如意寺跡・檜尾古寺跡 (京都市左京区)
ruins of Nyoi-ji Temple
如意寺跡・檜尾古寺跡 如意寺跡・檜尾古寺跡 
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鴨川より見た大文字山、その奥の如意ヶ岳




大文字山山頂より京都市内の眺望


楼門の滝(如意の滝)



「園城寺境内古図 如意寺幅」(園城寺所蔵)(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示パネルより、京都市考古学資料館)


【参照】「園城寺境内古図 如意寺幅」(園城寺所蔵)にある如意寺子院の大慈院(左上)、西方院(右下)(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示パネルより、京都市考古学資料館)


【参照】檜尾古寺跡(最上の赤い四角)、その下に安祥寺上寺跡、その下に現在の安祥寺、(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示パネルより、京都市考古学資料館)

【参照】檜尾古寺の建物跡2、(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示パネルより、京都市考古学資料館)


【参照】檜尾古寺跡の唐草文軒平瓦(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示品、京都市考古学資料館)

【参照】檜尾古寺の塑像片の拡大(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示品、京都市考古学資料館)


【参照】檜尾古寺の須恵器瓶子(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示品、京都市考古学資料館)


【参照】檜尾古寺遺跡平面図、建物跡1(右上の網目部分)、建物跡2(中央の網目部分)(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示パネルより、京都市考古学資料館)


