方丈の庵(復元) (京都市左京区)  
Hojo hermitage(reconstruction)
方丈の庵(復元)
方丈の庵(復元) 
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方丈の庵





【参照】「方丈の庵」


【参照】方丈内部



【参照】方丈内部


【参照】「方丈の庵の復元模型(京都市平安京創生館)、展示模型より


【参照】「方丈の庵」の移動用荷車の復元模型(京都市平安京創生館)、展示模型より




【参照】鴨長明、「鴨長明入道蓮胤日野山居之図」、案内板より


 下鴨神社境内の糺の森に、鴨長明(かも-の-ちょうめい)の方丈の庵(ほうじょう-の-あん)が再現されている。
◆歴史年表 平安時代後期、1155年、鴨長明が生まれた。
 現代、2022年、復元された方丈庵は、河合神社境内より、下鴨神社糺の森に移設される。
◆鴨 長明 平安時代後期-鎌倉時代前期の歌人・随筆家・鴨 長明(かも-の-ちょうめい/ながあきら、1155-1216)。男性。通称は菊大夫(きくだいぶ)、南大夫、法名は蓮胤(れんいん)。京都の生まれ。父・賀茂御祖神社(下鴨神社)の神職・長継(ながつぐ)の次男。生家は南大路亭と呼ばれた。1161年、高松女院の叙爵により7歳で従五位下に叙される。琵琶は楽所預(がくしょのあずかり)・中原有安(筑州)に学び、桂流を修めた。和歌は勝命に学ぶ。第78代・二条天皇中宮・高松女院の北面の武士になる。祖父・季継の妻の家を継ぎ、菊太夫と称した。1172年/1173年頃、18歳の時、河合社の正禰宜惣官の父を亡くした。後鳥羽上皇(第82代)の推薦を得ていたにもかかわらず、一族の実力者・鴨祐兼(すけかね)の反対により禰宜職に就けなかった。祐兼の長男が神官になる。(河合神社官事件)。父方の祖母宅に住む。妻子と別れた。以後、芸道に精進した。1175年、高松院姝子(しゅし)内親王北面菊合に出詠した。1182年/1181年頃、家集『鴨長明集』を編む。『月詣集』に4首入集した。1183年頃、六条源家の俊恵に師事し、結社「歌林苑」に加わる。後に派の頭領になる。1184年頃/1185年頃、30歳頃に祖母の家を出て鴨川岸辺に庵を結ぶ。1186年-1187年、紀行『伊勢記』を著したともいう。1188年、『千載集』に1首入集する。1190年、伊勢・熊野に旅した。1194年、六百番歌合なる。1200年、後鳥羽院第二度百首の歌人に選ばれ、歌壇での活躍が続く。1201年、後鳥羽院の命により二条殿に和歌所が再興され、『新古今集』編纂のための和歌所寄人(地下)になる。藤原定家・藤原家隆とも交わる。1202年、千五百番歌合なる。1204年、河合神社官事件により50歳で出家し、当初は洛北大原(大原山)に隠棲し、蓮胤(れんいん)と号した。1205年、『新古今和歌集』が成立し10首入集した。1208年頃/1211年、禅寂のつてで大原から洛南日野外山の地に移り草庵を結んだ。1211年、飛鳥井雅経の推挙により鎌倉に下向し、将軍・源実朝に面会する。和歌師範は実現しなかった。日野に戻り、1212年、3月下旬『方丈記』を著す。この前後(1211年以後とも)、歌論書『無名抄』が成立した。1215年、『古事談』が成立する。この頃、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』も成立した。1216年、方丈の庵で亡くなったという。62歳。
 「石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たづねてやすむ」(『新古今和歌集』)
鴨 長継 平安時代後期の神職・鴨 長継(かもの-ながつぐ、?-1172?)。詳細不明。男性。子に長守(ながもり)、長明。1141年頃、下鴨神社の付属社・河合社禰宜(ねぎ)を経て、1157年/1159年頃、最高の神官・下鴨神社禰宜惣官(しょうねぎそうかん)になる。1161年、下鴨神社式年遷宮に奉仕した。34-35歳。
 有能な人物だったという。
◆中村 昌生 近現代の建築家・中村 昌生(なかむら-まさお、1927-2018)。男性。愛知県の生まれ。彦根工業専門学校(現・滋賀大学)卒業後、京都大学工学部研修員を経て、1949年、同工学部助手、1962年、京都工芸繊維大学工芸学部助教授になる。1970年 「茶室の研究」で日本建築学会賞を受賞した。1973年、京都工芸繊維大学教授、1976年-1983年、桂離宮整備懇談会委員(宮内庁)、1980年、財団法人「京都伝統建築技術協会」設立発起人代表になった。1991年、京都工芸繊維大学を定年退官後、福井工業大学教授、京都迎賓館建設懇談会委員、白鳥公園「清羽亭」の建築設計で日本芸術院賞を受賞した。1992年、財団法人「京都伝統建築技術協会」理事長に就任し、1993年、「茶の湯文化学会」が設立され会長になる。1997年、池坊文化学院院長、2002年、福井工業大学を退任する。2002年-2005年、京都迎賓館伝統的技能検討委員会委員長に就く。著『茶匠と建築』、『茶室の研究』など多数。91歳。
 茶匠建築の史的研究、茶室・数寄屋建築に取り組む。開かれた「公共茶室」を提唱した。桂離宮修理事業など伝統建築保存に尽力した。
