妙光寺 (京都市右京区)
Myoko-ji Temple
妙光寺  妙光寺
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庫裡




西の玄関



玄関





方丈(本堂)


方丈



方丈


方丈





『都名所図会』に描かれた妙光寺






甘露水



甘露水



鎮守社


墓地入口
 宇多野(うたの)の妙光寺(みょうこうじ) は、山号を正覚山(しょうかくざん) という。境内は5000坪(16529㎡)を有している。 
 臨済宗建仁寺派、本尊は釈迦如来。
 京都十刹の八位。
◆歴史年表 鎌倉時代、かつてこの地には、公卿・花山院藤原師継(かざんいん-ふじわらの-もろつぐ、 1222-1281) の山荘、北山仁和寺の別業が営まれた。師継は、山荘を改めて、1196年に早世した長子・忠季(ただすえ)を悼み、その幼名・妙光丸に因み「妙光禅寺」を建立する。開山は心地覚心(しんち かくしん) による。
 1281年、師継の没後、師継の子(忠季の弟とも)・心性(しんしょう)と師信(もろのぶ)は、亡父の遺志を継いで伽藍を造営する。
 1285年、心性と師信は、伽藍を建立した。心地覚心(法灯円明国師)を開山にしたともいう。以後、花山院家の菩提寺になる。その後、師信、師賢、家賢、長親らが住した。
 1295年、心地覚心の寿塔が立てられる。「歳寒(さいかん、後に霊光)」と号した。
 鎌倉時代、第90代・亀山天皇(1249-1305) 、第96代・後醍醐天皇(1318-1339) の勅願寺になる。
 南北朝時代、1331年、元弘の乱は、第96代・後醍醐天皇らの勢力による鎌倉幕府倒幕運動だった。師賢(もろかた)は山荘より、天皇のもとに参じる。
 建武年間(1333-1336)、後醍醐天皇は三種の神器と共に一時、妙光寺、神器の間に逃れたという。
 第97代、南朝第2代・後村上天皇(1328-1368) の勅願寺になる。
 1386年、官刹の山城十刹の第8位に列せられた。最盛期には塔頭10寺があった。
 室町時代、嘉吉年間(1441-1443)、三種の神器は妙光寺内「神器の間」に奉安されたという。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃した。
 江戸時代、寛永年間(1624-1645)、建仁寺・霊洞院の住持・才林慈俊(?-1638) により再興されたという。法堂、方丈、鐘楼などが再建された。
 1639年、現在の堂宇は、建仁寺の三江紹益(さんこう-じょうえき)が、歌人で豪商・打它公軌(うちだ-きんのり、?-1647)の支援を得て再興したともいう。
 1666年、公軌の子・打它景軌が山門を建立した。
 1780年、当寺の境内が記されている。山門、仏殿、方丈、庫裡、開山堂(印金堂)、数寄屋などが描かれている。(『都名所図会』)
 1788年、建仁寺御朱印の内、4石6斗7升を有し、歳寒庵など3塔頭があった。(「建仁寺末寺帳」)
 幕末、勤王派の拠点になり、新撰組の焼き討ちにより焼失した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈以後、寺領上知により、一時無住になる。塔頭、末寺も廃絶し、建物は建仁寺、静岡・鉄舟寺などに移された。風水害により荒廃する。
 1871年、建仁寺の天章慈英が当寺で佐幕派に斬られる。
 1885年、建仁寺に宝陀閣(開山堂の楼門)を移す。
 現代、1945年以降、印金堂は老朽により倒壊した。
 1966年、江戸時代の陶工・野々村仁清(ののむら にんせい)の墓が発見される。
 2004年より、本堂、書院、庭園が整備される。
 2011年、現代の画家・井上文太は、下間の間に襖絵「干潮図」を完成させた。
◆心地覚心 鎌倉中期の臨済宗の僧・心地覚心(しんち-かくしん、1207-1298) 。無本覚心。信濃国に生まれた。15歳で神宮寺の忠学に学び、1225年、東大寺戒壇で受戒、高野山の伝法院覚仏、道範に密教を、禅定院(金剛三昧院)の行勇に禅を学んだ。1239年、行勇に従い鎌倉・寿福寺に移り、1242年、深草・極楽寺で道元から菩薩戒を受ける。1249年、宋に渡り、霊洞山護国仁王寺の無門慧開(むもん えかい)に参じて法を嗣ぐ。1254年、帰国、1258年、高野山の金剛三昧院住持になる。由良・西方寺(後の興国寺)を禅寺に改め開山になる。1285年、妙光寺の開山になる。1295年、妙光寺に寿塔を建て、歳寒(霊光)と号した。亀山上皇の帰依を受け法燈禅師、後醍醐天皇より法燈円明国師を贈られた。
