。中世の修復時には漆箔が施された。左手は掲げ水瓶(すいびょう)を持つ。右手は下げている。額の半分より上は後補になる。榧(かや)材、一木彫像。
 ◈本堂の2つの厨子内に「四天王像」を2体ずつ安置する。東の3体は平安時代作とみられ、一木造になる。
 西の1体は像内に江戸時代、「嘉永元年(1848年)」の銘が入る。像高150-160㎝。
 ◈地蔵堂に木像「地蔵菩薩坐像」(134㎝)を安置する。鎌倉時代作とみられる。半丈六になる。彩色は後補で、現在はほとんど剥落している。寄木造、玉眼嵌入。
 ◈大師堂に平安時代作とみられる「開山恵運像」「11世・宗意上人像」が安置されている。一木造だったとみられている。
 「宗祖弘法大師像」「21世・興雅上人」「22世・宥快上人像」は江戸時代作になる。
 ◈現在、東寺の塔頭・観智院に安置の「五大虚空蔵菩薩像」(重文)は、かつて安祥寺にあった。平安時代、847年に恵運が唐から請来したという。当時の唐長安では廃仏の気運があり、船で京都に持ち帰った。その後、安祥寺の金堂(五大堂?)に安置されていた。
 南北朝時代、1373年に上寺の堂宇が大風で倒壊し、本尊は砕けて塵、土に塗れる。1376年に東寺の賢宝がその惨状を知り、その頃に安祥寺を管理していた勧修寺に請じた。五大堂から観智院に遷し修復した。台座裏に「嘉慶二年(1388年)」と記されており、観智院に安置されたという。
◆建築 江戸時代後期、宝暦年間(1751-1764)に、現在の伽藍が再建された。本堂(観音堂)、地蔵堂、大師堂(開山堂)、鐘楼などが残る。
 ◈「多宝塔」は、地蔵堂の北にあった。1906年に火災により焼失している。現在は石基壇跡が残されている。
◆鎮守社 ◈「十二所神社」は、江戸時代に、安祥寺山の牛尾山麓に祀られていた。近代、1873年には御陵村の村社になる。現在は上野地区の鎮守社として祀られている。初穂などを献上祈念したとも、山の神を祀ったともいう。祭礼(11月23日)。
 ◈「青竜権現社」は、かつて上寺の鎮守だったとみられている。現在の祠は江戸時代末に建てられている。
 ◈「弁天社」が池中の中島に祀られている。
◆文化財 ◈平安時代、867年に恵運(えうん、慧運)が作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」写本(東寺蔵、後に京都大学文学部図書館蔵)がある。安祥寺、東寺・観智院、勧修寺の3寺は関わりる。
 「資財帳」は、奈良時代以降の寺の資財帳の中で記載内容が豊富という。寺の来歴、恵雲の経歴、仏像、経典、建物、仏具、財物、文書などが記されている。
 安祥寺の寺運衰えたため、1136年頃に「資財帳」は、当時、安祥寺を管理していた勧修寺に移された。宝蔵の梁上に永らく置かれ、判読が難しくなっていた。このため、勧修寺別当・寛信が写本を作った。南北朝時代、1385年に東寺・観智院の賢宝は、「五大虚空蔵菩薩像」を安祥寺から遷す際に、さらにこれを書写している。「観智院本」と呼ばれた。近代になりこの観智院の写本は失われたという。寛信の写本はいまに残っている。
 ◈「蟠龍(ばんりゅう)石柱」は、かつて鎮守社の青竜権現社の御神体として祀られていた。現代、1953年に発見されている。「安祥寺伽藍縁起資財帳」中の「仏頂尊勝陀羅尼石塔」に該当するとみられている。青龍寺の義眞から恵運が贈られた品ともいう。石幢の記述で三龍が絡んで描かれている。唐時代、石灰岩製、京都国立博物館寄託。
 ◈「梵鐘」(京都府有形文化財)には、鎌倉時代、「嘉元四年(1306年)」の銘がある。「摂州渡辺安曇寺洪鐘一口」の銘文がある。河内国丹南の鋳物師・治入道浄仏により、安曇寺(摂津国渡辺)の梵鐘として製作された。その後、当寺に移されたとみられている。安曇寺は安曇氏である恵運の氏寺だった。鎌倉時代の定型になる。総高110㎝、口径61㎝。
◆上寺・下寺 ◈境内裏山北1㎞の安祥寺山中腹に観音平(宇治郡余戸郷、山科区安祥寺国有林、標高約330m-350m地点)がある。かつて山岳寺院の「上寺(かみのてら/かみでら、山上伽藍、山上)」は、この地に建てられていた。境内は東は大樫大谷内、南は山科陵内、西は堺峯内、北は檜尾古寺所内にあった。(『安祥寺伽藍縁起資財帳』)
 上寺には礼仏堂(瓦葺)、五大堂(瓦葺、14.7m、12m)、東西僧房、庫裏、浴堂が建っていた。その後、寺は衰微する。南北朝時代、延文年間(1356-1361)にはまだ存続していた。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、その後廃寺になる。 
 ◈さらに、山麓には「下寺(しものてら/しもでら、下伽藍、山下)」が存在した。僧侶の修行場としての上寺の建立後に、下寺が建てられたとみられている。創建年については、848年、847年、仁寿年間(851-854)、865年ともいう。
 下寺は約2万㎡の境内(縦72丈、217.5m、廣32丈、96m)に、塔、仏堂、僧坊、門楼などが建ち並んでいたという。(『安祥寺伽藍縁起資財帳』)。境内の場所については確定していない。現在の境内の南、山科駅周辺(安朱遺跡)、駅の北付近ともいわれている。平安時代後期、宗意(1074-1148)が下寺を復興した。室町時代、1479年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。江戸時代、下寺が現在地に移され再建された。宝暦年間(1751-1764)、現在の建物が建てられている。
 ◈現在、上寺跡には礼仏堂(東西21m、南北15m)、五大堂の基壇跡、東僧坊跡(東西4.2m、南北16.2m)、西僧坊跡(東西4.8m、南北16.2m)、方形堂跡(5.7m、6.3m)、各々の軒廊礎石跡があり、平安時代の瓦などが出土している。寺跡のさらに北周辺峰に、経塚などが遺されているという。
 ◈1993年、山科駅付近の発掘調査により、9世紀(801-900)後半の下寺の木炭木槨(もっかく)墓の一部、副葬品の龍紋様の白銅鏡片、乾漆製品の一部、銅銭貨、土師器などが発見された。
 木炭木槨墓は、地面に長方形の穴(墓壙、東西3.4m、南北2m、深さ40㎝)を掘り、木棺の底面、木槨と木棺の周囲に木炭を敷き詰めていた。上に木枠(木槨、長さ2.3m、幅1.2m)を置き周りは木炭で満たした。遺体を納めた木棺(長さ2m、幅50㎝)は、木槨の北寄りに安置した。さらに、周りには副葬品が納められ、封土されていた。木炭を敷き詰めたのは、湿気、臭気を防ぐ目的があったとみられている。
 なお、第52代・嵯峨天皇(786-842)喪葬について、『続日本後紀』(842年の条)に木炭木槨墓を想起させる記述があるという。
◆山階寺 飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖・中臣鎌足(614-669)が山階寺(やましなでら)を建立した。詳細はわかっていない。7世紀後半に建立されたという。鎌足の山階陶原家(すえはらのいえ)附属の持仏堂を始まりにするともいう。
 鎌足は大化の改新の成功のために、山階で釈迦三尊像、四天王像を造仏した。鎌足は重病になり、妻・鏡女王の勧めにより伽藍を建立し仏像を安置したという。(「興福寺流記」所引「宝字記」)。
 境内は現在のJR山科駅南西(山科区御陵大津畑町)にあったという。付近は大槻里と呼ばれ、西隣の陶田(すえた)里にかけて陶原があったという。鎌足の子・不比等(659-720)が育った山科の田辺史大隅(たなべのひとおおすみ)らの家も近くにあった。安祥寺との関わりも指摘されている。奈良時代末作の安祥寺本尊・木造十一面観音立像が山階寺より遷された可能性もあるという。所在地については、ほかに大宅廃寺説、中家臣遺跡説などもある。
 後に山階寺は大和に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と呼ばれた。さらに、平城京に移り興福寺と呼ばれ、山階寺とも呼ばれていた。
◆文学 立命館大学生・高野悦子(たかの えつこ、1949-1969)は、1967年 6月27日、安祥寺の裏山に登り、山科の市街地を見下ろしている。1968年3月下旬にも、池の傍を通り裏山に登った。(『二十歳の原点序章』)