◆方丈記・方丈の庵 鴨長明が、鎌倉時代前期、1212年に『方丈記』を執筆した「栖(すみか)」が再現されている。広さは一丈(約3m)四方あり「方丈」の名がある。方丈には家の意味もある。ただ、長明が「方丈」に住したのはこの地ではなく、大原野、日野だった。
 長明は、平安時代後期、1172年頃、18歳の時に、それまで後ろ盾になっていた、かつて河合社の正禰宜惣官(しょうねぎそうかん)の父を亡くした。後鳥羽院は当初、河合社禰宜に長明を推した。また、別の社を官社に昇格させ禰宜職に就けようとする。だが、同族の惣官・祐兼(すねかね)は後鳥羽院に奏し、河合社禰宜職を自らの子・祐頼とした。祐兼は、長明が神社に勤めて日が浅く、祐頼が神職に就くのは「神の心」とした。長明は「見ればまずいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかり離れけん」と詠んでいる。また、長明は琵琶の秘曲とされていた「啄木」を師の伝授以前に弾いたとして、楽所預・藤原孝道が後鳥羽院に奏した。長明はその責を取るということも重なる。鎌倉時代前期、1204年に、長明は50歳で出家し、洛北大原を経て、1211年、禅寂(ぜんじゃく、藤原長親[ながちか])らの縁で日野に草庵を結ぶ。
 『方丈記』は、中世の隠遁者文学の祖とされ、日本の古典文学の中で、初めての災害文学といわれる。長明は、都で相次いだ災禍、平安時代後期、1177年の安元の大火、1180年の治承の辻風・福原遷都の失政、1181年の養和の飢饉、1185年の元暦の大地震などの5つの天災・人災について、漢字交じり片仮名文で記述している。見聞・体験・実感を交え、視覚的な描写がなされた。無常観が底流にあり、後半では自身の日常について語る。
 『方丈記』の冒頭には、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。‥」とある。川は、鴨川を表わしている。
 陸士衡の『歎逝賦幷序』が典拠になっているとみられる。(『十訓抄』)。また、無常については、お経の『法句経』『維摩経』も下敷きにしたとみられる。見聞・体験・実感を交え視覚的な描写がなされている。無常観が底流にあり、後半では自身の日常について語る。これらが、住居(栖)という独自の視点を介して述べられる。最後は、仏の教えは何事にも執着心を持たないということにもかかわらず、余命も山の端に近いというのに、いつの間にか自らは、世を逃れた草庵の生活を愛し、執着していると自責する。「不請阿弥陀仏」を唱えたみたものの、二・三遍でやめてしまった。法名「桑門の蓮胤(れんいん)、外山の庵にしてこれをしるす」と結ぶ。
 庵は、山の中腹に建てられている。谷には木が茂り、西方は見晴らしがきいた。庵は一丈(3m)四方、高さは七尺(2m)もなく、四畳半一間ほどの広さしかなかった。土台に、簡単な屋根が葺かれ、東に3尺(90cm)の庇があり、南に竹の縁側が付けられていた。材の継ぎ目には掛け金を使い、容易に解体・移動できるようになっていた。これは、式年遷宮での造替に着想したともいう。
 衣服は「藤の衣」であり、藤蔓の繊維で織った粗末なものだった。庵の東にある庇の下では炊事をした。薪は周囲の山で調達している。南に懸樋があり、水を溜めたという。東の端に、蕨(わらび)の穂(ほどろ)を敷いて寝床にした。南側に竹の簀の子を敷き、西に閼伽棚(あかだな)があった。阿弥陀・普賢菩薩の絵像が掛けられ、法華経が置かれていた。南西には竹のつり棚、皮製の葛籠(つづら)には『往生要集』、和歌の書なども入れられていた。傍に折琴・継琵琶が立てかけられていた。
◆方丈庵の復元 方丈庵が復元された経緯についての詳細は不明。
 京都工芸繊維大学工芸学部教授・秋本守英(あきもと-もりひで、1931-2013)は、NHKの文学講座で『方丈記』を担当した。その際に、方丈庵の組立て過程を映像化する企画があり、同大学教授・中村昌生(1927-2018)に依頼がある。中村は、復元の監修に当たり切妻造とし、株式会社安井杢工務店(向日市)が製作を担当したという。秋本教授の工繊大の在任期間は1976年-1985年であり、復元もこの頃と思われる。
 その後、数年を経て、河合神社境内(左京区)に方丈庵は移され建てられた。2022年に庵は、河合神社境内よりすぐ北側の下鴨神社糺の森内に移築されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都市の地名』、『京都大事典』、『洛東探訪』、『京の思想家散歩』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『賀茂文化 第11号』、『京都学問所紀要 創刊号』、京都市平安京創生館、ウェブサイト「全国日本学士会」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 方丈の庵(復元) 〒606-0807 京都市左京区下鴨泉川町2-15 下鴨神社糺の森
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