【参照】檜尾古寺(「如意ヶ獄山中の幻の山林寺院-女子大生たちが見つけた檜尾古寺跡-」の展示パネルより、京都市考古学資料館)
 五山送り火が行われる大文字山(465m)の東に如意ヶ岳(472m)が連なる。
 平安時代中期以前、如意ヶ岳山頂付近(左京区粟田口如意ヶ獄町-左京区鹿ヶ谷)の丘陵地帯(標高300-400m)には如意寺(にょいじ)、如意輪寺という山岳大寺院があった。山号は如意宝山、正当山と呼ばれた。寺号は山の名の由来になった。
 天台宗寺門派、園城寺(三井寺)別院だった。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代中期、10世紀(901-1000)以前、如意ヶ岳山頂近くに、園城寺(三井寺)別院の如意寺があった。寺門派宗祖・円珍(814-891)の開基によるともいう。
 938年、関白太政大臣・藤原忠平の日記に、如意寺が記されている。祖父の公卿・平時望(877-938)の法要を営んでいる。僧には、寛空、寛静、増祐、慶範などが居た。(『貞信公記抄』、907-948)
 976年、1月、増祐が念仏往生している。(『今昔物語』巻15)
 長保年間(999-1004)/997年、初代・慶滋保胤(?-1002)が住し、寺で亡くなったともいう。(『続本朝往生伝』『伊呂波字類抄』『天台宗如意寺門跡歴代』) 
 慶滋保胤の弟子・寂照(?-1034)が継いで住したという。
 1180年、5月、以仁王(もちひとおう)は、平氏討伐の令旨(りょうじ)を諸国の源氏に下し挙兵した。事前に発覚し、皇子は女装し高倉宮より逃れた。如意越で鹿ヶ谷、如意寺を経て園城寺(三井寺)、その後、山城国光明山鳥居前で討死した。(『吾妻記』)
 鎌倉時代、建保年間(1213-1219)、公胤が門跡になる。最盛期を迎える。当寺について記されている。(『吾妻鏡』、1180-1266)
 6代・隆弁(1208-1283)以来、門跡になり、園城寺長吏と兼帯したともいう。以後、11代まで続く。(『天台宗如意寺門跡歴代』)
 1253年、鎌倉鶴ヶ丘の若宮別当が、如意寺の鎮守社勧請のために上洛する。(『東鑑』)
 南北朝時代、1336年、1月、新田義貞と足利尊氏の兵火により焼失した。以後、廃絶したともいう。
 室町時代、興福寺大乗院第19世門跡・尋尊(じんそん)の日記に記されている。(『大乗院寺社雑事記』、1450-1508)
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。
 1469年以降、再興されなかったともいう。
 天文の乱(1542 -1548)、1565年、永禄の乱では、如意山山上に将軍・足利義晴、義輝が城砦を築いた。
 江戸時代中期、後水尾院(第108代、1596-1680)の皇女・霊願寺の尼僧により、旧地の麓(鹿ヶ谷桜谷町、現在のノートルダム女学院校舎付近)に小堂(如意寺)が再興されたという。本堂、庫裡、書院、鎮守社などがあった。(『拾遺都名所図会』巻2)
 現代、1985年以降、遺構が確認される。
 1990年以降、古代学協会により如意ヶ岳山頂、如意寺跡の発掘調査が始まる。
 1995年、発掘調査が終わる。
◆慶滋保胤 平安時代中期の下級官人・文人・慶滋保胤(よししげ-の-やすたね、?-1002/997?)。本姓は賀茂氏、法号は寂心、内記入道。陰陽家・賀茂忠行の次男。菅原文時に師事し文章生になる。第62代・村上天皇皇子・具平親王の侍読として仕えた。964年、大学寮北堂の学生、比叡山の僧侶らで勧学会を結成し仏典研究をする。986年、出家し、心覚、のち寂心(じゃくしん)と称した。平安京を描写した『池亭記』(982)を著し、鴨長明『方丈記』にも影響した。ほかに『日本往生極楽記』を著す。
 如意輪寺(如意寺)で亡くなる。
寂照 平安時代中期の天台宗の僧・寂照(じゃくしょう、? -1034)。俗名は定基、寂昭、三河入道。公卿・大江斉光の子。三河守、妻を亡くし、988年、出家し、寂心(慶滋保胤)らに師事した。1003年、源信から委託され天台宗に関する質問状を携え宋へ渡る。1004年、真宗皇帝により紫衣と円通大師の号を授かる。帰国せず杭州で亡くなる。文章、和歌に優れた。
◆公胤 平安時代後期-鎌倉時代前期の天台宗の僧・公胤(こういん、1145-1216)。明王院僧正。僧行顕(源憲俊とも)の子。大納言・正俊の孫。園城寺賢覚に師事し、公顕に灌頂を受ける。1205年、1209年、園城寺長吏に補される。1207年、僧正になる。後白河法皇(第77代)、後鳥羽上皇(第82代)の信仰を得て園城寺を興隆させた。源実朝、北条政子により鎌倉にも招請された。
 法然の専修念仏に反対し法然の『選択集』を論破した『浄土決疑抄』を著した。後に法然に会い帰依し、自著を破棄した。72歳。
◆隆弁 鎌倉時代前期-中期の寺門派僧・隆弁(りゅうべん、1208-1283)。光覚、大納言法印。父は四条隆房、母は藤原光雅の娘。1247年、鶴岡八幡宮別当に補任された。北条時頼の帰依により園城寺を興隆させる。のち園城寺長吏に就く。1251年、北条時宗の出産により能登国諸橋保を与えられ如意寺に寄進した。聖福寺を開く。鎌倉・長福寺で亡くなり、遺骨は如意峯西方院に納められた。如意寺・聖福寺僧正になる。歌人として知られた。76歳。