 公案書「無門関」を無門慧開より授かり、法燈派の祖になる。虚無僧で知られる普化宗を請来し、日本普化宗の祖。宋の径山万寿寺より味噌(金山寺味噌)・醤油の技法を日本に伝えたという。
◆花山院師継 鎌倉時代の公卿・花山院藤原師継(かざんいん-ふじわらの-もろつぐ、1222-1281) 。花山院忠経四男。正二位。権大納言。1271年、内大臣になる。『妙槐記』を著す。
◆花山院師賢 鎌倉時代後期の公家・花山院藤原師賢(かざんいん-ふじわらの-もろかた、1301-1332) 。花山院師信の子。諡号は文貞公。持明院統の第95代・花園天皇に仕え、1317年、参議、左大弁、権中納言、後醍醐天皇の時、中宮権大夫、左衛門督、正二位大納言になる。1324年、正中の変で、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の第1次討幕運動に加わり、失敗する。1331年、北条氏討伐の第2次討幕運動(元弘の変)で主謀者とされた。後醍醐天皇の笠置落ちで、天皇の替え玉として御輿に乗り、比叡山延暦寺に登る。僧兵を集めての挙兵は成功せず笠置に赴く。笠置砦は陥ち、鎌倉方に捕縛された。1332年、下総・千葉貞胤に預けられ、出家し素貞と号し、病没した。『新葉和歌集』に収められている。太政大臣を追贈された。「妙光寺大臣」と号された。
◆才林慈俊 江戸時代の臨済宗の僧・才林慈俊(?-1638) 。詳細不明。建仁寺・霊洞院住持。宇多野・妙光寺を再興したともいう。
◆打它公軌 江戸時代前期の歌人・豪商・打它公軌(うだ-きんのり、?-1647)。糸屋十右衛門。越前敦賀の富商・打它宗貞の子。京都に出て入道になり、驚月と号した。妙光寺を再興し、驚月庵を結び、歌会を催した。松永貞徳の門に入り、歌を木下長嘯子に学び、師の『挙白集』を編集した。
◆天章 江戸時代後期の僧・天章(てんしょう、?-1871) 。天章慈英。京都の生まれ。摩島松南・仁科白谷に師事した。江戸・浄土宗増上寺、建仁寺・全室慈保(ぜんしつ じほ)に師事し臨済宗に改宗した。後に同寺357世。勤王僧で品川弥二郎、田中顕助、大原重徳らが集う。1862年、将軍に状況を促す勅使に岩倉具視に代え大原を推挙した。1871年、妙光寺の書斎で何者かに暗殺される。
 詩文、和歌に優れた。妙光寺境内に墓がある。近年、隠し部屋も整備された。
◆野々村仁清 江戸時代前期の陶工・野々村仁清(ののむら-にんせい、?-1782)。野々村清右衛門。京焼丹波国野々村(美山町)の生まれという。瀬戸、美濃、京都・粟田口などで学ぶ。1647年頃(1650年頃とも)、御室仁和寺門前に御室窯を開き御室焼を始める。仁和寺宮と知遇になる。明暦年間(1655-1658)、仁和寺の「仁」、清右衛門の「清」より「仁清」と称し、その銘印を捺した。京焼色絵陶器を完成させる。轆轤の技に優れ、銹絵(さびえ) 、染付、色絵などの茶器、懐石道具などを造った。
 1966年、妙光寺内に墓が見つかった。墓碑がある。
◆井上文太 現代の画家・井上文太(いのうえ-ぶんた) 。兵庫県生まれ。1991年、画家・金子國義に師事した。2006年より、現代アーティストとしての活動を始めた。日本画、油絵、キャラクターデザイン、空間美術、刺青なども手がける。 
 2010年-2011年、妙光寺障壁画制作に関わる。
◆仏像・木像 本堂の室中に本尊「阿弥陀如来」、「法燈円明国師像」を安置する。
 開山堂に安置されている「開山像(法燈円明国師)」は、中近世欧州調の椅子の上に坐している。
 「柿本人麿呂像」がある。
◆建築  ◈かつて、「印金堂(いんきんどう、開山堂) 」があり、中国渡来の印金裂(いんきんぎれ) を四壁に貼っていた。与謝蕪村は当寺を訪れ、「春月や印金堂の木の間より」と詠んだ。
 印金裂は布面に糊置き金箔を貼り、糊から出た部分を掃き文様を表した。唐代に始まり宋代に盛んになる。薄い裂にも金箔の文様を表現することができた。日本には14世紀以降、袈裟裂や打敷(仏壇、仏具などの敷物) として流入している。
