延年寺・延年寺旧跡墓地 (京都市東山区)  
Ennen-ji Temple
延年寺・延年寺旧跡墓地 延年寺・延年寺旧跡墓地
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延年寺旧跡墓地

延年寺旧跡墓地の表示


「右 浅見絅斎先生塋(墓)域」「忠誠の名医 和田東郭先生墓所入口」の石標


「贈正五位石田勘平先生墓道」の石標


「浅見絅斎先生之墓」


「石田勘平之墓」


「手島堵庵之墓」


「手島和庵之墓」


「柴田鳩翁之墓」


「識字陶工木米之墓」


「陶工木米妻墓」


「開祖日陣聖人御本廟」の石標

「開祖日陣聖人御本廟」


清水道、清水寺に至る。

【参照】近世以降の鳥辺野、西大谷
 延年寺(えんねんじ)は、かつて東山にあった。現在は西大谷墓地内に延年寺旧跡墓地(鳥辺山墓地)が残されている。
 西大谷廟背後は、鳥辺野延年寺山と呼ばれ、次第に墓地が増大した。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代、天平年間(729-749)、行基が五条坂東(鳥辺野小松谷とも)に五三昧場(葬墓地)として建立したという。
 鎌倉時代、1204年、法然の弟子・西仙房心寂が没し、「東山延年寺の上の山(鳥部山)に葬す」(『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』43)
 その後、兵火により焼失したという。
 江戸時代、1703年、「清水の西、正久寺の東二町ばかりに藪あり。これぞその(延年寺)旧地にて、今清水の領に属す」(円光大師行状画図翼賛』52)と記されている。その後、墓地、寺名は存続した。
 近代、明治期(1868-1912)、廃寺になったという。
行基 飛鳥時代-奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国(大阪府)の生まれ。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で、詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し太宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられた。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。80/82歳。
◆心寂 鎌倉時代前期の僧・心寂(しんじゃく、?-1204)。西仙房。叡空の弟子だった。後、法然門下になる。隠遁し、河内国讃良・尼入道の長者のもとへ身を寄せた。その後、上京し、妹の尼(姉小路白川、祓殿の辻子)のもとへ行き、庵のうしろに庇を作り念仏生活を送る。東山延年寺の上の山に葬られたという。
◆浅見絅斎 江戸時代前期-中期の儒者・浅見絅斎(あさみ-けいさい、1652-1711)。安正、号は望南楼。近江国(滋賀県)の医家に生まれる。京都で医学を学ぶ。1678年頃、京都の山崎闇斎に入門し、佐藤直方、三宅尚斎とともに「崎門(きもん)三傑」といわれた。直方とともに、師の学説に疑問を呈して破門になる。生涯京外に出ず仕官せず、油小路に講舎を設けた。朱子学者として大義名分論を説く。楠木正成を崇敬した。著『靖献遺言(せいけんいげん)』は、幕末の志士に広く読まれ、各藩校の教書になった。門人に私塾「望楠軒(ぼうなんけん)」を開いた若林強斎がいる。60歳。
 墓は鳥辺野墓地(東山区)にある。
◆石田梅岩 江戸時代前期-中期の石門心学者・石田梅岩(いしだ-ばいがん、1685-1744)。幼名は勘平。丹波国東懸(とうげ)生まれ。父は農家・石田権右衛門の次男。母はたね。11歳で京都の商家へ奉公に出る。15歳で一時帰郷した。1707年、23歳で再度上京し、呉服商・黒柳氏に仕えた。神道、儒教、仏教などを学ぶ。43歳で市井の隠者・小栗了雲を知る。1729年、自宅(車屋町通御池上ル東側)に講席を開いた。大坂にも進出する。1737年、堺町通蛸薬師上ルに移る。1744年、京都の自宅(堺町通六角下ル)で没した。妻帯しなかった。著書に『都鄙(とひ)問答』など。60歳。