*拝観不可
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『京都の仏像』、『京都府の歴史散歩 中』、『洛東探訪』、『掘り出された京都』、『檜尾古寺跡』、『山科の歴史を歩く』、『歴代天皇・皇后総覧』、『歴代皇后125代総覧』、『春期京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』、『京都の寺社505を歩く 下』、『山科事典』、『洛中洛外』、案内板、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「高野悦子『二十歳の原点』案内」 、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺毘沙門堂   関連・周辺藤原順子 後山階陵・たたら遺跡  関連・周辺山階寺跡  周辺双林院  周辺観智院〔東寺〕  関連勧修寺  関連如意寺跡・檜尾古寺跡  関連歴代天皇データ    
青竜権現 青竜権現

【参照】一番上に檜尾古寺跡、その下に安祥寺上寺跡、藤原順子後山階陵、その下に現在の安祥寺(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の説明板より) 
【参照】安祥寺下寺跡の平安時代中期、木炭木槨墓(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所説明板より)
【参照】安祥寺下寺跡で出土した蟠龍文鏡(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所説明板より)
【参照】山階寺跡の石標(山科区御陵大津畑町、五条別交差点北東角)
  

【参照】琵琶湖疏水に架かる安祥寺橋 

【参照】琵琶湖疏水

【参照】後山階(のちのやましな)御陵 
 
安祥寺 〒607-8406 京都市山科区御陵平林町22   075-581-0853
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