◆如意寺・遺構 「如意寺」は、「如意輪寺」とも呼ばれた。平安時代に創建されている。叡山三千坊の一つといわれた。最盛期の境内は、園城寺(三井寺)西にある長等山(大津市)より鹿ヶ谷(左京区)の山岳8㎞(3kmとも)、南は山科藤尾、北は志賀山まで広がっていたという。
 当時の伽藍の配置は、園城寺所蔵の鎌倉時代『園城寺境内古図』中の南北朝時代の『如意寺幅』(重文)にも記されている。峰々に伽藍60余りが描かれている。なお、鹿ヶ谷から池の地蔵、園城寺を結んだ山道の「如意越」(2.5km)が付けられていた。
 境内の東端、東の入口は園城寺(大津市)方面を登り口にしていた。上方の本堂には、本尊・千手観音が安置された。現在も、礎石、講堂基壇跡、石垣、石段跡などが残るという。ほかに、食堂、護法白山社、新羅社、八幡社、講堂、法華堂、常行堂、三重塔が建ち並んだ。
 西の入口は鹿ヶ谷(左京区)方面にあり、月輪門(楼門)、近くに現存する楼門の滝(如意の滝)があった。如意寺の楼門に因んで滝名が付けられたと見られている。付近には不動堂があった。東の発心門、丘陵地に大慈院、西方院、寶蔵院、熊野権現、宝厳院般若台、鐘堂が建ち、護法神が祀られていた。
 南の入口は、藤尾(大津市)方面を登り口として、丘陵斜面に楼門(藤尾門)、薬師如来を安置した正寶院、山王社、深禅院如法堂などが建ち並んでいた。
 近年の京都市埋蔵文化財センター、後に古代学協会、古代学研究所などの発掘調査が行われている。如意ヶ岳山頂付近に本堂跡などが見つかっている。9世紀の須恵器、緑釉陶器、灰釉陶器も見つかった。本堂西の丘陵地には、鎮守社の赤龍社跡があった。付近に深禅院跡もあり、池跡近くに現在は池の地蔵(石造地蔵像)が安置されている。像は室町時代の作であり、如意寺遺仏の伝承もある。周辺には祠跡、礎石などが残る。現在は雨神社が祀られている。尾根沿いに複数の伽藍の跡、平坦地、庭園跡も確認されている。
 なお、園城寺には、如意寺の旧本尊ともいう平安時代前期の十一面千手観音立像(重文)がある。
◆檜尾古寺・遺構 「檜尾古寺(ひのおこじ)」は、平安時代前期(9世紀前期初頭-前期中頃)、平安遷都の間もなくに、如意ヶ嶽南斜面(標高400m、山頂の南方270m)の山中に創建されたとみられている。詳細については分かっていない。
 密教系山林だったと推定されている。「檜尾」とは、檜の生えた山裾の尾根を意味し、寺号の由来になったとみられている。平安時代中期(10世紀中頃)に焼失廃絶したともいう。
 1985年に遺跡は発見されている。その後、2010年にも調査が行われている。2017年-2018年の京都女子大学考古学研究会の5次にわたる遺跡分布調査が行われた。等高線に沿って東西140m、南北130mの平坦地5カ所が確認された。2つの建物跡も確認された。
 尾根筋の建物1(5間3間)では、礎石自然石の15個が見つかった。東西桁行5間、中央3間は10尺(3m)、両側の長さ9尺(2.7m)の14.4m、南北梁間3間は、9尺(2.7m)等間8.1m、面積116.64㎡あった。礎石周辺から唐草文軒瓦、塑像片、土師器、鉄釘、壁土なども見つかっている。
 その南西尾根の建物2(5間2間)では、礎石(自然石、直径50-60㎝)11個が見つかり、東西5間(10尺、3m)等間15m、50尺(15m)、南北2間分のみ(2.7×2.1m)4.8mとみられている。建物は北端に当たるとみられる。礎石周辺から、焼けた煤の痕跡のある丸瓦、須恵器、土師器も見つかっている。
 建物跡、西谷、東谷から平安時代前期の軒丸瓦、軒平瓦、緑釉陶器、緑釉唾壺、緑釉椀類、灰釉壺、灰釉水瓶、灰釉陶器、灰釉甕、須恵器瓶子、四耳壺、土師器、焼痕のある漆箔の塑像片、鉄製楔、鉄釘、壁土焼けた丸瓦、須恵器、江戸時代の寛永通宝なども見つかっている。
 平安時代前期、848年に第55代・文徳天皇の母の藤原順子(のぶこ)は、安祥寺(あんしょうじ)を建立している。当寺の古文書、恵雲の『安祥寺資材帳』(856年、1385年書写の観智院本)には、安祥寺の境内(四至)は「北限檜尾古寺所」と記されている。
 檜尾古寺跡は、安祥寺の北西にあり、安祥寺上寺の真北に当たる。旧来は、現在の檜尾古寺跡は、如意寺子院の大慈院跡、西方院跡と推定されていた。今回の調査結果により、檜尾古寺跡の可能性が指摘されている。
◆如意ヶ嶽の遺跡 如意ヶ嶽の山中には、複数の遺跡がある。平安時代の「浄土寺七廻遺跡」、平安時代-中世の「如意寺跡」、平安時代後期の「如意ヶ嶽経塚群」、室町時代の「中尾城跡」・「灰山城跡」・「如意ヶ嶽城跡」、年代不明の「灰山庭園遺跡」。
 山中南方には平安時代前期の「安祥寺上寺跡」、平安時代後期の「安祥寺経塚群」、室町時代の「東岩倉山城跡」などがある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『平安の都』、『掘り出された京都』、『檜尾古寺跡』、「京都新聞2011年6月27日 、7月25日、8月22日-京の山寺・山城跡を行く 如意寺 上中下」、ウェブサイト「コトバンク」


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大文字山・如意ヶ岳 〒606-8452 京都市左京区粟田口如意ケ嶽
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