鴨長明の方丈の庵跡(方丈石) (京都市伏見区)
Site of Hojo hermitage
鴨長明の方丈の庵跡(方丈石)  鴨長明の方丈の庵跡(方丈石)
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石碑が立てられている。
 「岩間を伝ひ、草を分けて上る事三町ばかり」の地にあったという。



手前は土台となったとされる大岩。ただ、実際の庵は、これらの岩盤上ではなく、土の上に置かれた木組みの土居上に上屋が建てられたとみられている。
 「今さびしき住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す」


大岩の下の部分


岩の傍に流れる谷川


峠に至る山道


山の中腹からの西の視界、いまは山科の市街地が樹の間にかすかに見える。京都市内は奥の山に遮られここからは望むことはできない。


【参照】鴨長明、「鴨長明入道蓮胤日野山居之図」より



【参照】復元された方丈庵(下鴨神社糺の森)


【参照】囲炉裏と机の上の法華経(下鴨神社糺の森)


【参照】(下鴨神社糺の森)


【参照】閼伽棚(下鴨神社糺の森)


【参照】方丈庵復元模型(京都市平安京創生館、展示模型より)


【参照】方丈庵の移動用の荷車復元模型(京都市平安京創生館、展示模型より)
 日野より南東に供水峠(こうすい-とうげ)を越え、上炭山へ抜ける急な山道が続く。森の中の谷川の傍らに「長明方丈石(かも-の-ちょうめい-ほうじょうせき)」といわれる岩盤が露呈している。
 平安時代後期-鎌倉時代初期の歌人・随筆家の鴨長明は、この地に方一丈(3m四方)の庵を結び、随筆『方丈記』(1212年)を書いたとされる。日野山の奥にあったという庵は、江戸時代の好事家により現在地に比定された。今は、庵の土台だったという方丈石があり、碑のみが立てられている。
 庵跡については異説もあり、日野後方の雑木林南端、平尾山との間の谷川に沿った付近とする説もある。
◆歴史年表 鎌倉時代、1211年、鴨長明は、洛南日野の現在地に草庵を結び隠遁したという。
 1212年、長明は『方丈記』を著した。
 1216年、長明はこの地で亡くなったという。
 その後、100年ほどして、僧・公順(こうじゅん)がこの地の庵跡を訪ねたとみられる。
 室町時代、1526年、連歌師・宗長(そうちょう)は、鴨長明閑居旧跡などを訪ねている。(『宗長日記』)
 江戸時代、1771年、「長明方丈石」が立てられる。
◆鴨 長明 平安時代後期-鎌倉時代前期の歌人・随筆家・鴨 長明(かも-の-ちょうめい/ながあきら、1155-1216)。男性。通称は菊大夫(きくだいぶ)、南大夫、法名は蓮胤(れんいん)。京都の生まれ。父・賀茂御祖神社(下鴨神社)の神職・長継(ながつぐ)の次男。生家は南大路亭と呼ばれた。1161年、7歳で従五位下(中宮叙爵)に叙される。琵琶は楽所預(がくしょのあずかり)・中原有安(筑州)に学び、桂流を修めた。和歌は勝命に学ぶ。第78代・二条天皇中宮・高松女院の北面の武士になる。祖父・季継の妻の家を継ぎ、菊太夫と称した。1172年/1173年頃、18歳の時、河合社の正禰宜惣官の父を亡くした。後鳥羽上皇(第82代)の推薦を得ていたにもかかわらず、一族の実力者・鴨祐兼(すけかね)の反対により禰宜職に就けなかった。祐兼の長男が神官になる。(河合神社官事件)。父方の祖母宅に住む。妻子と別れた。以後、芸道に精進した。1175年、高松院姝子(しゅし)内親王北面菊合に出詠した。1182年/1181年頃、家集『鴨長明集』を編む。『月詣集』に4首入集した。1183年頃、六条源家の俊恵に師事し、結社「歌林苑」に加わる。後に派の頭領になる。1184年頃/1185年頃、30歳頃に祖母の家を出て鴨川岸辺に庵を結ぶ。1186年-1187年、紀行『伊勢記』を著したともいう。1188年、『千載集』に1首入集する。1190年、伊勢・熊野に旅した。1194年、六百番歌合なる。1200年、後鳥羽院第二度百首の歌人に選ばれ、歌壇での活躍が続く。1201年、後鳥羽院の命により二条殿に和歌所が再興され、『新古今集』編纂のための和歌所寄人(地下)になる。藤原定家・藤原家隆とも交わる。