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阿弥陀寺 (京都市上京区) Amida-ji Temple |
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阿弥陀寺 | 阿弥陀寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ウメ ![]() サクラ ![]() ![]() 紅葉 ![]() 庫裏 ![]() 玄関 ![]() 塔頭・帰白院 ![]() 塔頭・帰白院 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 鎮守社 ![]() 鎮守社 ![]() 鎮守社 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 織田信長信忠討死衆墓所の石標 ![]() 織田信長、信忠の墓 ![]() 織田信長、信忠の墓 ![]() 森蘭丸・坊丸・力丸兄弟墓石(中央の三基)、家臣の墓 ![]() 家臣の墓 ![]() ![]() 【参照】「芝薬師町」の町名 |
阿弥陀寺(あみだ-じ)は、鴨川の東、南北5kmの寺町筋にある。号は蓮台山(れんだいざん)という。 浄土宗鎮西義(ちんぜいぎ)派、知恩寺末寺。本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 室町時代、天文年間(1532-1554)、清玉(せいぎょく)上人(生誉)が飯尾元運などの援助を得て開創した。かつて近江国坂本にあったという。 1555年、管領代の旧跡、芝薬師町(今出川大宮東、堀川西)に寺を建てる。上立売猪熊西入ルから今出川にかけて広大な境内を有した。三好長慶の禁制を与えられた。蓮台野に近いため、山号を蓮台山とした。以来、室町幕府に外護される。 永禄年間(1558-1570)、千部経読誦、別時念仏の時は禁制が出された。 1560年、室町幕府により千部経読誦が行われる。 1563年、別時念仏の際に、市場を開くことを認められ、織田信長の帰依も受けた。境内は、元伊佐町(上京区黒門通今出川上ル、旧織田稲荷社社地)にあった。 安土・桃山時代、1582年、6月、本能寺の変後、信長が帰依した清玉は、信長、家臣の屍を境内に葬ったという。 1587年/1585年、豊臣秀吉によるお土居築造、都市改造により、現在地に移転になる。信長父子、森蘭丸ら120余人の墓もこの地に遷された。 江戸時代、塔頭12を有した。 1673年、延宝の大火により焼失する。 1788年、天明の大火で焼失した。その後、再建されている。 ◆清玉 生誉 室町時代後期の僧・清玉 生誉(せいぎょく-せいよ、1542?-?)。詳細不明。男性。母は尾張(愛知県)鳴海の路上で分娩に苦しむ。同地に陣した織田信秀庶子・信広が憐れみ、医に命じ服薬するが効なく亡くなる。その時生まれたのが清玉ともいう。また、1560年、桶狭間の戦いの際に、織田信長に助けられた女人の子とされ、織田家で養育されたともいう。天文年間(1532-1554)、当初は近江国坂本に阿弥陀寺を建立する。信長が帰依したという。1582年、本能寺の変後、信長、家臣の屍を阿弥陀寺(上京区)境内に葬ったという。 ◆織田 信長 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・織田 信長(おだ-のぶなが、1534-1582)。男性。幼名は吉法師(きちほうし)、三郎、官名は上総介(かずさのすけ)。尾張(愛知県)の生まれ。父・守護代家老・織田信秀、母・土田御前。1546年、元服し、1547年、三河へ初陣、1549年、美濃・斎藤道三の娘・濃姫と結婚した。