平岡八幡宮 (京都市右京区)
Hiraoka-hachimangu Shrine
平岡八幡宮 平岡八幡宮 
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参道の楓








拝殿












神殿








草花の絵が44枚描かれた花の天井の写真、説明板より


平岡八幡弁財天(琴弾き弁財天)



豊臣秀吉寄進の証という瓢箪の紋(透かし部分)



絵馬にも白椿が描かれている。



地主神社、大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)、創建以前より梅ヶ畑に祀られていた。



若宮社、応神天皇、誉田別命(ほむたわけのみこと)



貴布弥社、罔象女神(みずはのめのかみ)



武内社、武内宿禰(たけしうちのすくね)
 京都市内から神護寺へ向う周山街道沿いに平岡八幡宮(ひらおか はちまんぐう)はある。「梅ヶ畑(うめがはた)八幡(宮)」ともいう。
 梅ヶ畑付近の産土神として祀られてきた。神護寺とゆかり深く、かつてはその境内にあり、寺の守護神として祀られていた。
 梅ヶ畑は、古くより梅の産地として知られ、地名の由来になった。里では薬草なども栽培されていたという。
 祭神は、応神天皇(誉田別命、ほむたわけのみこと)。
 勝運、財運、出世、音楽、芸能などの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、809年、弘法大師(空海)が神護寺の守護神として、平岡山崎(右京区)に、勅使五位・藤原公明を幣帛使として、豊前宇佐宮の分霊を勧請したことに始まる。ご神体は、空海自ら描いたという僧形八幡神像を祀り、山城国最古の八幡宮になった。(『平岡八幡宮縁起』『神護寺規模殊勝記』)
 平安時代末期、一時、廃絶している。
 1190年、神護寺の文覚により再興される。
 鎌倉時代、1222年、1220年とも、文覚の高弟・浄覚(上覚)により現在地に移された。
 室町時代、1407年、社殿が焼失し、3代将軍・足利義満により再建されている。
 江戸時代、1826年、第120代・仁孝天皇の命により、現在の社殿が再建された。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、神護寺から独立している。
 現代、2009年、当社神輿が初めて神護寺まで巡行する。
◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都になる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり東峰に葬られた。
◆文覚 平安時代末期-鎌倉時代初期平安時代の真言宗の僧・文覚(もんがく、1139-1203)。俗名を遠藤盛遠(もりとお)といった。「荒法師」といわれた。かつて、摂津源氏傘下の摂津国・渡辺党の武士で、第74代・鳥羽天皇皇女・統子内親王(上西門院)に仕える北面の武士だった。1159年、18歳で従兄弟で同僚の渡辺渡(わたる、渡辺左衛門尉源渡)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺したことから出家し、文覚と称した。那智、熊野で修行する。荒廃していた神護寺に入り、再興のために、第77代・後白河天皇に勧進を強訴し、不敬罪で伊豆国に配流される。その先で、後の鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝と知り合い、平家打倒の挙兵を促したという。盛遠は、密かに京都に戻り、後白河院の院宣を得て頼朝に伝えた。1192年(1185年)、鎌倉幕府成立後、頼朝、後白河院の庇護を受け、各地の寺院を修復する。1199年、頼朝死後、第82代・後鳥羽上皇により、佐渡国流罪になり客死した。
 弟子に神護寺復興を継いだ上覚、孫弟子に高山寺開山の明恵らがいる。
◆上覚 平安時代後期-鎌倉時代前期の真言宗の僧・上覚(じょうかく、1147-1226)。上学、浄覚。父は湯浅宗重であり、明恵の叔父になる。1159年、平治の乱で、父とともに平清盛方に加わる。その後、出家した。文覚に師事し、文覚の神護寺復興に協力した。1203年、文覚没後も神護寺経営を尽くす。明恵が師事して出家、神護寺に入寺した。歌学書に『和歌色葉』、私撰集に『玄宝集』がある。
◆足利義満 室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ、1358-1408)。2代将軍・義詮の子。 母・紀良子は第84代・順徳天皇の玄孫に当たる。1367年、10歳で将軍職を継ぎ、朝廷内で権力を振い、天皇祭祀の形骸化を謀る。地方の有力守護大名を弾圧し権力を掌握、公武権力共に手にする。1378年、室町の「花の御所」に幕府を移す。1392年、南北朝を合一、全国統一した。北山文化が盛んになり、明の倭寇取締と共に、1404年から明との勘合貿易を再開した。春屋妙葩に帰依した。1395年、出家して道義と号した。1382年、相国寺を建立し、自らの上皇位を目前に急死した。
 義満が当社の復興に尽力したのは、八幡神を信奉する清和源氏の末裔であり、営んでいた北山第に近かったからという。尊氏、義満、義持らは当社に参詣し、紅葉狩りにも訪れたともいう。
◆建築 ◈「本殿」は、江戸時代、1826年に建てられた。市内に現存するものは少ないという。3間2間、切妻造、正面に間口1間の向拝付。
 柱、長押、頭貫、板扉に朱の弁柄塗り、板壁は白い胡紛塗り。組物、中備、内法長押などに極彩色の文様がある。
