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本満寺 (京都市上京区) Homman-ji Temple |
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本満寺 | 本満寺 |
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![]() 山門(重文) ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、扁額「廣布山」、日蓮遺文よりの写し。花押は日蓮。 ![]() ![]() ![]() 方丈 ![]() ![]() 七面大明神 ![]() ![]() 鐘楼 ![]() 蓮乗院石廟 ![]() 山中幸盛の墓 ![]() ![]() 洗い浄行菩薩 ![]() ![]() ![]() シダレザクラ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ボタン ![]() ![]() 妙見宮(出町の妙見様) ![]() 妙見宮 ![]() 妙見宮 ![]() ![]() ![]() |
寺町通にある本満寺(ほんまん-じ)は、「廣宣流布山(こうせん-るふざん)本願満足寺」という。略して「廣布山(こうふ-ざん)本満寺」とも呼ばれている。「出町の妙見様」とも呼ばれる。 日蓮宗六条門流本山。本尊は十界大曼陀羅、伝・日蓮自作という日蓮上人像。 日蓮宗京都16本山の一つ。京都21か本尊の一つ。妙見大菩薩は洛陽十二支妙見めぐりの2番、丑(北北東)、御所の表鬼門に当る。 ◆歴史年表 室町時代、1410年、玉洞妙院日秀により、本圀寺より分立し創建された。当初は日秀の父・近衛道嗣(みちつぐ)別荘(今出川新町、上京区元本満寺町)に建立されたともいう。「廣宣流布山(こうせん-るふざん)本願満足寺」と号した。また、当初は今出川新町にあり、朝廷より与えられた敷地3万坪の境内だったともいう。以後、近衛殿内道場と呼ばれ、寺主は同家猶子として宮中に参内した。 1532年、一向一揆(1532-1533)に衆徒も参加し、山科本願寺と戦う。細川晴元は感状を贈る。 1536年、天文法華の乱により焼かれ、一時、堺に逃れた。 1539年、12世・日重の時、関白・近衛尚道の外護により現在地に移されたという。異説もある。以後、第105代・後奈良天皇の勅願所になった。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、一致派本山の一つになる。 江戸時代、1633年、末寺32か寺があった。(「京都本満寺末寺帳」) 1661年、焼失した。 1708年、宝永の大火により焼失する。 1745年、塔頭10、直末55、孫末19寺があった。(「身延久遠寺触下本末帳」) 1751年/宝暦年間(1751-1763)、35世・日鳳(にっぽう)の時、8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈願し、その後、将軍家の祈願所になった。 1788年、天明の大火により焼失している。 1867年、旧4月、新撰組隊士・田中寅三は、伊東甲子太郎の御陵衛士入隊を拒否され、当寺に潜伏した。寅三は新撰組に捕縛され、西本願寺屯所で切腹になる。 近代、1911年、焼失した。その後、再建された。 ◆日秀 鎌倉時代中期-南北朝時代の日蓮宗の僧・日秀(にっしゅう、1264-1334)。男性。上総(千葉県)の生まれ。父・関白・近衛道嗣の嫡子。日蓮の弟子になり、日蓮の没後、身延山の日蓮廟所守護の輪番、上総・妙光寺(後の藻原寺)で日向の跡を継いだ。晩年、相模・実相寺を開く。70歳。 ◆日乾 室町時代後期-江戸時代前期の日蓮宗の僧・日乾(にちけん、1560-1635)。男性。俗姓は塚本、字は孝順、号は寂照院、姓は塚本。若狭(福井県)の生まれ。1569年、小浜・長源寺の日欽により出家した。京都・本満寺の日重に師事し、天台三大部を修めた。三井寺、南都で遊学し、1585年、本国寺の学道求法講院(後の求法壇林)講主になる。1588、本満寺13世になる。慶長年間(1596-1615)、摂津国能勢で請雨法を修し霊験あり、覚樹庵(後の無漏山真如寺)を創建した。1602年、第107代・後陽成天皇の下問に応じて『宗門綱格」を上書した。天皇から紫衣を賜わる。身延山久遠寺21世になる。一時京都に戻り、1609年、久遠寺に再任された。