1551年、父没後、家督を継ぐ。1557年、弟・信行らの反乱を抑え、1558年、信行を暗殺した。1559年、岩倉城主・織田信賢を破り尾張国を統一した。1560年、桶狭間の戦で駿河・今川義元を討つ。1562年、三河・松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ。1563年 、本拠を小牧山城に移転した。 1567年、美濃・斎藤龍興を滅ぼし、稲葉山・井ノ口城を岐阜城に改める。1568年、近江・六角義賢を追い上洛し、足利義昭の将軍職就任を助けた。二条御所の造営を行う。1569年、北伊勢・北畠氏を屈伏させ、二男・信雄を養子に入れる。イエズス会・フロイスの京都往還を許した。軍資金提供を要求し拒否した自治都市・堺を攻める。1570年、姉川の戦で信長・家康の連合軍は浅井長政・朝倉義景の連合軍を破る。摂津で三好三人衆を討ち、石山本願寺との合戦も起こる。1570年-1574年、伊勢・長島の一向一揆を鎮圧した。1571年、浅井らに与した延暦寺を焼討した。1573年、将軍義昭を追放し、室町幕府を滅ぼす。示威のため上京を焼く。1575年、長篠の戦で家康と連合し、鉄炮隊により武田勝頼を破る。従三位権大納言兼右近衛大将になり、岐阜城を本拠とし、家督を嫡男・信忠に譲る。1576年、拠点になる安土城を築く。1577年、従二位右大臣になる。1580年、石山本願寺(大坂本願寺)と和睦し、畿内は平定される。中国の毛利氏攻略に動く。第106代・正親町天皇の東宮誠仁(さねひと)親王を猶子とし、1581年 、内裏東で京都御馬揃えを催した。1582年、甲斐・武田氏を滅ぼし、信濃の北口を平定した。中国の毛利氏を攻めるため本能寺に宿泊し、家臣・明智光秀に討たれ自害した。全国統一の業半ばで倒れる。(本能寺の変)。49歳。 京都所司代に村井貞勝を任命し、守護などのを掌握、家臣団が各地を支配した。戦で鉄砲を初めて実戦使用した。指出(さしだし)・検地、分国での関所廃止、撰銭令(えりぜにれい)を出し通貨整備を行おうとした。京七口の皇室領率分関を残した。貿易奨励、商人統制を行い、城下町以外では座組織を認めた。比叡山延暦寺、槇尾寺、高野聖、一向一揆への弾圧の一方、キリスト教を保護した。上京、尼崎を焼き、堺などの武装を解除した。城下町安土では楽市・楽座、公事免許などを実施した。茶の湯の千利休、津田宗及、今井宗久らを茶道として召し抱えた。 墓は大徳寺・総見院(北区)、阿弥陀寺(上京区)、本能寺(中京区)、建勲神社(北区)は信長を祀る。 ◆織田 信忠 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・織田 信忠(おだ-のぶただ、1555-1557)。男性。幼名は奇妙(丸)、初名は信重、通称は菅九郎。尾張国(愛知県)の生まれ。父・織田信長、母・久庵慶珠の長男。。1567年、武田信玄・五女・松姫と婚約した。1570年、父に従い長島の一向一揆をした。1572年、岐阜城で元服する。信長が信玄と敵対し、婚約解消した。父とともに近江小谷城の浅井長政を攻め初陣を飾る。父に従い、石山合戦、1574年、岩村城の戦い、伊勢長島攻めと転戦した。1575年、長篠の戦い、岩村城攻めで総大将として勝利した。1576年、父より家督、美濃東部、尾張国の一部を譲られ岐阜城主になった。正五位下に叙せられ、出羽介、秋田城介に任じられる。1577年、雑賀攻めで中野城を落とした。信貴山城の戦いの功により、従三位左近衛権中将に叙される。この頃より信長に代わり総帥として兵を率いる。1578年、上月城の戦い、1579年、有岡城攻め、1582年、甲州征伐で先鋒大将として甲斐の武田勝頼を討ち、恵林(えりん)寺を焼打し、快川紹喜ら150人の僧を焼き殺した。