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山階寺跡 (京都市山科区) Site of Yamashina-deraTemple |
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山階寺跡 | 山階寺跡 |
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![]() 【参照】山階寺跡の石標(山科区御陵大津畑町、五条別交差点北東角) |
御陵大津畑町(みささぎ-おおつばた-ちょう)に「山階寺跡(やましな-でら-あと)」の石標が立つ。「山科寺」、「山科精舎(しょうじゃ)」とも呼ばれた。 付近は、飛鳥時代の中臣氏の氏寺だった山階寺の推定地の一つという。詳細については分かっていない。奈良・興福寺の前身(古称)になる。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 山科の地に、中臣氏は早くから住んでいた。 飛鳥時代、7世紀(601-700)後半、中臣鎌子(藤原鎌足)は、大津京の南西の山城国山階(山科区大宅)に、「陶原(すえはら)館」とよばれる邸宅を構えた。付属した持仏堂「山階(山科)精舎」があり、近江大津京の山階寺の始まりという。 669年、鎌足夫人・鏡女王(かがみ-の-おおきみ)が、鎌足の遺志に従い山階寺(京都府南部)を建立したという。 670年、旧閏9月、鎌足の本葬は山階寺で行われたという。(奈良時代『藤氏家伝(とうしかでん)』) 672年、山科の山階寺は、大和国飛鳥浄御原(きよみはら)の厩坂(うまさか、橿原市石川町)に移された。大和藤原京の「厩坂寺(うまさか-でら)」と呼ばれた。 710年、奈良・平城京遷都の直後、鎌足の子・不比等が、藤原氏氏寺の厩坂寺を平城(奈良市登大路町)に移し大和平城京の「興福寺」と呼ばれた。 現代、2008年、「山階寺跡」の石標が現在地に、「おこしやす やましな協議会」により立てられた。 ◆藤原 鎌足 飛鳥時代の中央豪族・政治家・藤原(中臣) 鎌足(ふじわら-の-かまたり、614-669)。男性。大和国(奈良県)の生まれ。父・中臣御食子(みけこ)、母・大伴智仙娘。妻・鏡王女(かがみ-の-おおきみ)。南淵請安の塾で儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。644年、祭官に就くことを固辞し、 摂津国三島の別邸に退く。645年、中大兄皇子(後の第38代・天智天皇)・石川麻呂らと協力し、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父・蝦夷も自殺に追う。(乙巳の変)。この功により内臣に任じられる。646年、大化の改新を進めた中大兄皇子の側近として、左大臣・阿部倉梯麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂らと対立した。647年、新冠位制度で大錦冠を授与された。649年、梯麻呂・石川麻呂の逝去・失脚後は勢力拡大し、654年頃、大紫冠に昇格した。669年、天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任じられる。藤原の姓を贈られ、翌日に亡くなる。56歳。 最大氏族の藤原氏の始祖とされる。邸宅は「山科の陶原館(すえはらのやかた)」ともいわれている。 ◆鏡 王女 飛鳥時代の歌人・鏡 王女(かがみ-の-おおきみ/おほきみ、?-683)。女性。鏡女王、鏡姫王。父・第34代・舒明(じょめい)天皇、皇妹とも。鏡王の娘で額田王(ぬかた-の-おおきみ)の姉とも。第38代・天智天皇に寵愛され、後に藤原鎌足の妻になったという。死去の前日、第40代・天武天皇の見舞を受けた。『万葉集』『歌経標式』にも歌が残る。 墓は舒明天皇陵(桜井市)の域内にある。 ◆藤原 不比等 飛鳥時代-奈良時代の公卿・政治家・藤原 不比等(ふじわら-の-ふひと、658/659-720)。男性。父・藤原鎌足(かまたり)、母・車持国子(くるまもちのきみくにこ)の娘・与志古娘(よしこ)の第2子。669年、11歳で父没後、山科田辺史大隅(やましなのたなべのふひとおおすみ)の家で養われる。そのため、史(ふひと)と名付けられたという。680年、蘇我臣連子の娘・娼子と結婚した。689年、 直広肆(じきこうし、従五位下)判事判事になった。大宝律令の撰定に参加する。