法界寺 (京都市伏見区)
Houkai-ji Temple
法界寺 法界寺 
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山門、薬医門、切妻、江戸時代(17世紀)






延段


本堂、薬師堂(重文)


薬師堂


薬師堂


薬師堂、外陣



阿弥陀堂内内陣、1間の外陣、内陣との間に格子戸。格子戸には乳児のよだれ掛けが数多く奉納されている。乳の出ない母親が祈願する。御詠歌「おさなごは つえよ柱のひのやくし ちちを賜る母とこそしれ」。


薬師如来立像(重文)、展示写真より。出産と育児のご利益があるという。


薬師堂


板扉の受け軸部分になる藁座、禅宗様


斗拱


板蟇股、禅宗様


延段


阿弥陀堂(国宝


阿弥陀堂、正面



阿弥陀堂、正面の縁





阿弥陀堂、東の縁、駕籠


阿弥陀堂


奥に阿弥陀堂、右に薬師堂


石燈籠、江戸時代、1717年



鐘楼、江戸時代、1847年建立


梵鐘は江戸時代、1712年鋳造、施主伏見萬人講。


弁天堂



弁天堂



大師堂



井戸、手水鉢









「留守といふ小僧なぶらん山桜」芭蕉、句碑は江戸時代、1800年建立。



宝篋印塔、江戸時代、1712年建立。



境内からの景観



【参照】日野御廟所、境内の東すぐ近くにある。


【参照】日野御廟所、日野有範の墓、石造五輪塔


【参照】日野御廟所、吉光尼の墓など日野家歴代の廟所となっている。


【参照】日野御廟所藤原資巴卿、藤原資始朝臣の墓という。
 法界寺(ほうかいじ/ほっかいじ)は、日野山を背にして建つ。「日野寺」「日野薬師」「乳薬師」ともいわれる。藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺(氏寺)とされてる。山号は東光山という。 
 真言宗醍醐派、本尊の薬師如来像。
 西国薬師第38番霊場(西国薬師四十九霊場めぐり)。京の通称寺霊場43番、日野薬師。
 本尊は、日野薬師(日野の薬師さん)、乳薬師ともいわれ、胎内仏を納めている。安産、授乳、子授などの篤い信仰を集める。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 奈良時代、812年、日野家祖・真楯の子・内麿が最澄作の薬師如来小仏を円仁より譲られたともいう。
 平安時代、822年、821年とも、3代・日野(藤原)家宗は、比叡山延暦寺3代座主・円仁より贈られた最澄自刻という薬師如来小像(3寸)を安置する。また、公卿・藤原内麻呂(内麿)が円仁より、最澄自刻という薬師如来を譲られたともいう。
 また、832年、日野家宗が戒壇建立の宣旨をおび、比叡山延暦寺に登った際に、最澄より自作の金銅薬師像を受け本尊としたという。当初は、天台宗とみられる。
 1051年、文章博士・日野資業(すけなり)が出家の際に、日野山荘に薬師堂を建立した。この時、浄妙寺(木幡赤塚、木幡寺)の寺地2町を割譲した。藤原内麻呂が円仁より伝承した最澄自作と伝える薬師如来像を、大像の中に納め安置したともいう。以来、日野家の氏寺になる。
 1060年以前、定朝作ともいう法丈六(大尺)の阿弥陀像が造立される。
 1075年、大日経義釈が読まれる。
 1081年頃、日野実綱により、娘(藤原宗忠の母)の菩提のために観音堂が建てられ、如意輪観音像を安置する。落慶は天台座主・良真が導師を務めた。その後も諸堂の建立が続いた。
 1083年、俊家が発願し、その子・宗俊により丈六の阿弥陀像が造立される。
 1084年頃、五大堂(大弐堂)が建立される。
 1089年、日野実政以来、別当職を継承するようになる。
 1091年、藤原宗俊は大宮より阿弥陀堂を一条東洞院に移し、一条殿とする。
 鎌倉時代、1097年頃、法界寺に相好殊勝の丈六阿弥陀仏が安置されていた。知信は、日野南辺に阿弥陀堂を建立する。藤原宗忠は、一条殿北に小堂を建立した。
 1098年、宗俊が発願し、その子・宗忠による一条小堂に丈六阿弥陀像を安置する。日野仏を模したもので、胎内に金泥法華経を納めた。
 1114年、日野新塔心が柱立される。
 1117年、宗忠は一条小堂を五女の墓上に移築し、弥勒堂(奥院弥勒堂)として半丈六弥勒像を安置する。