6月2日、本能寺の変で、信忠は備中高松城を包囲の羽柴秀吉への援軍のため、妙覚寺に宿泊した。信長の宿所・本能寺を明智光秀が急襲し、信忠は本能寺へ向かう。信長自害の報で二条新御所に移動し、異母弟・津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと篭城した。誠仁親王を脱出させ、明智軍・伊勢貞興の攻めにより自害した。26歳。 墓は阿弥陀寺(上京区)、大徳寺・総見院(北区)にある。 ◆森 蘭丸 安土・桃山時代の武将・森 蘭丸(もり-らんまる、1565-1582)。男性。名は成利(なりとし)、長定(ながさだ)、乱法師。美濃(岐阜県)の生まれ。父・森可成(よしなり)、母は林通安の娘・妙向尼の3男。兄に長可、弟に長隆(坊丸)、長氏(力丸)。15歳で織田信長に小姓として仕えた。信長に寵愛され奏者、奉行を勤めた。1581年、近江の内、1582年、3月、武田氏滅亡後に美濃岩村を与えられた。加増された。6月、本能寺の変で、信長に近侍し、本能寺に宿泊中に明智光秀軍の安田国継に急襲された。槍で防戦し、弟・坊丸、力丸とともに討たれた。 18歳。 墓は阿弥陀寺(上京区)にある。 ◆森 長隆 安土・桃山時代の武将・森 長隆(もり-ながたか、1566-1582)。男性。幼名・通称は坊丸(ぼうまる)。美濃(岐阜県)の生まれ。父・森可成(よしなり)、母・林通安の娘・妙向尼の4男。兄に長可、成利(蘭丸)、弟に長氏(力丸)。織田信長に仕え、小々姓の一人になる。1582年、本能寺の変に際し、信長に近侍し、本能寺に宿泊中に明智光秀軍の安田国継に討たれた。17歳。 墓は阿弥陀寺(上京区)、大徳寺・三玄院(北区)、可成寺(岐阜県可児市)などにある。 ◆森 長氏 安土・桃山時代の武将・森 長氏(もり-ながうじ、1567-1582)。男性。幼名は力丸(りきまる)。美濃(岐阜県)の生まれ。父・森可成(よしなり)、母・林通安の娘・妙向尼の5男。兄に長可、成利(蘭丸)、長隆(坊丸)。織田信長に仕え、小々姓の一人になる。1582年、本能寺の変に際し、信長に近侍し、本能寺に宿泊中に、明智光秀軍の安田国継に討たれた。15歳。 墓は阿弥陀寺(上京区)、大徳寺・三玄院(北区)、可成寺(岐阜県可児市)などにある。 ◆皆川 淇園 江戸時代中期-後期の儒学者・皆川 淇園(みながわ-きえん、1735/1734-1807)。男性。名は愿、字は伯恭、別号に有斐斎、有斐斎。京都の生まれ。父・皆川成慶。伊藤錦里、三宅元献に儒学を学ぶ。開物論を唱え、経書の注釈書を著した。亀山藩、平戸藩、膳所藩藩主に賓師として招かれた。京都に家塾を開く。柴野栗山、赤松滄洲らと詩社の三白社を起こす。1765年、産科学の賀川玄悦を助け医書『産論』4巻をまとめる。山水画にも長け、師・円山応挙につく。1806年、学問所「弘道館」を開いた。門弟は3000人と多い。74歳。 阿弥陀寺(上京区)に葬られた。墓誌は大名・松浦清により、書は大名・本多康完が記した。 ◆蝶夢 江戸時代中期-後期の時宗の僧・俳人・蝶夢(ちょうむ、1732-1796)。男性。別号は五升庵、泊庵。京都の生まれ。法国寺(時宗)に入り、其阿(きあ)に師事、9歳で得度する。13歳で俳諧を志し、宗屋(そうおく)門下。宝暦年間(1751-1763)、阿弥陀寺(浄土宗)帰白院の住職。1757年、敦賀に赴く。俳人・行脚僧の既白、二柳・麦水などと交流し、蕉風俳諧の復興を志す。35歳で帰白院を譲り、岡崎に草庵「五升庵」を結ぶ。義仲寺翁堂などを再建し、粟津文庫も遺す。松尾芭蕉の遺作を研究し多くの著書を残す。64歳。 阿弥陀寺(上京区)に葬られた。 ◆仏像 ◈本堂に本尊「阿弥陀如来」を安置する。 ◈脇壇に「織田信長影像」、「織田信忠影像」を安置する。 ◈織田信長の位牌が祀られている。 ◆文化財 ◈清玉自筆の本能寺の変の「戦没者名簿(過去帳)」1巻がある。 ◈「明智光秀書状」。 ◆織田稲荷社 現在、今宮神社境内に織田稲荷社が祀られている。 織田稲荷社は、祭神に織田信長(1534-1582)を祀る。かつて、信長の墓所のあった阿弥陀寺の旧地(西陣元伊佐町、黒門通今出川上る西側とも)にあった。 信長は、阿弥陀寺の住職・清玉を養育したという。安土・桃山時代、1582年の本能寺の変で清玉は、織田信長、家臣ら120余人の遺骸を寺に葬ったという。安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)、阿弥陀寺が現在地(上京区鶴山町)に移転になり、信長らの墓も遷された。(『都名所図会』『拾遺都名所図会』) 旧地には、信長の怨霊を鎮めるために、一祠が建てられ、後、織田稲荷と呼ばれた。祭神は光堀照大明神とされ、祟りを恐れ神官以外は内陣に触れなかった。信長と稲荷を祀ったともいう。近代、1882年、建勲神社の御旅所になり、建勲稲荷と呼ばれる。現代、1987年に周辺の開発に伴い、今宮神社境内に遷された。御霊稲荷になる。 ◆信長墓 境内墓地には、安土・桃山時代、1582年6月2日、本能寺の変で亡くなった織田信長(1534-1582)、森蘭丸(1565-1582)・坊丸(森長隆、1566-1582)・力丸(森長氏、1567-1582)の三兄弟、二条御所で亡くなった嫡男・信忠(1557-1582)、その他の織田家家臣100余人の墓とされるものが葬られている。 清玉は、本能寺の変の前日、本能寺に信長を訪ねたともいう。翌6月2日、信長は、明智軍に襲撃される。信長は奮戦し、小姓も戦う。信長は当初、弓を取り放った。弓の弦が切れたため、次に槍で応戦した。信長は肘に傷を負い、引き下がる。女中たちには退去を命じる。信長は殿中に入り、内側から戸を閉めて割腹して果てたという。(『信長公記』) 信長は遺言により、自らの骸は光秀側に渡さないようにと告げていた。変後、清玉は、焼け落ちた本能寺に入り、信長の遺骸と思われる首を取り、阿弥陀寺の旧境内(上京区元伊佐町)に埋葬したという。また、炎上する火に飛び込み、信長の遺骨を法衣に隠して持ち帰ったともいう。その後、清玉は、二条新殿で自刃した信長の二男・信忠の処へ向かう。清玉は、餅、焼き飯を光秀方に差し入れ、遺骨を拾い集めて墓を建てたという。清玉が本能寺、二条新殿で立ち書きしたという戦死者過去帳がいまに残る。なお、フロイスの『日本史』には、信長の遺骸は灰燼に帰したとある。 豊臣秀吉は、天王山の戦いを勝利し、清玉の手柄を称えて法事料300石を与えた。清玉は秀吉に恩はないとして嫌い断ったという。 京都市内の信長の墓としては、本能寺の信長廟(中京区)、大徳寺総見院(北区)、妙心寺玉鳳院(右京区)、建仁寺(東山区)、大雲院(東山区)などがある。 ◆墓 ◈江戸時代の儒学者・皆川淇園(みながわ-きえん)の墓がある。撰・平戸藩主・松浦候。 ◈僧・俳人・蝶夢の墓がある。 ◆年間行事 信長忌(6月2日)。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『秀吉の京をゆく』、『京都古社寺辞典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『増補版 京の医史跡探訪』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都隠れた史跡100選』、『あなたの知らない京都府の歴史』、『京 no.55』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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