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宅間塚 (京都市右京区) grave mound of TAKUMA Shoga |
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宅間塚 | 宅間塚 |
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![]() 石標「法眼宅間勝賀終焉地」 ![]() 無縫塔(宅間塚) ![]() 碑 ![]() |
周山街道の傍ら三宝寺橋南詰に、鎌倉時代の絵仏師・宅間勝賀(たくま しょうが)にまつわる「法眼宅間勝賀終焉地」の石標が立てられている。 奥には卵塔婆の宅間塚(たくまづか)、隣接して碑があり、碑文も刻まれている。 ◆歴史年表 鎌倉時代、絵仏師・宅間勝賀は、この地で落馬し絶命したという。その後、石碑が立てられた。当初は、鳴滝近くにあったという。後、碑は失われた。 江戸時代、1679年、三宅高信という人が、新たに宅間碑を立てた。 近代、昭和期(1926-1989)初期、道路工事に伴い、碑は現在地に移された。 ◆宅間勝賀 鎌倉時代の絵仏師・宅間勝賀(たくま-しょうが、?-?)。澄賀。絵仏師・宅磨派の祖・宅磨為遠(ためとう)の子。1169年頃-1209年頃、神護寺・東寺の仏像制作などに携わる。宋画の要素を取り入れた仏画を描く。絵所の役に任じられ、法橋、法眼に叙せられた。宅間法眼と呼ばれた。代表作に東寺の絹本著色「十二天屛風」(国宝)など。 ◆宅間派 絵仏師の宅間派(宅磨派、託磨派)は、平安時代後期の宅磨為遠(たくま-ためとう、?-?)を祖とする。子・勝賀は京都、弟・為久は鎌倉で活躍した。派は室町時代に滅した。 ◆逸話 宅間勝賀に関する逸話がある。 宅間勝賀は、高山寺の明恵に帰依し、京都と栂尾を行き来した。明恵の法話を聴聞することも度々あった。 ある時、明恵に春日の神、住吉の神が降臨した。明恵だけが二神の姿を見ることができたという。勝賀は、二神の姿を絵に写したいと明恵に懇請する。だが、明恵は、常人が神の姿を見ると死ぬかもしれないと忠告する。勝賀はそれでも構わないと願った。 二神は勝賀の志に感じ入り姿を現した。勝賀は喜び、二神の姿を写し取る。また、勝賀は、明恵と二神が対話しているのを、盗み覗って筆写したともいう。 絵は完成し、勝賀は喜びに溢れ京都へ戻ろうとした。途中、鳴滝の地に差し掛かる。誤って落馬し、絶命したという。また、落雷にうたれ亡くなったともいう。仏神罰(冥罰)による死とされた。(『拾遺都名所図会』巻3) いま、高山寺に勝賀が描いた二神像が残されている。 ◆碑 現在、宅間勝賀の墓とされる無縫塔(宅間塚)(高さ87cm)が立つ。宝篋印塔の基礎の転用という。 その横に碑(江戸時代、1679年建立)、街道沿いに「法眼宅間勝賀終焉地」の石標が立つ。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 碑文、『京都市の地名』、『京都の伝説』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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