1618年、静岡貞松山蓮永寺を中興する。1627年、鷹峰に檀林を開く。1630年、江戸城での不受不施派との対論(身池対論)では、身延側の一人として勝利した。著『宗門綱格』『破奥記』。76歳。 本満寺(上京区)に葬られる。 ◆日遠 室町時代後期-江戸時代前期の日蓮宗の僧・日遠(にちおん、1572-1642) 。男性。俗姓は石井、字は尭順、号は心性院、別号は一道、姓は石井。京都の生まれ。父・連歌師の宗匠・石井了玄(日幽)、母・法妙(日貴)。6歳で本満寺・日重につき出家した。その後、南都、東山で学ぶ。1599年、日重に推挙され下総飯高(千葉県)檀林化主(けしゅ)になる。山内に立正会を開く。1604年、日乾の退隠により身延山久遠寺22世貫主に就く。徳川家康の側室・養珠院お万の方の帰依を得た。1626年、養珠院の寄進で下総飯高身延大野に堂宇が建立され、本遠寺になる。日奥・日樹らの不受不施義に対し、受不施義の頭領になる。1630年、江戸城内での受・不受の宗論(身池対論)で、不受の関東学派を破り、幕命により池上本門寺貫主になる。1631年、弟子・日東に池上を譲り、鎌倉経ケ谷に不二庵を建て隠棲した。著『千代見草』『法華文句随聞記』など。71歳。 西谷檀林を創設した。受不施派(他宗からの布施供養を受け入れる)の中心的人物だった。日重、兄弟子・日乾と共に「宗門中興の三師」とされる 墓所は身延の大野本遠寺(山梨県)にある。 ◆山中幸盛 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・山中幸盛(やまなか-ゆきもり、1545-1578)。男性。鹿介(しかのすけ)。父・尼子経久の家臣・山中三河守満幸、母・立原佐渡守綱重の娘という。一時、亀井氏の養子、後、山中家の家督を継ぐ。1562年、毛利氏の出雲侵入後、尼子氏の武将になる。1566年、出雲・富田城が開城後、浪人となり上洛。1568年、東福寺の尼子勝久を還俗させ擁立、隠岐から出雲に入り新山城で、豊後・大友氏と連携し回復した。毛利氏の反攻により、1570年、出雲布部山、1571年、伯耆・末吉城で敗れる。吉川元春に捕らえられ、尾高・泉山城に幽閉された。脱走し上洛、織田信長を頼る。1573年、信長の援助を得て因幡に侵入、吉川勢と戦い鳥取城を落とす。1576年、若桜鬼城を落とされ京都に逃れた。1577年、羽柴秀吉の中国経略に従い、勝久らと播磨・上月城を守る。1578年、毛利軍の攻撃により落城、勝久は自刃、鹿介は捕らえられ、安芸毛利輝元のもとに送られる途中で備中阿井の渡で殺された。33歳。 本満寺(上京区)に墓がある。江戸時代、1764年、山中氏子孫により立てられた。撰文は当寺37世・日観による。なお、墓はほかに黒谷(金戒光明寺)(左京区)、南禅寺(左京区)、大徳寺(北区)にもある。 ◆蓮乗院 江戸時代前期の蓮乗院(?-1621)。詳細不明。女性。鶴姫、江戸鶴子 。父・武将・江戸重通。武将・結城晴朝の養女になる。徳川家康の2男・結城秀康の正室、のち公卿・烏丸光広の室になった。 本満寺(上京区)に石廟がある。 ◆田中寅蔵 江戸時代後期の新選組隊士・田中寅蔵(1841-1867)。男性。加賀国(石川県)の生まれ。1864年頃、新撰組に入隊。剣に優れ撃剣師範になる。伊東甲子太郎の御陵衛士入隊を拒絶され、本満寺に隠れる。新撰組・近藤勇との間に、隊士の新規参入を禁止することになっていた。田中は新撰組に捕縛され、西本願寺屯所で切腹になる。辞世の句の一つ「四方山の花咲き乱る時なれば萩も咲くさく武蔵野までも」。26歳。 墓は光縁寺(下京区)にある。 ◆西村五雲 近代の日本画家・西村五雲西村五雲(にしむら-ごうん、1877-1938)。男性。本名は源次郎。京都の生まれ。1890年、岸竹堂(ちくどう)に入門し、竹堂没後の1899年より、竹内栖鳳(せいほう)に師事する。1893年、第6回日本美術協会展で『菊花図」が褒状を受け、1907年、第1回文展の「咆哮(ほうこう)」で三等賞を受賞。1913年、京都市立美術工芸学校教諭になり、第7回文展の「秋興」で褒状を受ける。1914年より病気のため大作の制作から遠ざかる。1924年、京都市立絵画専門学校教授(現・京都市立芸大学)、1925年、帝展審査員、1933年、帝国美術院会員、1937年、帝国芸術院会員になる。代表作「日照雨(そばえ)」「秋茄子(あきなす)」など。62歳。 花卉鳥獣を得意とし、画塾「晨鳥社(しんちょうしゃ)」を主宰した。山口華楊(かよう)らを育てた。 墓は本満寺(上京区)にある。 ◆川勝 政太郎 近現代の美術史学者 ・川勝政太郎(かわかつ-まつたろう、1905-1978)。男性。京都市の生まれ。1923年、京都市立第一商業学校卒業、1926年頃より、建築史家・天沼俊一に師事し、古建築・石造美術を研究した。1928年、スズカケ出版部を創立し、『古美術史蹟・京都行脚』を刊行する。1930年、史迹美術同攷会を設立・主宰し、雑誌『史迹と美術』を創刊した。1937年-1939年、重要美術品認定の関連調査につき文部省嘱託、1943年、京都帝大文学部史学科考古学選科卒後、近畿日本鉄道嘱託になり、大和中心の古美術を調査研究する。1945年、京都市文化嘱託、1954年、京都史蹟会理事、1958年、文学博士(国学院大学)、1959年、大阪工業大学教授に就任した。1961年-1966年、文部省文化財専門審議会専門委員を務め、1969年、大手前女子大学教授になる。1973年、紫綬褒章を受章した。著『石造美術』『日本石材工芸史』など。73歳。 石造美術研究の分野で学問的体系を確立した。 墓は本満寺(上京区)にある。 ◆日蓮像 寺宝の「日蓮上人坐像」(尚道奉安の祖師像、狩野元信筆)は、かつて丹波黒田村の禅寺にあったという。 仏壇の下に置くと村人に祟りがあり、芹生の山中に捨てた。ところが、昼夜、法華経読誦の声が上がって像の在り処を知らせた。その後、生福寺に引き取られる。後、京都に持ち出されていたのを、住持・日重が買い取って当寺に安置したという。(『山州名跡志』) ◆建築 山門、本堂、方丈、鐘楼、妙見堂、庫裡などが建つ。 ◈「山門」(重文)がある。 ◈「本堂」は、近代、1927年に建立された。扁額「廣布山」は、日蓮遺文よりの写し、花押は日蓮による。13間4面。 ◆名僧 寺は受不施派(他宗からの布施供養を受け入れる)の拠点になる。室町時代-江戸時代の12世・日重(1549-1623)、13世・日乾(1560-1635)、14世・日遠(1572-1642)は、それぞれ身延山20世、21世、22世に就いている。 ◆妙見大菩薩 妙見宮(出町の妙見様)が祀られている。14世・日遠は、能勢妙見山を開創した。妙見大菩薩は、本満寺13世・日乾が自ら2体刻み、同体の1つは能勢に、もう一つをこの地に祀ったという。干支妙見の一つ、丑方。 ◆七面大明神 14世・日遠が七面山で千日修行した際に感得したという七面天女が祀られている。 ◆支院 法泉院、一乗院、守玄院、実泉院。 ◆遺跡 室町時代後期、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした。この天文法華の乱に備えた「構え」跡がある。 ◆文化財 ◈平安時代の「金泥一字宝塔法華経並観普賢経」9巻(重文)。 ◈「伝上宮(聖徳)太子筆紺紙」。 ◈「宗祖日蓮大聖人真蹟十界大曼荼羅御本尊」2幅。 ◈狩野元信筆「宗祖御絵像」。 ◈日乾『報恩抄』『開目抄』、日重『本満寺御書』『三大秘法鈔』など。 ◆御土居 境内東の墓地内に御土居があった。土塁は北西から南東方向にあった。 安土・桃山時代、1591年に豊臣秀吉により御土居が築造された。本満寺は、寺町内に取り込まれている。江戸時代中期、1733年に幕府により墓地所有が許されている。 ◆墓 ◈境内墓地には戦国時代の武将・山中幸盛(山中鹿介)の墓がある。江戸時代中期、1764年に山中の子孫が建立した。撰文は37世・日観による。 ◈近代の画家・西村五雲(1877-1938)の墓がある。 ◈本堂脇に、江戸時代、徳川家康の2男・結城秀康(後の福井藩主)の正室・蓮乗院(?-1621、鶴姫)の江戸時代初期の石廟がある。蓮乗院は、秀康の没後、公家の烏丸光広の正室になった。越前青石を用いている。 ◈考古学者・石造研究家・川勝政太郎(1905-1978)の墓がある。 ◆花暦 枝垂桜(3月下旬)、牡丹(4月下旬)。 ◆年間行事 大祭(12月1日) 月並祭(毎月1日)。 *年間行事の中止、日時変更、拝観時間変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都 歴史案内』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『新選組史跡紀行』、『京の福神めぐり』 、『御土居堀ものがたり』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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