旧二条城 (京都市上京区)
The ruins of Old Nijo-jo Castle
旧二条城 旧二条城 
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「旧二條城跡」の碑、平安女学院、上京区勘解由小路町


「此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」の碑、平安女学院、上京区椹木町通室町上ル


京都御苑内に復元された「推定旧二条城の復元石垣」、京都御苑椹木口を入った北側、旧二条城の敷地の一部は、御苑内の南西地域にかかっていたとみられている。京都市地下鉄烏丸線の工事(1975-1978)に伴う発掘調査により、丸太町北付近にから発見されたという。もとは南面していたのを、90度回転させ、東西方向に復元されている。


二条城内に復元された「旧二条城の石垣」、烏丸下立売から出土した石により再建された。石組は上下二段に分かれ、間に「犬走り」部分が造られている。出土した際は、北面し、東西方向に走り、東南角へ折れていたという。復元されたものは、90度回転させ、南北方向に再現されている。なお、旧二条城と現二条城に、名称以外の関連はない。


同左、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏、五輪塔、庭石、石灯籠等なども再利用された。左下の石材は、石灯籠か石塔の一部だろうか。


【参照】旧二条城の出土石仏群(京都市洛西竹林公園)


【参照】旧二条城の出土石仏群(京都市洛西竹林公園)
 京都御苑の北西にある平安女学院の敷地の一角に、「旧二条城跡」の碑が立てられている。旧二条城は、現在の京都御苑の西に存在したとみられている。付近には、義輝、義昭の「二条城」「武家御城(ぶけごじょう)」があったとみられている。「二条御所」、「古二条城」とも呼ばれた。
 その範囲は、北端は現在の出水通の北、東端は烏丸通の東、敷地の東側の一部は現在の御苑内に一部入り込んでいた。南端は丸太町通の南、西端は衣棚通の西に囲まれた範囲にあった。 
◆歴史年表 室町時代、現在の平安女学院付近には、武衛(ぶえい)陣といわれる邸宅があり、室町幕府管領・斯波(しば)義将(1350-1410)の居宅となっていた。武衛とは、宮中御所守護、兵衛府のことで、兵衛督をしていた斯波氏の家号であり、唐名を武衛といったことから名付けられた。
 その後、斯波氏が相続する。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失する。
 1547年、跡地に、室町幕府第13代将軍・足利義輝(1536-1565)の館「武衛陣第」が築かれ、幕府を置いた。
 1565年、「永禄の変」により、松永久秀と三好義継ら三人衆により城は襲撃される。義輝は殺害され、城も焼失した。
 1569年、上洛した織田信長(1534-1582)は、武衛陣第跡に、室町幕府15代将軍・足利義昭(1537-1597)の将軍座所を造営した。当初は「武家御城」「公方之御城」と呼ばれた。(『言継卿記』)。義昭は、信長の武力を後ろ盾に将軍職に就いている。ルイス・フロイスは二条城築造現場で信長と初対面している。その後も度々訪れた。
 1570年、信長は、将軍・義昭に、行動を規制する掟書を出した。
 1573年、義昭は二条城で挙兵し立て籠もる。上京は義昭を支持、下京は信長に服従する。信長は義昭に反攻し、上京を焼き払い、二条城を包囲した。「和解」により義昭は城を去る。義昭の抵抗・亡命政権はその後も続く。同年に室町幕府は滅んだ。
 1580年、信長により、押小路室町に、第106代・正親町(おおぎまち)天皇の第5皇子・東宮誠仁(さねひと)親王の居館、新御所が造営され、献上された。この際に、旧城は解体され、新御所の建築用材に再利用される。
 近代、1895年、平安女学院が大阪川口居留地より移転している。
 現代、1974年、京都市営地下鉄烏丸線工事に伴い、発掘調査が始まる。
 1980年、発掘調査が終わる。
 1983年、京都市洛西竹林公園に移された出土した石造物群は、京都市指定有形文化財に指定された。
◆足利義輝 室町時代の室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかが よしてる、1536-1565)。12代将軍・義晴の子に生まれる。1546年父・義晴が管領・細川晴元と対立し、三好長慶に追われ父子は近江坂本に滞在中に元服し将軍に任官した。1548年、晴元と和睦後、長慶の裏切りにより1549年、義晴・義藤(義輝)・晴元は近江に逃れた。1552年、長慶と和睦するが再び対立し、1553年、晴元とともに長慶と戦うが敗れて近江朽木に逃れた。1558年、如意ヶ岳に布陣し三好長逸らの軍と交戦、後に和睦し京都での幕政を再開した。義輝は長慶の岳父・遊佐長教を暗殺、上杉景虎、斎藤義竜、織田信長らを在京させ長慶を牽制した。1558年、久米田の戦い、1562年、伊勢貞孝反乱後、三好氏は衰微し、1564年、長慶は病没する。だが、松永久秀と三好三人衆は足利義稙の養子・義維と組み、嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍として擁立し、義輝と対立した。1565年、久秀らは謀叛を起こし、義輝は武衛陣の仮御所で軍勢に包囲され自刃した。室町幕府最後の将軍になる。
 義昭は、信長を「御父」と呼び、上洛後、信長に副将軍か、管領への就任を依頼したがこれを断っている。
◆足利義昭 室町時代の室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかが よしあき、1537-1597)。足利義晴の子。母は前関白近衛尚通の娘・慶寿院。1542年、母の兄・近衛稙家の猶子、興福寺一乗院に入室、同院門跡権少僧都に就任、覚慶と号した。1565年、兄の13代将軍・義輝が暗殺され、、近江の和田惟政の館に逃れた。1566年、還俗し義秋と称した。若狭を経て、越前・朝倉義景を頼る。1568年、元服し義昭と改名した。美濃・織田信長に迎えられ、擁立されて入洛、15代将軍に就任した。1569年、信長により二条城が築城される。その後、義昭は親裁権を主張し信長と対立した。1572年、武田晴信(信玄)、上杉輝虎(謙信)らと結び、浅井長政、朝倉義景、本願寺らによる信長包囲を結んだ。1573年、浅井、朝倉らは敗死、宇治・槙嶋城で挙兵、信長軍に敗れる。実子・義尋を質に差し出して河内若江に退去、室町幕府は倒壊した。以後、紀伊由良、備後鞆に逃れ、毛利氏を頼って再起を図る。1580年、本願寺も降伏する。1582年、信長没後、羽柴秀吉に帰京を要請し、秀吉は義昭の養子となり、征夷大将軍を望むが拒否される。1588年、帰京し、出家、昌山道休と号した。1592-1593年、文禄の役に名護屋本営に従軍した。