 1118年、宗忠は、宗俊の忌日に際して、一条殿の仏堂より宗俊が造立した丈六仏2体を遷す。
 1119年、観音堂を焼失する。本尊は損壊を免れる。宗忠は一条殿仏堂を日野本堂(法界寺)の北に移し、新阿弥陀堂とする。丈六阿弥陀仏も遷される。宗忠、その妻は薬師堂に参籠する。
 1120年、宗忠は亡き母のために塔を建立し、釈迦如来、多宝如来、四天王像を安置する。宗忠は西御方の四十九日忌に際し、旧阿弥陀堂で曼荼羅供養した。忠実が発願、院覚作の丈六の阿弥陀如来像が造立される。後に法界堂に遷された。
 1126年、宗忠は日野に門を建てる。
 1127年、宗忠は阿弥陀堂の俊家の丈六仏を一条殿より新阿弥陀堂へ遷す。宗忠は、隆助に命じ、地蔵菩薩像を造立し、旧阿弥陀堂に安置した。
 1129年、宗忠は方違えに参詣し、父・宗俊の遠忌を日野塔で行う。
 1130年、新阿弥陀堂を建立し、宗忠が発願し、仏師・康助作による周丈六阿弥陀如来像を安置した。
 1135年、観音堂が再建され、東大寺法花会堅義が行われる。
 1137年、宗忠は妻・尼上の一周忌に際して小堂を建立し、半丈六の阿弥陀仏を安置する。この時、4棟の阿弥陀堂(当初の堂、知信、宗忠の2棟)が建ち並ぶ。
 鎌倉時代、1195年、藤原任子(宜秋門院)は日野薬師堂で僧侶十二口により薬師経読経を行わせる。
 1203年、藤原任子(宜秋門院)は日野薬師堂を参詣する。(『明月記』)
 1205年、藤原任子(宜秋門院)は日野薬師堂に参籠した。
 1215年、薬師堂を焼失する。
 1216年、薬師堂が再建される。延暦寺の公円が供養の導師になる。
 1221年、承久の乱によりに多くの伽藍を焼失している。
 1226年、勘解由小路経光が阿弥陀仏について記している。(『民経記』)
 嘉禄・嘉禎年間(1226-1235)、現在の阿弥陀堂を再建した。
 1301年、薬師堂、五大堂、観音堂などを焼失する。
 室町時代、1425年、七仏薬師のひとつとなり、勅使が遣わされる。
 永亨年間(1429-1440)、醍醐寺と関係し、この頃、真言宗に改宗したともみられる。
 応永年間(1467-1469)、細川氏世臣・香西又六の乱入により阿弥陀堂を除く諸堂を焼失した。
 1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。
 1476年、足利義政が法界寺に渡御する。妻・日野富子の縁による。
 1504年、信徒により薬師如来を納める函が造られた。
 大永年間(1521-1528)、荒廃する。
 1526年、連歌師・宗長は、法界寺(日野七仏薬師)、鴨長明閑居旧跡、重衡の墓などを訪ねている。(『宗長日記』)
 1533年、三宝院門跡に属する。醍醐寺から100石を分与される。
 大永・天文の頃(1521-1555)、戦火により焼失した。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、織田信長の兵火により薬師堂が焼失する。
 1598年頃、醍醐寺から100石を分与された。 
 江戸時代、1670年頃、荒廃した。(『醍醐随筆』)
 1809年、文化年間(1804-1818)とも、西本願寺は、日野を親鸞誕生地とし、衰退していた法界寺の復興も行う。庫裏の修造、近くに日野誕生院の創建などを行う。本願寺18世・文如は日野別堂を建てた。
 近代、1899年、阿弥陀堂が解体修理される。
 1904年、大和龍田の伝燈寺本堂(灌頂堂)を移築し現在の薬師堂とする。
◆藤原家宗 平安時代の公卿・藤原(日野)家宗(ふじわら の いえむね、817-877)。藤原北家、民部少輔・藤原濱雄の長男。母は息長氏の娘。文章生となり、856年、正六位上から従五位下に叙位される。857年、右少弁、863年、左中弁、868年、蔵人頭、870年、右大弁、871年、参議。822年、伝領地日野に法家寺を建立し、最澄自作の薬師如来の小像を安置したという。
◆藤原資業 平安時代中期の公卿・歌人・藤原(日野)資業(ふじわら の/ひの すけなり、990/988-1070)。日野三位。藤原有国の7男、母は典侍従三位・橘徳子(一条天皇乳母)。家宗の5代孫にあたる。蔵人、播磨、伊予などの地方官を務めた。1003年、文章得業生。以後、式部少・大丞,六位蔵人、大内記、左衛門権佐・検非違使などを歴任した。1017年、文章博士になり、第68代・後一条天皇の侍読を務めた。丹波守。1045年、従三位非参議になる。1051年、出家し素舜(そしゅん、素寂)と号した。日野山荘に法界寺・阿弥陀堂、薬師堂などを建立し一族の氏寺とした。以後、日野を家名にする。和歌、文章道に優れる。歌は『後拾遺和歌集』などにある。日野に法界寺文庫を作ったという。
