平重衡の墓 (京都市伏見区)
grave of Taira no, Shigehira
平重衡の墓 平重衡の墓 
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平重衡の墓、石塔に「従三位 平重衡卿墓」とある。
 平安時代の武将・平重衡の墓がある。重衡の妻・藤原輔子(大納言佐局)が平家没落後、この地に身をよせていたともいう。
 また、この地には、かつて、平重衡を弔った仏(佛)心寺があったという。
◆歴史年表 
平安時代
、1185年、3月、壇ノ浦の戦いで平家滅亡後、藤原輔子は入水し、敵方の源氏に助けられ捕虜になる。その後、日野の姉・邦子(大夫三位)のもとで隠棲したという。(『平家物語』)
 1185年、6月、重衡は木津川で斬首される。輔子は夫の亡骸を日野で荼毘に付し、髑髏は高野山に葬られ、遺体はこの地に埋葬されたという。(『平家物語』)
 室町時代、1526年、連歌師・宗長は、法界寺(日野七仏薬師)、鴨長明閑居旧跡、重衡の墓などを訪ねている。(『宗長日記』)
 江戸時代、1705年、墓は法界寺北5町ほどの茶園内にあると記されている。(『山城名勝志』)
平重衡
 平安時代末期の武将・平重衡(たいら-の-しげひら、1157/1156-1185)。本三位中将。京都の生まれ。平清盛の5男、母は平時子。1162年、叙爵し尾張守、馬頭、中宮亮を歴任した。1179年、左近衛権中将、1180年、蔵人頭に進む。平家討伐の軍を起した以仁王、源頼政の挙兵を鎮圧し、頼政を宇治川の戦いで破る。清盛の命により、興福寺・東大寺攻撃の総大将になり、反平氏勢力を一掃した。蜂起した両寺を焼き、大仏の首も焼け落ちる。(南都焼討)。1181年、尾張墨俣(おわりすのまた)川の合戦で源行家を破り、その功で従三位に叙せられ、左中将になる。平家都落ち後、1183年、水島合戦、室山合戦で勝利した。1184年、一の谷の戦で源範頼、義経らと戦い敗れる。捕虜になり、兄・宗盛に使者を遣わし、三種の神器返還と源平和議を試みる。不調に終わり鎌倉に護送された。源頼朝に厚遇される。1185年、興福寺、東大寺の衆徒の要求により奈良に送られ、南都焼き打ちの「仏敵」として、木津川畔で斬首された、奈良坂に晒し首になる。29歳。 
 『平家物語』では、平家滅亡の象徴として描かれた。
◆藤原輔子 平安時代後期の女官・藤原輔子(ふじわら-の-ほし/すけこ、?-?)。従三位典侍、大納言典侍(だいなごんのてんじ)、大納言佐局(すけのつぼね)、北ノ方大納言佐殿とも称された。大納言・藤原邦綱の3女、壱岐守・藤原公俊の娘。平重衡の妻となる。第81代・安徳天皇の乳母になる。1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡後、輔子は入水、源氏に助けられ捕虜になる。その後、日野(醍醐)の姉・邦子(大夫三位)のもとで隠棲したという。重衡は鎌倉から醍醐路を経て奈良へ送られる。途中、日野で輔子との再会が聞き入れられ対面がかなう。1185年、重衡は木津川で斬首され、般若寺門前で梟首された。輔子は夫の亡骸を日野で荼毘に付し、高野山に納めた。自らは出家し重衡の菩提を弔い、大原・寂光院の建礼門院(平徳子)に仕え、その最期を看取ったという。
◆平家物語 『平家物語』巻十二「重衡最後」に重衡夫妻が語られている。
 平重衡は一の谷の戦いで敗れ捕らえられ、南都大衆の訴えにより、伊豆、大津、山科、醍醐を経て、奈良へ引き渡される。途中の日野には、重衡の妻・北の方(北方)大納言佐殿が隠棲していた。大納言佐殿は『平家物語』では、藤原伊実(惟実、これざね、鳥飼中納言)の娘であり、五条大納言邦綱の養女、安徳天皇の乳母という。大納言佐殿は、壇の浦で海に身を投げ源氏に助けられた。その後、日野の姉・大夫三位(邦綱の長女・成子)の邸に身を寄せた。
 重衡は、奈良へ送られる途中で、護衛の武士に、妻が日野にいると聞いた、会って後生のことを頼みたいと告げると許される。重衡と大納言佐殿は再会し、互いに経緯を語る。重衡は自らの髪の毛を歯で切り、妻に形見に渡した。大納言佐殿は、夫の見すぼらしい身なりを着替えるように促す。重衡は「せきかねて涙のかかるから衣後の形見に脱ぎぞ替えぬる」と歌を贈る。大納言佐殿は、「ぬぎかふる衣も今は何かせむ今日を限りの形見と思へば」と返歌した。
 護衛の武士は重衡の身柄を受け取り、木津川畔に連行した。多くの見物人が出ており、近くの里から、阿弥陀如来が運ばれ河原の砂上に置かれた。重衡は南都の僧により斬首される。大納言佐殿は、河原に残されていた重衡の骸を輿で日野へ運んだ。重衡の首は、法然の弟子・俊乗坊が大衆に乞い受けていた。日野・法界寺で、重衡の首、骸を荼毘に付し骨は高野山へ送った。墓は日野に建てられる。大納言佐殿はすぐに出家し、重衡の菩提を弔ったという。
◆重衡ゆかり地 平重衡の亡骸を弔ったという仏(佛)心寺が日野の現在地付近にあったともいう。当寺で火葬したともいう。その後、廃寺になったという。
 また、遺体は法界寺(伏見区日野)で荼毘に付されたともいう。導師は日野資長とみられる。髑髏は高野山(和歌山市)に葬られ、遺体は日野のこの地に埋葬されたともいう。安福寺(木津川市)もまた、菩提を弔うために創建されとされ、門前に首洗いの池がある。東寺(南区)境内の款冬(やまぶき)町に邸があったという。知恩寺(左京区)には、重衡が法然に譲ったという形見の「松陰硯」がある。  


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考資料・資料 『京都の地名検証 3』、『京都大事典』 、『山科の歴史を歩く』 、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、ウェブサイト「コトバンク」


法界寺   善願寺(腹帯地蔵尊)    周辺方丈石(鴨長明)  関連六波羅蜜寺     
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map 平重衡の墓  〒601-1345 京都市伏見区醍醐外山街道町15-10
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