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不動堂明王院(明王院不動堂)・亭子院 (京都市下京区) Fudodo-myooin Temple |
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不動堂明王院 | 不動堂明王院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 水子不動尊 |
京都駅の西北、高層建物群に取り囲まれるようにして、不動堂明王院(ふどうどう-みょうおういん)は建つ。不動堂とも呼ばれている。北隣には、道祖神社がある。「不動堂村」の地名は当院に因むとされる。 西山浄土宗、本尊は空海作という霊石不動明王。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、823年、真言宗開祖・空海が教王護国寺(東寺)を建立した際に、寺の東北の鬼門に当たるこの地に、法域守護のために、不動尊を祀ったことに始まるという。尊像は、空海がこの地で発見した「妙霊なる石」に自らが刻んだという。この霊石不動は石棺に納められ、地中の井戸深く安置されたという。 899年、第59代・宇多法皇(867-931)は、東七条御所(亭子院)を営むにあたり、この霊石を掘り出させようとした。霊石不動を見たものの眼を痛め、恐れをなしたため果たせなかったという。法皇は、勅を出して井戸を封じさせた。以来、大きな堂宇を営み、霊石不動明王の号を贈り、念持仏とした。法皇は仁和寺第1世であり、以後、真言宗御室派総本山・仁和寺の直属道場になった。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により、御所、不動堂も焼失した。その後、堂宇は再建される。 江戸時代、1695年、亭子院が法金剛院(右京区)に子院として移された。不動堂は残る。南400mの現在地に移転し、独立し不動明王院と称した。 1764年、現在の本堂の修復が行われている。 1782年、西山浄土宗に改宗した。 1864年、禁門の変の兵火では、火の手は不動堂前で止まり焼失を免れたという。 ◆本尊 本尊は、奈良時代-平安時代前期の空海(774-835)の一刀三札により刻まれた「霊石不動明王」という。不動明王は現在も井底に封じられたままであり、誰の目にも触れていないという。 御前立として「不動尊立像」を安置する。右脇侍として「弘法大師像」、左脇侍として「役行者像」を安置する。 不動尊立像は俗に、空海作の三不動尊(ほかに、高野山派切不動尊、成田不動尊)のひとつといわれている。江戸時代後期、1864年、禁門の変の際の兵火は、不動堂前で留まり堂の焼失を免れたという。井戸内の不動明王の霊験によるといわれた。また、「智証大師作の名不動」とも呼ばれ、名不動七か所参りの「二番ふだうどう 七条油小路」と記されている。(『京すずめ案内書』) ◆亭子院 亭子院(ていじのいん)は、西洞院大路の西、油小路の東、七条坊門小路南、北小路北の方一町にあった。現在の植松公園(下京区植松町)は、敷地の東北部に当たる。 平安時代前期、第53代・淳和天皇の女御・永原原姫(? -868)の邸宅であり、池中の中島に亭(亭子、あずまや)を設けていたことから亭子院と呼ばれた。原姫没後、大納言・藤原基経(836-891)の別邸になる。その娘・温子(872-907)は、第59代・宇多天皇の女御(後に中宮)になり、亭子院は里第(東七条宮)になる。宇多法皇は御所とし、御息所・藤原褒子(?-?)などが住した。第60代・醍醐天皇も度々行幸した。 温子の女房に歌人・伊勢(872頃- 938頃)がいた。宇多上皇により、平安時代中期、911年、亭子院酒合戦、913年、亭子院歌合などの宴が催されている。931年に宇多上皇没後、寺院に改められる。 南北朝時代、1389年、足利義満は油小路の東、七条坊門小路の南の4町を安堵した。室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)により被災する。江戸時代、1695年、法金剛院(右京区)に子院として移された。不動堂は移らず、南400mの現在地に移転し、独立し不動明王院と称した。近代、1868年に亭子院は廃絶している。 ◆年間行事 修正会(1月2日)、涅槃会(2月中旬)、花祭り(4月8日)、成道会(12月8日)。 護摩木法要(毎月28日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都市の地名』、『平安京散策』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都新選組案内』、『新選組大事典』、『新選組と幕末の京都』、『京都史跡事典』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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