花の天井 神殿内陣天井は、江戸時代末期、1827年、画工・綾戸鐘次郎藤原之信により描かれた。極彩色の花、植物など44面が黒塗りの格縁内に飾られている。「花の天井」と呼ばれている。内陣鴨居に、紅白熨斗(のし)袋に紅白梅、紅白椿の絵柄がある。
 梅ヶ畑一帯は、かつて薬の産地になっていたことから、これらの植物が題材に描かれたともいう。また、それよりも早く、室町時代に、花を愛した義満の「花の御所」に因んで描かれたともいう。
 正面(南)東面より奥(北)へ、高尾楓、藪甘草(やぶかんぞう)、芙蓉、昼顔、万年青(おもと)、木蓮、寒蘭、立葵、笹百合、水仙、素馨(そけい)、東に戻って大山蓮華、柘榴(ざくろ)、枳殻(からたち)、紫陽花、女郎花(おみなえし)、枇杷、葡萄(ぶどう)、山茶花(さざんか)、桔梗、鷄冠鶏頭(とさかけいとう)、石楠花(しゃくなげ)、東に戻って芥子(からし)、山桜、木槿(むくげ)、野菊、朝顔、蓮、山躑躅(やまつつじ)、河骨(こうほね)、山桃(梨)、連翹(れんぎょう)、桐、東に戻って菖蒲(しょうぶ)、黄蜀葵(とろろあおい)、水葵、椿、甘草、牡丹、梅、藤、芍薬(しゃくやく)、南天、擬宝珠(ぎぼうし)が描かれている。
 花の天井は、1979年より一般公開され、毎年、春、秋に特別公開されている。
◆詫間派 平岡には鎌倉時代の絵仏師の流派、詫間派(たくまは)の絵師達が住んだ。宅磨派、宅間派とも書かれる。鎌倉時代初期の宅磨為遠、子・宅磨勝賀、為久がいる。
 公家、神護寺、東寺などで絵画を制作し、北宋仏画に倣う画風は慶派などにも影響を与えた。高山寺の明恵を描いた「樹上座禅図」の絵師・恵二地坊成忍もその一族の出身という。明恵もこの地を度々訪れたらしい。宅磨勝賀の作品としては、東寺に「十二天図屏風」が残る。
◆地主社 
境内の境内社である地主神社は、祭神・大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)を祀る。当社創建以前、太古より梅ヶ畑に祀られていた氏神という。氏子は、本社参拝の前に当社に詣でる。
 江戸時代中期、1718年までは、地蔵谷にあったという。場所については特定されていない。
◆鳴滝砥石 拝殿に曼荼羅型の砥石(といし)が奉納されている。
 この付近で産出した砥石は、黄褐色をしている。赤鳴(珪質頁岩)と呼ばれ、コノドント(中世代三畳紀)という微化石を含む。適度の硬度、吸水性に優れ、研磨用仕上砥石として用いられた。砥山は、梅ヶ畑、鳴滝、高雄にかけてあり、「本山合砥石(ほんやまあわせといし)」の名声を高めた。また、梅ヶ畑に産するものは「鳴滝石」「鳴滝砥石」ともいわれ、質量ともに日本随一とされた。
 鎌倉時代、1190年、梅ヶ畑の郷士・木(本)間藤左衛門時成が、菖蒲谷付近で砥石を発見し採掘した。源頼朝より「日本礪(れい)石師棟梁」の免許を付与されたともいう。以後、800年間にわたり採掘された。江戸時代初期、1607年、高雄近郊の砥山5カ所の採掘権は本阿弥家、採掘・商いは鳴滝村の砥屋五左衛門に認められた。近代に最盛期を迎え、その後、休山になった。
◆靭猿 神殿は、歌舞伎「靭猿(うつぼざる)」の舞台背景になった。本名題「花舞台霞の猿曳」になる。二世中村重助作で、江戸時代、1838年に初演された。
花木・樹木 境内は、椿と高雄もみじの参道で知られている。
 樹齢200年の古木をはじめ、300本の椿の株が植えられている。花の見頃は例年3月頃という。
 椿は、日本の在来種であり、『日本書紀』には、第12代・景行天皇の豊後国の土蜘蛛成敗の際に使われ、邪悪を払う意味があった。このため、歴代の武将が賞用した。平安時代には、長寿、招福、吉兆の木とされている。江戸時代には、江戸鎮護の花木とされた。
 白い花を付ける「白玉椿」は、茶道の茶花として用いられてきた。当社の白玉椿には、願い事をすると一夜で白い花が咲き、成就したという故事がある。白椿の「一水」、「平岡八幡薮椿」がある。
 コジイ、モミがある。 ご神木のツブラジイの巨木は、樹齢600年ともいう。高さ15m、胸高幹周り4.8mで市内最大の幹周りという。枝長25m-30m。
◆年間行事 左義長祭(1月15日)、節分祭(2月3日)、例祭(三役相撲、鉾さし、お火焚き祭)(10月第1日曜日)、創祀祭(僧形八幡神像の公開)(11月23日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古建築の装飾』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『明恵上人』『京都の地名検証』『京都滋賀 古代地名を歩くⅡ』『京都まちかど遺産めぐり』『京都大事典』『京都のご利益手帖』『京都 神社と寺院の森』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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弓の名手といわれた源為朝(鎮西八郎為朝)の放った矢が射抜いたという石、いまは、俳人・鈴鹿野風呂の句碑になっている。「眞開らきの龍胆(りんどう)玉の如き晴れ」

さざれ石、獅子にも見えるという。

奉納されている曼荼羅型の砥石

ご神木のツブラジイの巨木

白玉椿

金魚の尾の形をしたという珍しい品種の金魚椿の葉

土俵、10月の例祭では「三役相撲」が行われる。

「後鳥羽天皇深縁之地」の石碑
平岡八幡宮 〒616-8271 京都市右京区梅ヶ畑宮ノ口町23番地  075-871-2084
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