日野御廟 (京都市伏見区)
Hino Mausoleum
日野御廟 日野御廟 
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日野有範の五輪石塔



吉光女の五輪石塔







藤原資巴卿、藤原資始朝臣の墓


日野勝光の碑
 日野御廟(ひの-ごびょう)は、浄土真宗の宗祖・親鸞(1173-1263)ゆかりの人々が眠る。
◆歴史年表 平安時代、1173年、親鸞は日野の里、現在の法界寺、日野誕生院付近に生まれたという。
 1176?年、日野有範が亡くなる。
 鎌倉時代、1283年、覚信尼が亡くなる。
 室町時代、1476年、日野勝光が亡くなった。 
◆日野有範 平安時代後期の官吏・日野有範(ひの-ありのり、? -1176?)。日野有信の4男、親鸞の父。皇太后宮大進(だいじょう)、第75代・崇徳天皇の侍講、三室戸の大進と称された。
 日野御廟(伏見区)に五輪塔が立つ。
◆吉光女 平安時代後期の女性・吉光女(?-?)。親鸞の母。清和源氏の八幡太郎義家(1039-1106)の孫娘ともいう。
 日野御廟(伏見区)に五輪塔が立つ。
◆日野範綱 平安時代後期の日野範綱 (ひの-のりつな、?-?) 。弟は日野有範、親鸞の伯父 。白河院(第72代)に仕え、 式部大輔、 兵庫頭、 若狹守などを歴任した。1181年、 9歳の親鸞を慈円に導き、 その出家に立ち会ったという。 1192年、後白河院が亡くなり、出家し観真と名乗った。 弟・有範が隠棲すると、 その子・親鸞、 兼有、 行兼を猶子として養育した。
 日野御廟(伏見区)に五輪塔が立つ。
◆日野広綱 平安時代後期の日野広綱(ひの-ひろつな、?-?) 。詳細不明。法名は宗綱、 号は宮内少輔入道。 親鸞の従兄弟・尊蓮 (日野信綱) の子。 親鸞の教えを父と共に受けた。親鸞の娘・覚信尼と結婚し、子に覚恵ら2子がある。
 日野御廟(伏見区)に五輪塔が立つ。
◆覚信尼 鎌倉時代の覚信尼(かくしんに、1224-1283)。常陸国に生まれた。親鸞末娘になる。11歳で親鸞とともに帰京、初めは日野広綱の側室になる。その没後、親鸞と同居し、親鸞没後は葬送、拾骨を行った。
 その後、小野宮禅念と再婚し、吉水北辺(崇泰院付近)の大谷に住んだ。この地に、1272年、親鸞の廟堂(影堂)を建立する。1274年以後、覚信尼と子孫は、廟堂の留守職(管理権)になっている。60歳。
 日野御廟(伏見区)に五輪塔が立つ。
◆日野勝光 室町時代中期の公卿・日野勝光(ひの-かつみつ、1429-1476)。号は唯称院。父は藤原北家の裏松(日野)重政(政光)、母は北小路苗子。1434年、祖父・義資の没後、父・重政が出家し、勝光は義資の養子として裏松家を継ぎ家督を継ぐ。1441年、元服。1448年、日野(広橋)兼郷の没後、後継者のいなくなった日野家を継いだ。1450年、蔵人頭、右中弁、参議になる。1451年、従三位、左大弁、権中納言になる。1459年、正二位、1455年、権大納言になり、妹・富子が将軍・足利義政の室になる。権勢を強めた。61年、三条実雅の所領、能登国若山荘などを与えられる。1465年、従一位、1466年、後花園上皇(第102代)の院の執権になる。富子の子・義尚を将軍家の後嗣に立てようと、伊勢貞親と共に義視(よしみ)を排斥した。これらが、1467-1477年、応仁・文明の乱の契機になった。乱では東軍陣営に付く。1467年、同家で前例のない内大臣になり、「押大臣」と呼ばれ権勢を振るう。1473年、義尚が将軍になり、新将軍代として幕政を担当した。1476年、左大臣になる。48歳。
 和漢学に通じ、和歌に優れた。
 千本歓喜寺に葬られた。日野御廟(伏見区)に五輪塔が立つ。
◆日野御廟 日野御廟には凝灰岩の小さな五輪石塔が立ち並んでいる。
 中央に親鸞の父・有範、その右に母・吉光女(きっこうにょ)、また伯父・範綱、娘・覚信尼、日野広綱、日野勝光の碑、藤原資巴卿、藤原資始朝臣の墓も立つ。

*参考文献  ウェブサイト「コトバンク」   


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