 神、仏、儒、老荘を取り入れ、庶民に「性」は「天」より受け、四民( 士農工商)の差別はないとして万民平等を説いた。倹約、商人の利潤の正当性を認めさせた。社会教育・教化運動、道徳学の石門心学(せきもん-しんがく)の始祖になる。梅岩は、「心学」の言葉を用いなかった。門下に手島堵庵、斎藤全門、富岡以直、蒹葭慈音尼(けんか-じおんに)らがある。
 墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆手島堵庵 江戸時代中期の石門心学者・手島堵庵(てしま/てじま-とあん、1718-1786)。名は信、喬房(たかふさ)、通称は近江屋源右衛門、嘉左衛門。京都生まれ。父は商人・上河宗義。18歳で石門心学の祖・石田梅岩の門に入る。20歳で後継者になり、「心学二世」と呼ばれる。1744年、師の没後、華頂山麓に居を移した。門下の組織的改革、教化法の改善を進める。1762年/1752年、家督を長子・和庵(かあん)に譲り、心学の布教、統制に専念した。1765年、堵庵は隠居後の書斎を富小路通六角上ル朝倉町に営む。講舎「五楽舎」を開き、門弟の育成、心学の普及をした。1782年、講舎「明倫舎(めいりんしゃ)」を建て2世舎主になった。子ども、女性向けに心学道話を説く。後に「時習舎(じしゅうしゃ)」(西陣)、1773年、独立した講義施設の「脩正舎(しゅうせいしゃ)」(河原町三条)も創設した。京都所司代・松平信順、仁和寺宮済仁入道親王、土御門晴親らが聴講した。大黒屋三郎兵衛家らが支援した。著に『知心弁疑』など。門弟に中沢道二、上河淇水、布施松翁、脇坂義堂らがいる。
 没後、数千人の会葬者があり、華頂山麓の邸宅より黒谷まで道を埋め尽くしたという。69歳。
 墓は鳥辺山墓地(延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆中沢道二
 江戸時代中期-後期の石門心学者・中沢道二(なかざわ-どうに、1725-1803)。名は義道、通称は亀屋久兵衛。京都西陣の機屋に生まれた。日蓮宗、禅宗などの影響を受けた。40歳を過ぎて布施松翁(ふせ-しょうおう)の紹介で手島堵庵の門に入る。1779年、剃髪して名を道二と改め、堵庵の要請により江戸へ出て心学講舎「参前舎(さんぜんしゃ)」を創設した。関東、五畿七道27ヵ国に遊説し,道二・門下によって各地に心学講舎は21舎に及ぶ。「道話」を重んじ、庶民のみならず、播州山崎藩主・本多肥後守忠可をはじめ、多くの大名、家中、旗本、御家人などの武士にまで及んだ。松平定信が作った佃島人足寄場の教諭方にも就任した。著『道二翁道話』。79歳。
 墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆和田東郭 江戸時代中期-後期の医師・和田東郭(わだ-とうかく、1744-1803)。名は璞(はく)、字は韞卿(うんきょう)、通称を泰純。摂津高槻の生まれ。摂津高槻藩藩医・和田祇忠(やすただ)の3男。戸田旭山、吉益東洞の門に学ぶ。京都に出て二条家に仕え、1797年、朝廷の医官になり、法眼に叙せられた。「忠誠の名医」のといわれた。著『導水瑣言』など。60歳。
 墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆青木木米 江戸時代中期-後期の陶工・青木木米(あおき-もくべえ、1767-1833)。木屋佐兵衛(佐平)、通称は八十八、別号は青来、聾米(ろうべい九九鱗、古器観、,聾米など。茶屋「木屋」(祇園新地繩手町)の木屋佐兵衛の長男。幼い頃から文学に親しむ。儒者・篆刻家・画家・高芙蓉(こう-ふよう)に、鑑識や書画を学んだ。鋳金も初代・龍文堂に習う。学者・木村兼葭堂(けんかどう)の蔵書の中国清朝・朱笠亭著『陶説』に影響され、30歳で陶工の道に入る。建仁寺に隠棲していた陶工・奥田穎川(えいせん)に師事し、寶山文造にも従った。1805年、青蓮院宮の依頼により、粟田口に御用窯を開窯した。1806年-1808年、加賀藩前田家の招聘により、九谷焼春日山窯の再生に関わる。