この頃、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と結婚した。700年-701年、勅により刑部親王らと『大宝律』 『大宝令』を編纂した。中納言から、701年、大納言正三位になり公卿に列した。708年、右大臣に進む。710年、平城京遷都では律令体制の確立、遷都を推進した。遷都直後に、氏寺(興福寺)を平城に移した。714年、太政大臣を固辞する。718年、『養老律』『養老令』を編纂した。山階寺の維摩会(ゆいまえ)を復興した。『懐風藻』に漢詩が載る。 奈良・佐保(さほ)山に火葬されたという。没後、太政大臣・正一位を贈られ、文忠公と諡 (おくりな) される。760年、淡海公と称された。62歳。 子の男子は藤原4家の祖(南家・北家・式家・京家)になった。宮子は第42代・文武天皇夫人、光明子は第45代・聖武天皇皇后になり、人臣皇后の初例になる。藤原氏繁栄の基礎になる。 ◆山階寺 山階寺の詳細はわかっていない。遺跡も発見されていない。 飛鳥時代、7世紀後半に藤原氏の始祖・中臣鎌足(614-669)が山階寺(やましなでら)を建立したという。鎌足の山階陶原家(すえはらのいえ)付属の持仏堂「山階(山科)精舎」を始まりにするともいう。(『家伝』) また、669年旧10月に、鎌足は近江の大津京の邸で病が重くなる。旧10月15日に大織冠(後の正一位相当)・内大臣、藤原氏を賜る。翌旧10月16日に没した。夫人・鏡女王(かがみのおおきみ)は、鎌足の遺志により大津京南西の山科別邸を寺とし山階寺を建立したという。 670年旧閏9月、鎌足の本葬は山階寺で行われたという。(後世、奈良時代の『藤氏家伝』)。710年、平城京遷都の直後に、鎌足の子・不比等が氏寺(興福寺)を平城に移した。 境内は、「北山科の家」の地にあったという。(『今昔物語』巻12)。場所は特定されていない。石標が立つ現在地は、JR山科駅南西(山科区御陵大津畑町)にあたる。付近は「大槻里」と呼ばれ、西隣の「陶田(すえた)里」にかけて陶原があったという。この「陶(すえ)」は須恵器窯に関わる地名ともいう。不比等が育った山科の「田辺史大隅(たなべのひとおおすみ)の家」も近くにあったという。 山階寺の所在地については、ほかに大宅廃寺跡、中家臣遺跡、山科陵近くだったともいう。 その後、672年に、山科の山階寺は大和国飛鳥浄御原(きよみはら)の厩坂(うまさか、橿原市石川町)に移され、「厩坂寺(うまさかでら)」と呼ばれた。710年、奈良・平城京遷都の直後に、鎌足の子・不比等が、厩坂寺を平城(奈良市登大路町)に移し「興福寺」と呼ばれた。興福寺は藤原氏の氏寺であり、山階寺、南山階寺とも呼ばれたという。 興福寺の寺伝では本尊の「釈迦三尊像」は鎌足の念持仏だったという。近江大津京の山階(山科)寺、大和藤原京の厩坂(うまやさか)寺でも本尊だったという。 なお、安祥寺(山科区)との関わりも指摘されている。奈良時代末作の安祥寺本尊「木造十一面観音立像」は、山階寺より遷されたとの説もある。 ◆山階寺伝承 山階寺、興福寺については伝承がある。 ◈鎌足は、飛鳥時代、646年の大化の改新の成功のために、山階で「釈迦三尊像」、「四天王像」を造仏した。鎌足は重病になり、妻・鏡女王の勧めにより伽藍を建立し仏像を安置したという。(『興福寺流記』所引『宝字記』)。 ◈また、鎌足は中大兄皇子と蘇我入鹿を討とうとして、丈六の釈迦、脇侍の造立を発願した。645年の成就後に、山階陶原の家に堂を建て二像を安置した。669年の鎌足の没後、子・不比等が継ぎ、堂を解体して奈良の山階寺(興福寺)に移し、714年に供養した。かつて寺は山階にあったため山階寺と呼ばれたともいう。(『今昔物語』巻11、「阿波淡海公始造山階寺事」) ◈平安時代の第52代・嵯峨天皇(在位 :809-823)の頃、弘法大師(空海)と、山階寺の修円は、生栗を法力で煮ることを巡って争ったという。(『今昔物語』巻11) ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 「おこしやす やましな協議会の碑解説パネル、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』 、『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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