如意寺跡 (京都市左京区)
The ruins of Nyoi-ji Temple
如意寺跡 如意寺跡 
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鴨川より見た大文字山、その奥の如意ヶ岳


大文字山山頂より京都市内の眺望
 五山送り火が行われる大文字山(465m)の東に如意ヶ岳(472m)が連なる。 
 平安時代中期以前、如意ヶ岳山頂付近(左京区粟田口如意ヶ獄町-左京区鹿ヶ谷)の丘陵地帯(標高300-400m)には如意寺(にょいじ)、如意輪寺という山岳大寺院があった。園城寺別院であり、寺号は山の名の由来になった。
 天台宗寺門派だった。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代中期、10世紀(901-1000)以前、如意ヶ岳山頂近くに、園城寺(三井寺)別院の如意寺があった。寺門派宗祖・円珍(814-891)の開基によるともいう。
 938年、関白太政大臣・藤原忠平の日記に、如意寺が記されている。公卿・平時望(877-938)の法要を営んでいる。僧には、寛空、寛静、増祐、慶範などが居た。(『貞信公記』、907-948)
 長保年間(999-1004)、初代・慶滋保胤(?-1002)が住し、寺で亡くなったともいう。(「続本朝往生伝」「伊呂波字類抄」「天台宗如意寺門跡歴代」) 
 慶滋保胤の弟子・寂照(?-1034)が継いで住したという。
 1180年、以仁王(もちひとおう)は、平氏討伐の令旨(りょうじ)を諸国の源氏に下し挙兵した。事前に発覚しため、女装した皇子は高倉宮より逃れた。鹿ケ谷、如意寺を経て園城寺、その後、山城国光明山鳥居前で討死した。
 鎌倉時代、最盛期を迎える。歴史書に記されている。(『吾妻鏡』、1180-1266)
 6代・隆弁(1208-1283)以来、門跡となり、園城寺長吏と兼帯したともいう。以後、11代まで続く。(「天台宗如意寺門跡歴代」)
 南北朝時代、1336年、兵火により焼失し、以後、廃絶したともいう。
 室町時代、興福寺大乗院第19世門跡・尋尊(じんそん)の日記に記されている。(『大乗院寺社雑事記』、1450-1508)
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。1469年以降、再興されなかったともいう。
 江戸時代、後水尾院(第108代、1596-1680)の皇女・霊願寺尼僧により、旧地麓に小堂が再興されたともいう。(『拾遺都名所図会』)
 現代、1990年以降、古代学協会により如意ヶ岳山頂、如意寺跡の発掘調査が始まる。
 1995年、発掘調査が終わる。
◆慶滋保胤 平安時代中期の下級官人・文人の慶滋保胤(よししげのやすたね、?-1002/997?)。陰陽家・賀茂忠行の次男。内記入道とも称した。菅原文時に師事し文章生、第62代・村上天皇皇子・具平親王の侍読として仕えた。964年、大学寮北堂の学生、比叡山の僧侶らで勧学会を結成し仏典研究をする。986年、出家、心覚、のち寂心と称した。平安京を描写した『池亭記』(982)を著し、鴨長明『方丈記』にも影響した。ほかに『日本往生極楽記』。
 如意輪寺(如意寺)で亡くなる。
寂照 平安時代中期の天台宗の僧・寂照(じゃくしょう、?-1034)。公卿・大江斉光の子。寂昭、三河入道ともいう。三河守、妻を亡くし、988年、出家、寂心(慶滋保胤)らに師事した。1003年、源信から委託され天台宗に関する質問状を携え宋へ渡る。1004年、真宗皇帝により紫衣と円通大師の号を授かる。帰国せず杭州で亡くなる。文章、和歌に優れた。
◆隆弁 鎌倉時代中期の寺門派僧・隆弁(りゅうべん、1208-1283)。父は四条隆房、母は藤原光雅の娘。光覚、大納言法印とも称した。1247年、鶴岡八幡宮別当に補任された。北条時頼の帰依により園城寺を興隆させる。のち園城寺長吏。1251年、北条時宗出産により能登国諸橋保を与えられ如意寺に寄進した。聖福寺を開く。鎌倉・長福寺で亡くなり、遺骨は如意峯西方院に納められた。如意寺・聖福寺僧正となる。歌人でもあった。
◆如意寺・遺構 如意寺は如意輪寺とも呼ばれ、叡山三千坊のひとつといわれた。最盛期の境内は、園城寺西にある長等山(大津市)より鹿ヶ谷(左京区)の山岳8㎞(3kmとも)にわたり広がり、尾根には多くの堂舎が点在していたという。それらを結ぶ「如意越」という道が付けられていた。
 境内の東端にあった本堂には、千手観音が本尊として安置されていたという。現在も、礎石、講堂基壇跡、石垣、石段跡などが残るという。
 近年の京都市埋蔵文化財センター、後に古代学協会、古代学研究所などの発掘調査により、如意ヶ岳山頂付近に本堂跡などが見つかっている。当時の伽藍の配置は、三井寺所蔵の鎌倉時代「園城寺境内古図」(重文)にも記されている。峰々に伽藍60あまりが描かれている。本堂西の丘陵地には、鎮守社の赤龍社跡があった。付近に深禅院跡もあり、池跡、祠跡、礎石などが残る。現在は雨神社が祀られている。尾根沿いに複数の伽藍の跡、平坦地、庭園跡も確認されている。南の丘陵斜面に正寶院、山王社があり、鹿ヶ谷方面の西方の丘陵地に東より大慈院、西方院、寶蔵院などが建ち並んでいたという。鹿ヶ谷の楼門の滝付近には山門が建てられていたという。(「山州名跡志」)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 中』『平安の都』


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 大文字山・如意ヶ岳 京都市左京区 

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