石門心学脩正舎跡・石田梅岩・手島堵庵・柴田鳩翁 (京都市下京区)  
The ruins of Shusei-sha(private school)
石門心学脩正舎跡 石門心学脩正舎跡
50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

「石門心学脩正舎」の石標
 麸屋町通五条上ル東側に「石門心学脩正舎(せきもん-しんがく-しゅうせいしゃ)」の石標が立てられている。
 この地に、かつて石門心学教化のための講舎「脩正舎(修正舎)」があった。
◆歴史年表 江戸時代、1773年、石門心学者・手島堵庵は、「脩正舎」を現在地の西、五条通東洞院東入ルに開く。
 1788年、天明の大火により焼失した。
 1812年、麩屋町通五条上ルに再建された。
 1827年、心学者・柴田鳩翁(1783-1839)は、創建地(五条東洞院)に「脩正舎」を再興する。
 近代、1911年、鳩翁の孫・謙堂は、「脩正舎」を現在地(麸屋町通五条上ル東側)に移した。
◆石田梅岩 江戸時代前期-中期の思想家・石田梅岩(いしだ-ばいがん、1685-1744)。名は興長、通称は勘平。丹波国(京都府・兵庫県)東懸(とうげ)生まれ。父は農家・石田権右衛門の次男。母はたね。11歳で京都の商家へ奉公に出る。15歳で一時帰郷した。1707年、23歳で再度上京し、呉服商・黒柳氏に仕えた。神道、儒教、仏教などを学ぶ。43歳で市井の隠者・小栗了雲を知る。1729年、自宅(車屋町通御池上ル東側)に講席を開いた。大坂にも進出する。1737年、堺町通蛸薬師上ルに移る。1744年、京都の自宅(堺町通六角下ル)で没した。妻帯しなかった。著書に『都鄙(とひ)問答』など。60歳。
 神、仏、儒、老荘を取り入れ、庶民に「性」は「天」より受け、四民( 士農工商)の差別はないとして万民平等を説いた。倹約、商人の利潤の正当性を認めさせた。社会教育・教化運動、道徳学の石門心学(せきもん-しんがく)の始祖になる。梅岩は、「心学」の言葉を用いなかった。門下に手島堵庵、斎藤全門、富岡以直、蒹葭慈音尼(けんか-じおんに)らがある。
 墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆手島堵庵 江戸時代中期の石門心学者・手島堵庵(てしま/てじま-とあん、1718-1786)。京都生まれ。名は信、喬房(たかふさ)、通称は近江屋源右衛門、嘉左衛門。父は商人・上河宗義。18歳で石門心学の祖・石田梅岩の門に入る。20歳で後継者になり、「心学二世」と呼ばれる。1744年、師の没後、華頂山麓に居を移した。門下の組織的改革、教化法の改善を進める。1762年/1752年、家督を長子・和庵(かあん)に譲り、心学の布教、統制に専念した。1765年、堵庵は隠居後の書斎を富小路通六角上ル朝倉町に営む。講舎「五楽舎」を開き、門弟の育成、心学の普及をした。1782年、講舎「明倫舎(めいりんしゃ)」を建て2世舎主になった。子ども、女性向けに心学道話を説く。後に「時習舎(じしゅうしゃ)」(西陣)、1773年、独立した講義施設の「脩正舎(しゅうせいしゃ)」(河原町三条)も創設した。京都所司代・松平信順、仁和寺宮済仁入道親王、土御門晴親らが聴講した。大黒屋三郎兵衛家らが支援した。著に『知心弁疑』など。門弟に中沢道二、上河淇水、布施松翁、脇坂義堂らがいる。69歳。
 没後、数千人の会葬者があり、華頂山麓の邸宅より黒谷まで道を埋め尽くしたという。墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。
◆柴田鳩翁 江戸時代中期-後期の心学者・柴田鳩翁(しばた-きゅうおう、1783-1839)。本名は亨、通称は謙蔵。京都生まれ。飛脚業(江戸飛脚本番)・奈良物屋吉兵衛の子。10歳代後半、両親を喪う。江戸に出る。25歳で、京都に帰り、28歳で、軍書講釈師になる。1821年、手島堵庵門下の心学者・薩埵徳軒(さった-とくけん)の「時習舎」で心学を学ぶ。43歳で、心学の講師になった。1825年、45歳で失明した。剃髪し、12カ国を巡説した。1833年以降、天保の飢饉に際して社中から義捐金を募る。1839年、都講(教師)に就任した。養嗣子・一作(遊翁)が筆記した著『鳩翁道話』 (9巻) は、心学道話の代表とされる。57歳。
 朱子学に基づく心の修養を重んじ、「道話」として心学の教化を行う。庶民、貴族、武士らに感化した。
◆柴田謙堂 近代の心学者・柴田謙堂(?-?)。詳細不明。父は遊翁。柴田鳩翁の孫になる。父の後を継ぎ、心学塾修正舎主になった。旧薩摩藩士・歌人・高崎正風らと一徳会を設立した。
◆石田梅岩・石門心学 朝日神明宮境内の北隣に、「石門心学修正舎」の石標が立つ。
 江戸時代、1729年に思想家・石田梅岩は、車屋町の自宅に講席を開いた。月次会(つきなみえ)では、聴講無料、紹介状不要、年齢性別も問わなかった。このため、農民、町民、武士、女性、子どもも参加した。「町人の哲学」と呼ばれ、庶民に「性」、倹約について説き、商人の利潤の正当性を認めさせた。大坂にも進出する。18世紀末には全国に普及する。
 その弟子・手島堵庵(1718-1786)は、江戸時代、1765年に自宅(富小路三条下ル)に「五楽舎」を開く。会輔という月次の会が持たれ、講舎の制があった。1773年、「脩正舎」(五条東洞院東入ル)、1779年、「時習舎」(今出川千本東入ル)、1782年、「明倫舎」(河原町三条)も相次いで開かれ、三舎が教化活動の中心になる。それぞれに認可証が発行され、「三舎印鑑」といわれた。天明・享和年間(1781-1804)には、京都を中心に一大勢力に発展した。
 脩正舎は、江戸時代、1788年の天明の大火により焼失した。1812年に、麩屋町通五条上ルに再建されている。1827年に、心学者・柴田鳩翁(1783-1839)は、創建地(五条東洞院)に「脩正舎」を再興する。近代、1911年に鳩翁の孫・謙堂は、現在地(麸屋町通五条上ル東側)に移し再興したという。
 明倫舎も、1788年の天明の大火により焼失する。江戸時代、1869年に下京三番組小学校(後の明倫小学校)に転用された。明倫舎は新町二条上ルに移っている。
 石門心学は、幕末-近代以降、次第に衰退した。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用し ています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都歴史案内』、『京都大事典』、ウェブサイト「京都市 文化史19  石門心学 」、ウェブサイト「柴田謙堂、行書十四字」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area  周辺,surrounding area朝日神明宮   関連,relevance手島堵庵五楽舎址  関連,relevance元明倫小学校(京都芸術センター)・明倫舎跡  関連,relevance延年寺・延年寺旧跡墓地    
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 石門心学脩正舎跡 〒600-8059 京都市下京区下鱗形町558-1,麸屋町通五条上ル東側
50音索引,Japanese alphabetical order ホーム,Home  top 50音索引,Japanese alphabetical order ホーム,Home  top
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光