 法界寺(山科区)で亡くなる。
◆藤原宗忠 平安時代の公卿・藤原宗忠(ふじわら の むねただ、1062-1141)。中御門宗忠。藤原北家中御門流の権大納言・藤原宗俊の長男、母は藤原実綱の娘。1099年、参議、内大臣、1136年、右大臣。蔵人、蔵人頭として第73代・堀河天皇に仕えた。藤原師通、忠実の家司になる。日記『中右記』(1087-1138)は50年間にわたり、平安時代後期の基礎史料になる。従一位・右大臣。号は中御門右大臣。
◆聖覚 平安時代-鎌倉時代の僧・聖覚(せいかく/しょうかく、1167-1235)。安居院(あぐい)の法印とも呼ばれた。藤原通憲の孫。父は澄憲法印。比叡山東塔北谷竹林房の静厳(じょうごん)法印に学び、恵心・檀那の両流を相伝した。里坊・安居院に移り、父と共に唱導の安居院流を開く。唱導法談を行う。学識と弁舌に長けた。法然に師事し浄土教に帰依した。九条兼実の願いにより、法然のマラリア(瘧、おこり)と自らの病を唱導により治したという。1227年、嘉禄の法難で念仏停止を進言した。他力専修念仏を説く『唯信抄』を著す。安居院で亡くなる。墓と伝えられる五輪塔が西法寺本堂前庭にある。
 謡曲「源氏供養」にも語られた。聖覚を親鸞も慕ったという。なお、近年、聖覚は承元の法難に加担し、法然、親鸞を裏切ったともいわれている。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆仏像 ◈常行のための阿弥陀堂内には四天柱内須弥壇中央に、「阿弥陀如来像」(280㎝)(国宝)が安置されている。平安時代、11世紀末の丈六坐像になる。
 かつて5体の阿弥陀像が安置されていたともいう。平安時代、1060年以前、定朝(?-1057)作の法六丈仏ともいう。(『兵範記』)。また、1098年、宗俊発願、宗忠完成の法丈六ともいう。平等院鳳凰堂の本尊に最も近いとされる。
 表情にはあどけなさがある。結跏趺坐、印相は上品上生(弥陀定印)、薄い衣、流れるような衣文が見られる。鎌倉時代作とみられる八角九重の蓮華座の上に坐し、鎌倉時代作の光背は飛天が配してある飛天光を背にしている。周縁部も鎌倉時代の後補になる。二重円相(二重輪光)、透彫の雲炎による。木造、ヒノキ材、寄木造、漆箔。
 阿弥陀堂は正方形をしており中心に阿弥陀如来像を安置する。平安時代後期には、仏像のまわりを念仏を唱えながら廻っていた。鎌倉時代(創建時とも)の天蓋は、華形、銅鏡を中心にする。修正会(1月14日)では蔀戸が開かれる。
 ◈厨子内に「慈恵大師坐像」(47.5㎝)が納められている。鎌倉時代、13世紀半に造仏されたとみられている。
 ◈薬師堂内陣須弥壇上の厨子内に、平安時代作の秘仏「薬師如来立像」(重文)(88㎝)がある。創建時に造立されたとみられる。京の七薬師の一つとされる。
 薬師堂・薬師如来についての伝承がある。平安時代、1051年、文章博士・日野資業(990/988-1070)が出家の際に、日野山荘に薬師堂を建立した。この時、浄妙寺(木幡赤塚、木幡寺)の寺地2町を割譲した。公卿・藤原内麻呂(756-812)が円仁(794-864)より伝承した薬師如来像の小像があった。最澄(767-822)自作とされた。薬師如来像は、新たに造られた薬師如来立像の中に納められ、薬師堂に安置されたという。以来、日野家の氏寺になった。
 右手は施無畏印、左手は右手の位置まで持ち上げ、掌に薬壺を持つ。平安時代初期の印相という。衣に截金文様が施されている。頭部、体部は、別に作られ内刳され、胸肉身、両手、両足首から先は別材により接合している。当時としては珍しいサクラ材を染めている。かつて日野氏に伝わった胎内仏として、最澄(伝教大師)自作という3寸(9㎝)の「薬師如来像」が納められていたという。現在は室町時代作という「薬師如来像」(32.5㎝)が納められている。木造、サクラ材、寄木造、玉眼嵌入、素地。非公開。
 ◈脇侍として、厨子内に「日光・月光菩薩立像」も納められている。鎌倉時代作になる。