  ◈「本堂(方丈)」(京都市指定建造物)は、打它公軌の再建時の様式を残している。西と東(貴人用)に2つの玄関がある。六間取りであり、上間一ノ間は「神器の間」と呼ばれ、三畳の上段を付属させている。須弥檀の厨子は、象牙、金箔により装飾されている。持明院統・大覚寺統の天皇家の継承争いの際、花山院家は大覚寺派として後の南朝と結び付く。妙光寺は大覚寺統の亀山天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の勅願寺になる。南北朝時代、建武年間(1333-1336)には後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺、神器の間に逃れたという。室町時代、嘉吉年間(1441-1443)、三種の神器は妙光寺の神器の間に奉安された。
◆庭園 近年、2004年、方丈庭園、枯山水庭園が建仁寺の僧侶らにより作庭された。
 庭面は東西に長形であり、白砂に砂紋が引かれている。奥に苔地があり、東の立石、西の平石の2石のみがある。低い築地背後の楓が借景になっている。
 境内には、約200本の楓が植樹されている。
◆風神雷神図屏風 現在建仁寺が所有する「風神雷神図屏風」(国宝)は、豪商・打陀公軌が、妙光寺再興の際に俵屋宗達に製作を依頼したともいう。その後、建仁寺に移されたとみられている。
◆文化財 「黄地花入菱花鳥文唐綾九条袈裟」(重文)、京都国立博物館寄託。
◆障壁画 2011年、現代の画家で「北斗の拳」で知られる井上文太により、下間の間に障壁画「干潮図」が制作された。
◆鎮守堂 境内の鎮守堂は、南北朝時代、三光国師が勧請した。江戸時代、文久年間(1861-1864)、天章和尚が造営した。
◆甘露水 境内の東南隅に「甘露水(かんろすい)」があり湧水している。かつて、当寺に三種の神器が奉安されていた時に、この井水が供されていたという。
◆文学 江戸時代の俳人・画家・与謝蕪村(よさ-ぶそん、1716-1784)は、当寺の印金堂を訪ねて、「春月や印金堂の木の間より」と詠んでいる。
◆墓 天章の墓がある。
 京焼色の陶芸家・野々村仁清と伝えられる墓碑(40㎝)がある。仁清は、江戸時代、正保年間(1644-1648) 、近くの仁和寺門前に御室窯を開いた。1675年に戒名を授けられる。謝礼に茶碗、銀子3匁(もんめ)を寄進したという。墓石は小さく、その後、盗難を恐れた住持により隠された。現代、1966年に発見される。「吟松庵元竜恵雲居士」、江戸時代「天和二年(1682年)」と刻まれている。
 村上天皇陵の参道近く、林中に打它一族、公軌の石造宝塔形墓6基が立つ。
◆村上陵 境内の背後に村上山があり、山頂の小円墳は、村上天皇村上陵とされている。
 平安時代、967年、天皇は「葛野郡田邑郷(たむらのごう)北中尾(きたながお、長尾)」に埋葬され、陵戸(りょうこ/みささぎべ、陵守の世襲の古代賤民)5烟が充てられた。陵上には樹木が植えられたという。(『日本紀略』)
 その後、所在地については不明という。江戸時代、元禄年間(1688-1704)に幕府は調査を行うが確定しなかった。近代、1889年に現在地が治定されている。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』『洛西探訪』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都事典』『平成29年度 春期 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『新選組と幕末の京都』『京都の寺社505を歩く 下』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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野々村仁清の墓

境内の裏山に残る伽藍跡

伽藍跡

【参照】境内の裏山に隣接している村上天皇村上陵

【参照】村上天皇村上陵
妙光寺 〒616-8252 京都市右京区宇多野上ノ谷町20  075-463-0780
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