 大坂で死去した。相国寺・霊陽院に葬られる。等持院に木像が安置されている。
◆ルイス・フロイス 室町時代に来日した宣教師のルイス・フロイス(1532-1597)。ポルトガルに生まれた。カトリック司祭、宣教師。イエズス会会員。1548年インドゴアで日本宣教へ向かうフランシスコ・ザビエル、日本人協力者ヤジロウに出会う。1563年、横瀬浦(長崎県)に上陸、平戸を経て1565年、京都に入る。1569年、将軍・足利義昭を介し織田信長と二条城の建築現場で対面し、以後、畿内での布教を許される。一時九州に移り、1580年、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として安土城で信長に拝謁した。1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令後、長崎に移る。1590年、帰国した天正遣欧使節を伴い再来日したヴァリニャーノに同行し、聚楽第で秀吉と会見した。1592年、一時マカオに渡り、1595年、長崎に戻る。『日本史』(1565)、『二十六聖人の殉教記録』(1597)を著した。
◆旧二条城・遺跡 安土・桃山時代、1569年、織田信長(1534-1582)は、室町幕府15代将軍・足利義昭(1537-1597)の将軍座所を造営した。当初は「武家御城」「公方之御城」と呼ばれた。その場所は、勘解由小路(かげゆこうじ、下立売通)室町の義輝旧邸だった。(『言継卿記』)
 義輝の城跡を中心に拡張工事を行い、390m四方(東西366m、南北388mとも)の敷地に築城した。信長自身が普請総奉行として工事の陣頭指揮を執った。毎日、尾張など14諸国より集められた15000人-25000人の人役が従事し、70日間(2月2日-4月14日)の短期間で完成させる。平城は二重の堀で囲まれており、入口に吊り上げ橋、西南隅に三重の天守を持つ強固な城だった。建築資材、調度品は、法華宗本山・本国寺から調達されたという。濠の石垣構築には、洛中、洛外の石仏、石像、五輪塔、さらに庭石、石灯籠、板碑なども利用されたという。信長は、石仏の首に縄を付けて運び、人々を震撼させた。屋根瓦は金箔瓦、高い石垣を持ち、内部は金銀が散りばめられた。庭には泉水、築山が造られていたという。(イエズス会の宣教師でポルトガル人のルイス・フロイス『日本史』(1584-1593)、1569年、ルイス・フロイスは二条城築造現場で信長と初対面している。その後も度々訪れた。 
 その後、信長と義昭の関係は悪化し、信長は義昭を追放する。1573年、義昭は二条城で挙兵し、信長はこれに反攻した。信長は、上京を焼き払い、二条城を包囲した。「和解」により義昭は城を去る。義昭の抵抗、亡命政権はその後も続いたものの、1573年に室町幕府は滅んだ。
 1974年以来の地下鉄工事に伴う発掘調査により、旧二条城は内堀、外堀の二重の石垣により囲まれていたことが分かった。外堀北辺(烏丸出水交差点北)、内堀北辺(烏丸通下立売交差点北付近)、内堀南辺(烏丸通椹町交差点付近)、外堀南辺(烏丸丸太町通交差点北付近)、南北の外堀間390m、内堀間160m、東西外堀間の推定は150mあったとみられている。現在の京都御苑の南西付近、東の一部は御苑内に入っていた。堀中より斬首されたとみられる頭蓋骨も見つかっている。石積みの工法は、野面積みの石の長辺を奥に向けた牛蒡積みを用いていた。
 2016年の古代文化調査会の発掘調査により、外堀と内堀の間、城郭の南西に新たな素掘りの堀跡が発見された。フロイスが記述した「三つの堀」の跡とみられる。1573年、信長と対立した義昭が、二条城に立て籠った際の堀跡とみられる。堀は防御のために三重に掘られていた。長さ8m、幅最大7m、深さ3.4m。
 それらの遺構は現在、二条城(烏丸椹木町の石垣)、京都御苑(丸太町の石垣)、京都市洛西竹林公園(石造物、石垣として使用)に保存されている。これらの出土物は、1983年に京都市指定有形文化財(考古資料)に指定された。 
◆複数の「二条城」 二条城(旧二条城)と呼ばれる居城、御所は複数存在した。
 室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城、 織田信長が築城した室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城、織田信長が築城した「二条新御所(二条御所)」、羽柴秀吉が聚楽第完成まで使った「二条第(妙顕寺城)」、徳川家康築城の現存する「二条城(元離宮二条城)」などがある。
 現在地付近には、義輝、義昭の「二条城」「武家御城(ぶけごじょう)」があったとみられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『遺跡から見た京都の歴史』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『つちの中の京都2』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『京都まちかど遺産めぐり』『京都事典』『京都時代MAP 安土桃山編』『京都・観光文化 時代MAP』

 

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「旧二條城跡」、「此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」、京都御苑、二条城 

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