1202年、千五百番歌合なる。1204年、河合神社官事件により50歳で出家し、当初は洛北大原(大原山)に隠棲し、蓮胤(れんいん)と号した。1205年、『新古今和歌集』が成立し10首入集した。1208年頃/1211年、禅寂のつてで大原から洛南日野外山の地に移り草庵を結んだ。1211年、飛鳥井雅経の推挙により鎌倉に下向し、将軍・源実朝に面会する。和歌師範は実現しなかった。日野に戻り、1212年、3月下旬『方丈記』を著す。この前後(1211年以後とも)、歌論書『無名抄』が成立した。1215年、『古事談』が成立する。この頃、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』も成立した。1216年、方丈の庵で亡くなったという。62歳。
◆禅寂  鎌倉時代前期の浄土宗の僧・禅寂(ぜんじゃく、?-?)。詳細不明。男性。俗名は長親(ながちか)。大原如蓮上人。父・日野兼光の次男。刑部少輔(しょう)、民部大輔(たいふ)。1188年、20歳頃に出家し、法然の弟子になる。
 大原で鴨長明と親交したとみられる。1208年頃、鴨長明が洛南日野外山の地に結んだ方丈の庵に協力したとみられる。1216年、長明没後に『月講式』を草し、長明の霊前に捧げている。
◆公順 鎌倉時代後期-南北朝時代の僧・歌人・公順(こうじゅん、?-?)。詳細不明。男性。俗姓は藤原。法印公順。近江(滋賀県)の園城寺の僧で、法印権大僧都(ごんのだいそうず)となる。二条為世(ためよ)に学び、その子・為藤、長舜と親交があった。勅撰集『新後撰和歌集』『続千載和歌集』などに6首入集する。永仁-建武年間(1293-1338)の歌をおさめた家集『拾藻鈔(しゅうそうしょう)』がある。
◆宗長 室町時代中期-後期の連歌師・宗長(そうちょう、1448-1532)。男性。幼名は長六、号は宗歓、長阿、柴屋軒(さいおくけん)。駿河国(静岡県)の生まれ。父・島田の鍛冶職・五条義助。早くから今川義忠(よしただ)に近侍し、18歳で出家した。その後、合戦などに従軍した。1476年、義忠の戦死後、今川家を離れ上洛する。一休宗純に参禅し、宗祇(そうぎ)に師事し連歌を修行した。飯尾宗祇にも連歌を学ぶ。三条西実隆(にしさねたか) ・山崎宗鑑らと交友する。1478年、宗祇の越後の旅、1480年、連歌紀行の筑紫道記(つくしみちのき)にも同行した。後、水無瀬(みなせ)三吟、湯山三吟などの宗祇一座の席に列なり頭角を現した。1496年、駿河に帰国し、今川氏親(うじちか)に迎えられ、宇津山麓に「柴屋軒」を結ぶ。連歌・古典を指導し、講和の使者に立ち政治的にも関与した。関西・東国・北国を旅行し、駿河・京都間を往来した。駿河で没した。『水無瀬三吟百韻』の作者の一人(ほか宗祇,肖柏)、句集『壁草』、日記『宗長手記』など多数。85歳。 
 俳諧・狂歌も嗜んだ。
◆方丈記 鴨長明は、平安時代後期、1172年、18歳の時に、それまで後ろ盾になっていたかつての河合社の正禰宜惣官の父を失う。後鳥羽院は当初、河合社禰宜に長明を推した。また、別の社を官社に昇格させ禰宜職に就けようとした。同族の主流派だった惣官・祐兼(すけかね)は後鳥羽院に奏し、河合社禰宜職を自らの子・祐頼(すけより)とした。また、長明は琵琶の秘曲とされていた「啄木」を師の伝授以前に弾いたとして、楽所預・藤原孝道は後鳥羽院に奏した。長明はその責を取るということも重なる。長明は、一族と後鳥羽院に対する不信を鬱積させた。鎌倉時代前期、1204年に50歳で出家し、洛北大原を経て、1211年、日野に草庵を結んだ。
 『方丈記』は、中世の隠遁者文学の祖であり、日本の古典文学の中で、初めての災害文学とされる。長明は、都で相次いだ災禍、平安時代後期、1177年の安元の大火、1180年の治承の辻風と福原遷都の失政、1181年頃の2年にわたる養和の飢饉、1185年の元暦の大地震など5つの天災・人災について漢字交じり片仮名文で記述した。