 作品は煎茶器、白磁、青磁、赤絵、染付、色絵陶磁器の交趾(こうち)に名品を残した。金襴手染付、轆轤(ろくろ)物、薄い型物も手がけた。中国古陶磁、中国物の写し、文人画なども遺した。代表作「兎道朝暾図(うじちょうとんず)」がある。「幕末三名人」の一人(ほかに永楽保全、仁阿弥道八)といわれた。
 儒者の頼山陽、漢詩人・中島棕隠、国学者・上田秋成、画家・呉春、松村月渓谷、田能村竹田らとの交流があった。67歳。
 墓は鳥辺山墓地(東山区)にあり、墓碑には、儒者・書家の篠崎小竹の筆により「識字陶工木米之墓」と刻まれている。
◆柴田鳩翁 江戸時代中期-後期の心学者・柴田鳩翁(しばた-きゅうおう、1783-1839)。本名は亨、通称は謙蔵。京都生まれ。飛脚業(江戸飛脚本番)・奈良物屋吉兵衛の子。10歳代後半、両親を喪う。江戸に出る。25歳、京都に帰り、28歳、軍書講釈師になる。1821年、手島堵庵門下の心学者・薩埵徳軒(さった-とくけん)の「時習舎」で心学を学ぶ。43歳、心学の講師になった。1825年、45歳で失明した。剃髪し、12か国を巡説した。1833年以降、天保の飢饉に際して社中から義捐金を募る。1839年、都講(教師)に就任した。養嗣子・一作(遊翁)が筆記した著『鳩翁道話』 (9巻) は、心学道話の代表とされる。
 朱子学に基づく心の修養を重んじ、「道話」として心学の教化を行う。庶民、貴族、武士らに感化した。57歳。
 墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆三代目・市川九團次 近現代の歌舞伎役者・三代・市川九團次(1893–1955)。京都で生れる。生家は針工場で、父は後に市会議員を勤めた竹内嘉作。17歳で上京し、浅草駒形の蓬莱座で市川九太郎を名乗り初舞台を踏む。最初は女形だった。20歳で二代目・市川九團次の養子になり、1914年、市川莚蔵と改名した。後に二代目・市川左團次の門に入る。1918年、京都に戻る。1919年、中村扇雀(後の二代目・中村鴈治郎)を中心とした青年歌舞伎に加入した。1928年、三代目・市川九團次を襲名した。以後、関西歌舞伎で重宝な脇役として活躍した。妻女を失い、菩提を弔うために関西各地の神社仏閣に「寿海・雷蔵」「九團次・はな子」の一対の石灯籠を寄進した。62歳。
 八代目・市川雷蔵(1931-1961)は、生後6カ月の時に九團次の養子になり、竹内 嘉男と改名している。
◆墓 延年寺旧跡墓地(鳥辺山墓地)は、西大谷墓地内に残されている。淨光寺(中京区)が所有する。多くの著名人が葬られている。
 心学者の墓も多く、石田梅岩(いしだ-ばいがん、1685-1744)、手島堵庵(てしま/てじま-とあん、1718-1786、手島和庵(わあん、1747-1791)、手島毅庵、手島訥庵、中澤道二(なかざわ-どうに、1725-1803)、柴田鳩翁(しばた-きゅうおう、1783-1839)、上河湛水(うえかわ-きすい、1748-1817)、柴田遊翁(しばた-ゆうおう、?-1874)、薩埵徳軒(さった-とくけん、1778-1836)の碑がある。
 儒者・浅見絅斎(あさみ-けいさい、1652-1711)、儒者・若槻幾斎(わかつき-きさい、1746-1826)、儒者・中村益斎(?-1827)、儒者・春日亀敬(?-1858)、神道学者・大山為起(おおやま-ためおき、1651-1713)、学者・岡崎蘆門(?-1784)、天文地理学者・菅圭一(?-1800)、医師・和田東郭(わだ-とうかく、1744-1803)、医師・萩野元凱(おぎの-げんがい 、1737-1806)、医師・竹中南峰(?-1836)、陶工・青木木光(あおき-もくべえ、1767-1833)、画家・西村中和(にしむら-ちゅうわ、?-?)、書家・河北桃浪(かわきた-とうろう、1724-1794)の髪塔がある。(『京都名家墳墓録』)
 歌舞伎役者・3代目 市川九團次(1893–1955)、はな夫人。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「新纂浄土宗大辞典」、『京都市の地名』、ウェブサイト「淨光寺」、ウェブサイト「歌舞伎俳優名鑑」、ウェブサイト「コトバンク」


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