 ◈左右の須弥壇厨子内に「十二神将立像」(重文)(64cm)がある。鎌倉時代作になる。十二神将は薬師如来の眷属になる。木造、彩色、切金文様、玉眼。さらに、厨子前には牛王宝印を挟んだ柳の棒が立てられている。
◆建築 ◈「阿弥陀堂」(国宝)は、建立年が確定していない。平安時代、1118年には建立されていたという。鎌倉時代、1221年に戦乱で焼失し、1226年頃再建されたともいう。1130年の待賢門院御願の堂ともいう。藤原時代(894-1285)の浄土教、末法思想の影響下で建てられた。典型的な方形阿弥陀堂建築の一つとされる。丈六堂とも呼ばれていたという。
 当初、側柱の両側面前1間、背面中央間の扉口を除いた側背面裳階に小室(参籠所)があったという。周囲一間の廂(ひさし)、吹き放ちの裳階を付け、正面の廂は一段高く軒上げになっている。軽い軒反りが見られる。周囲に縁板を張る。屋根の頂点に置かれる宝珠露盤(ろばん)が付けられ、屋根の勾配も緩やかになっている。5間5面、重層宝形造、柱間開放の一重裳階付、檜皮葺。
 内部は中央に円柱の四天柱(5m×周囲1.66m)を立て、須弥檀がある。柱内内法長押上の壁面は三間に分け、円束を立てる。内法長押、頭貫で固め束上に三斗二段組み、天井桁を受ける。折上小組天井に、大天蓋を吊るす。間斗束左右に笈形、方三間の内陣小壁には、鎌倉時代創建時の8面の彩色された天人壁画(重文)が描かれている。1949年の法隆寺金堂壁画焼失後は、完全なものとしては最古のものになった。内陣外側には、定印の阿弥陀如来坐像が描かれている。小壁間の飾り文様は、興福寺北円堂と類似する。間斗束両脇に唐草の笈形、鎌倉時代の四天柱には金剛界曼荼羅の16体の仏像(総計64体、36尊、賢劫16尊、12天)と宝相華文様(重文)、支輪、各天井にも宝相華文様が描かれている。
 阿弥陀堂の須弥檀は、和様基本を踏襲し、黒漆であり、地覆、束、框を組み嵌板に横連子を入れ、周囲に跳高欄を立て、階段が付く。
 ◈本堂の「薬師堂」(重文)は、室町時代、1456年に建立された。(棟札)。近代、1904年に当寺に移築された。かつて、奈良県斑鳩町竜田にあった法隆寺塔頭・伝燈寺(でんとうじ、伝灯寺)の灌頂堂という。1993年-1994年、屋根が葺き替えられた。四方に縁付。中央3間に板扉、両脇に連子窓。側面前1間に板扉。内部の外陣に格天井、内陣に折上格天井。寄棟造、5間4間、単層、本瓦葺。
◆阿弥陀堂壁画 阿弥陀堂の内陣、漆喰塗りの内外の小壁(上方、長押上)には、鎌倉時代創建時の8面の彩色壁画(重文)が描かれている。壁は束により各面ともに3分されている。北面、南面の中央に雲上の火舎図、楽器図、ほかの面に飛天(76.2×146cm)を描く。飛天は蓮華を持った華盤をとる。1949年の法隆寺金堂壁画焼失後は、完全なものとしては最古のものになる。
 内陣外側には、定印の阿弥陀如来坐像2体ずつが筋彫りの上に墨線で描かれている。
 鎌倉時代の四天柱には文様帯(連珠文、宝相華団花文を5段、円相の外に迦陵頻伽、内に宝相華団花文、下に文様帯)、尊像帯(月輪内に1体、4段)が交互に飾られている。極彩色であり、麻布の地に描かれている。
 彩色、朱線、墨線による尊像は、金剛界曼荼羅の16体の仏像(総計64体、36尊、賢劫16尊、12天)と想像上の花模様の宝相華文様(重文)、支輪、各天井にも宝相華文様が描かれている。
◆庭園 境内に池(京都市指定史跡)が造られている。詳細は不明。浄土をあらわす宝池という。
◆文化財 阿弥陀堂内の鎌倉時代の小壁絵(重文)に著色の定印阿弥陀如来像、飛天、笈形の唐草紋様、折上格天井支輪板に蓮華、宝相華の紋様がある。
 俵屋宗達の「猪頭和尚」「布袋図」がある。
◆日野 境内のある日野一帯は、平安時代には天皇、公家の遊猟地として知られた。地名としての日野の初出は、平安時代、795年の「猟二於日野」(『類聚国史』)といわれている。
 日野の地名にまつわる伝承がある。飛鳥時代、655年、藤原氏の始祖で政治家・中臣鎌子(藤原鎌足)は、この地の萱尾の荘を訪れ、老翁の姿をした天押雲命(あめのおしくものみこと)に出逢う。
 老翁はこの地に祀ると、家より天皇を補佐する臣が出るという。鎌子は社殿の建立を決める。この地が、奈良・春日野に似ていたことにあやかり、「春日野」との標を立てたという。やがて、春日大社の神使である一頭の鹿が現れ、「春」の字を舐めて消したため、その後、「日野」と名付けたという。