 冒頭の「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」について、陸士衡の『歎逝賦幷序』が典拠になっているとみられる。(『十訓抄』)。また、無常については、お経の『法句経』『維摩経』も下敷きにしたとみられる。見聞・体験・実感を交え視覚的な描写がなされている。無常観が底流にあり、後半では自身の日常について語る。これらが、住居(栖)という独自の視点を介して述べられる。最後は、仏の教えは何事にも執着心を持たないということにもかかわらず、余命も山の端に近いというのに、いつの間にか自らは、世を逃れた草庵の生活を愛し、執着していると自責する。「不請阿弥陀仏」を唱えたみたものの、二・三遍でやめてしまった。法名「桑門の蓮胤(れんいん)、外山の庵にしてこれをしるす」と結ぶ。
 庵は、山の中腹に建てられた。谷には木が茂り、西方は見晴らしがきいた。庵は一丈(3m)四方、高さは七尺(2m)もなく、四畳半一間ほどの広さしかなかった。敷地は定めず、土居(つちい、木枠の土台)を組み、簡単な屋根が葺かれ、東に3尺(90cm)の庇があり、南に竹の縁側が付けられていた。材の継ぎ目には掛金(かけがね)を使い、容易に解体・移動できるようになっていた。
 衣服は「藤の衣」であり、藤蔓の繊維で織った粗末なものだった。
 庵の東にある庇の下では炊事をした。薪は周囲の山で調達する。南に懸樋(かけひ)があり、岩を立て水を溜めたという。東の端に、蕨(わらび)の穂(ほどろ)を敷いて寝床にした。南側に竹の簀の子を敷き、西に閼伽棚(あかだな)があった。阿弥陀・普賢菩薩の絵像が掛けられ、前に法華経が置かれている。南西には竹のつり棚、皮製の葛籠(つづら)には『往生要集』、和歌の書なども入れられていた。傍に折琴・継琵琶が立てかけられていた。
 庵の周囲は自然に恵まれていた。長明は月を愛で、春の藤の花、夏のほととぎす、秋のひぐらし、冬の雪を愉しむ。念仏に気が進まなければ休んだという。朝に遥かな巨椋池を眺め、岡の屋(岡屋)辺りを船が行き交うのが見えた。「世の中を何にたとへん朝ぼらけこぎ行く舟の跡の白波」と詠む。時に里の山守の童と遊び、野の草・木の実・落ち穂を拾い集めた。木幡山・伏見・鳥羽・羽束師に出かけ、近江の岩間寺(正法寺)・石山寺まで遠出して参詣した。蝉丸・猿丸太夫の墓も詣でている。夜は窓から月を愛で、親しかった人を想い、庵の周りにやってきた猿・山鳥・鹿野の声を聞く。寝覚めた夜は、火鉢の埋み火で暖をとり、梟の声を聞く。桜、紅葉を楽しみ、山菜を摘み、この地で5年ほど暮らし亡くなったという。
◆日野家 ◈鎌倉時代前期の浄土宗の僧・禅寂(ぜんじゃく、?-?)は、藤原氏の一族・日野氏の出身であり、鴨長明の友人だった。長明が日野外山に方丈の庵を結ぶ際に、尽力したとみられている。
 鎌倉時代前期、1216年の長明の没後に禅寂は、『月講式』を草し、長明の霊前に捧げている。
 ◈日野氏は法界寺を菩提寺にしており、長明が庵に移ってからも親交があったという。互いに行き来があったともいう。
◆長明没後 ◈ 鎌倉時代後期、鴨長明の没後100年ほどして、僧・公順(こうじゅん)がこの地の方丈の庵跡を訪ねている。
 「朽ちはてぬその名ばかりと思ひしに跡さへのこる草のいほかな」の歌を詠んだ。朽ち果てているとばかりに思っていた庵跡は、意外にも残っていたと詠んだ。
 ◈ 室町時代後期、1526年には、連歌師・宗長(そうちょう)が、法界寺(日野七仏薬師)、鴨長明閑居旧跡、重衡の墓などを訪ねている。(『宗長日記』)


*現地には石碑・岩盤のみがあります。日野の里から道標がいくつかあり、京都市日野野外活動施設へ向かう道をさらに登った、人家のない森の中にあります。
*復元された実物大の方丈は下鴨神社の糺の森に、復元模型は京都市平安京創生館にあります。

*参考文献・資料 『洛東探訪』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『京の古寺歴史探訪』、『京の思想家散歩』、『賀茂文化 第11号』、『京都大事典』、『京都歩きの愉しみ』、『京都学問所紀要 創刊号』、京都市平安京創生館、「朝日新聞 2020年12月18日付」、ウェブサイト「コトバンク」


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鴨長明の方丈の庵跡 〒601-1403 京都市伏見区日野船尾16
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