◆日野氏 平安時代中期、公家の藤原北家・内麻呂一門は、土着し、房前(ふさざき)より3代目・真夏(まなつ)から日野氏を名乗る。日野氏は、山城国宇治郡日野に、法家寺、法界寺を建立し、薬師如来の小像を祀り氏寺としたことから家号とした。
 一族には、鎌倉時代初期の浄土真宗開祖の親鸞(1173-1263)、鎌倉時代末期の日野資朝(1290-1332)、日野俊基(?-1332)は、後醍醐天皇の討幕計画に関与した。室町時代、足利義尚の代まで足利将軍家と結縁し、8代・足利義政の室・日野富子(1440-1496)などがいる。
◆乳薬師 本尊の薬師如来像は乳薬師といわれる。乳の足りない母親は、薬師堂に参籠し、乳米(ちごめ)という白米をもらい、毎日3粒ずつ粥に混ぜて炊いた。これを食すると乳がよく出るようになる。お礼には一升の米を寺に納めたという。
◆文学 芭蕉句碑「留守といふ小像なぶらん山桜」(江戸時代、1800年建立)が立つ。
◆墓 境内に、江戸時代、1712年建立の宝篋印塔がある。
 親鸞の父・日野有範の墓と伝えられる五輪塔が寺の東にある。有範の父・経尹は阿波権守だった。有範は、親鸞4歳を残して亡くなったとも、皇太后宮の大進を退くと出家し、三室戸に隠棲し老年に至るまで生きていたともいう。
樹木 ボダイジュがある。 
◆裸踊 修正会(しゅうしょうえ)(1月7日-14日)では薬師堂で天下泰平、五穀豊穣を祈願する。最終日の結願(けちがん)(1月14日)の夜、「裸踊(はだかおどり、日野裸踊)」(京都市登録無形民俗文化財)が行われる。
 精進潔斎した下帯一つの男たちが、井戸で水垢離(みずごり)を取った後、晒し木綿の褌を締める。二組(少年、青壮年)に分かれ、阿弥陀堂広縁で揉みあう。頭の上で合掌し、「頂礼(ちょうらい)、頂礼」と声を上げる。
 後に、柳の棒の先に法印を挟んだ除災招福、虫害除けの「牛王宝印」札が頒布される。この祈祷札には、薬師如来の梵字が捺されている。締められた褌は、安産祈願として妊婦の腹帯に用いられる。
◆年間行事 修正会(1月7日-14日)、修正会・結願(けちがん、1月14日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼京都 29 法界寺』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『京都の地名検証 3』『仏像』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『京都・美のこころ』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『絶対に訪ねたい!京都の仏像』『社寺』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『事典 日本の名僧』『日本の名僧』『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』『京都の寺社505を歩く 下』『京の寺 不思議見聞録』『京都 神社と寺院の森』『平成28年度春期 拝観の手引』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の美をめぐる 45 平等院と極楽往生』『週刊 日本の仏像 第23号 醍醐寺 国宝薬師三尊と法界寺・阿弥陀如来』、ウェブサイト「コトバンク」


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【参照】境内北にある平重衡の墓(従三位平重衡卿墓)、平重衡(1157-1185)は、平清盛5男。一ノ谷の合戦で源氏に囚われ、鎌倉に送られた。1181年、平清盛の命を受けた平重衡らは、東大寺・興福寺など南都仏教寺院を焼討にしたことから、後に南都衆徒により木津川の河原で斬首された。遺体は法界寺で荼毘に付される。導師は日野資長とみられるという。髑髏は高野山に葬られ、遺体はここに埋葬されたという。
 
法界寺 〒601-1417 京都市伏見区日野西大道町19   075-571-0024  9:00-17:00 
  平重衡の墓 京都市伏見区醍醐外山街道町周辺
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