車折神社 (京都市右京区)
Kurumazaki-jinja Shrine 
車折神社 車折神社 
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大鳥居


社号柱


大鳥居、桔梗紋


大鳥居、丸に一つ引き








中門






拝所前の鳥居




拝所
 嵯峨野の車折神社(くるまざき じんじゃ)は、有栖(ありす)川の西にある。嵯峨野という地名は、すでに平安時代から使われていたという。愛宕山から北山付近の「さがしき(険しい)」地勢から名づけられたという。社は、かつて、「桜の宮」「五道冥官(ごどうみょうかん)社」、また、江戸時代には「桜大明神」などとも呼ばれたという。
 平安時代末期の儒学者・明経博士の清原頼業(きよはらのよりなり)を祭神として祀る。芸能神社は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祭神とする。
 神仏霊場会、91番、京都11番。 
 頼業は約束を違えなかったため、たとえ貸した金が返済されなくても、それに代わる金融の道が開けるとされる。商売繁盛、会社繁盛(売掛金回収、金融円滑)、金運・財運向上、学業成就、合格祈願、厄除、交通安全、安産。芸能神社は、諸芸上達、芸術才智、ヒット祈願、人気上昇など芸能関係者の篤い信仰を集める。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 かつてこの地は、清原氏(舟橋氏)の領地になっていた。
 平安時代、1189年、清原頼業没後、現在の神殿付近に墓所(廟)が造られ、頼業は埋葬された。霊廟は世に五道冥官降臨の地といわれた。さらに、頼業の法名「宝寿(ほうじゅ)院殿」に因み、菩提寺となる宝寿院が建立されている。天龍寺内の廟所を宝寿院と称したともいう。
 1190年頃、頼業の墓所に当社、車折神社が創建されたという。
 江戸時代、宝暦年間(1751-1763)、また1750年代、車折神社の現在の本殿などが造営された。その際には、大坂・曽根崎新地の講社からも、千石船により淀川を遡って当社に詣でたという。
 近代、荒廃した。
 1888年、日本画家・富岡鉄斎が宮司に就き復興する。 
 1910年、京福電鉄(四条大宮-嵐山)開通の際に、境内地を無償提供し車折神社駅を誘致する。
 現代、1988年、拝殿が建立された。
◆清原頼業
 平安時代後期の儒学者・清原頼業(きよはら の よりなり、1122-1189)。飛鳥時代の第40代・天武天皇皇子・舎人親王の子孫にあたるという。親王は『日本書紀』の編集を総裁している。頼業は、官職・大外記(だいげき、律令制の太政官に属し、詔勅の訂正、上奏文の起草、先例の勘考、儀式の執行などを行う)などを務めた。公卿・九条兼実、藤原頼長に認められる。頼長の推挙により大学直講(明経道の教官)に任ぜられた。のちに明経博士となる。明経道とは、日本律令制の大学寮で儒学を研究・教授した学科をいう。明経家、中興の祖とされている。
 清原家の一族としては、平安時代の歌人・官人で三十六歌仙の一人、清原元輔(908-990)、その娘で女流作家、歌人として名高い『枕草子』の作者・清少納言(966?-1025?)がいる。
◆富岡鉄斎  江戸時代末-近代の日本画家・富岡鉄斎(とみおか てっさい、1836-1924)。京都に生まれた。家は石門心学を家学とした。国学、漢学、仏教、詩文を学び、勤王家と親交があった。大和国石上(いそのかみ)神宮、和泉国大鳥神社、さらに車折神社の宮司(1888-1896)も任め、その復興に尽力した。教育者としても活躍した。作品に「旧蝦夷(えぞ)風俗図」など。後半生を過ごした旧宅は、京都府議会公舎(上京区)として残されている。
 境内には、鉄斎ゆかりの物が残されている。鉄斎筆の社号識(表裏参道)、本殿扁額、神社碑、生前用いていた筆2000本を納めた「筆塚」などがある。
◆車折 車折(くるまざき)の社名は、鎌倉時代、第88代・後嵯峨天皇が、嵐山大堰川へ行幸の際に、牛車に乗ってこの社前を通ろうとした。ところが、突然牛が動かなくなり、車の轅(ながえ、引棒)が折れたという。このため、「車折大明神」の神号、「正一位」の神号を贈られたことに由来するという。
 また、門前右側に「車前石(くるまざきいし)」があり、鎌倉時代、第90代・亀山天皇が嵐山への行幸の折、牛車が社の前に差し掛かると停車してしまった。車を牽いていた牛も地に伏して動かない。このため、「御くるまよりおりさせたまひぬ」として、石を「車前の石」と称したともいう。
◆宝寿院 平安時代、1189年、清原頼業没後、現在の神殿付近に墓所(廟)が造られ、頼業は埋葬された。さらに、頼業の法名「宝寿(ほうじゅ)院殿」に因み、菩提寺となる宝寿院が建立されている。
 宝寿院は、室町時代、1345年の足利尊氏による天龍寺建立により、その末寺となり、現在も社の南(嵯峨朝日町)に存在する。
◆祈念神石 願い事を、社務所で授与された小石「祈念神石」に念じる。石は持ち帰り、祈願成就した際には、石を新たに拾い、これを洗い清める。さらに、石に「お礼」と書き、あるいは祈願成就内容を記し、祈念神石とともに本社神前に返納する。
◆芸能神社 境内末社の芸能神社は、芸能道の祖神といわれる天宇受売命(あまのうずめのみこと)を祀る。芸能上達を祈願する人々の信仰篤い。
 例祭は4月10日、月次祭は毎月10日。
◆葵忠社 葵忠(きちゅう)社は、江戸時代-近代の福田(屋)理兵衛(1863-1872)を祀る。
 福田家の祖先は、清和源氏源満仲の孫・頼遠を名乗った。室町時代の初期、越後守元光により当地に土着したという。その後、文禄年間(1592-1596)以来、下嵯峨の郷士となる。
 理兵衛は、材木問屋を営み、総年寄りとなる。大火後の再興に必要な材木により富を得た。高瀬川の開削にも関わったという。幕末、勤皇の志高く、長州藩用達商人となる。吉田松陰、桂小五郎らにも資金提供している。1862年、理兵衛は長州軍が天龍寺、清凉寺、民家などを宿舎、本陣とした際には手配した。1863年、京都に残った小五郎、久坂玄瑞らを支援している。1864年、長州藩が天龍寺に陣を構えた際にも物資を支援した。蛤御門の変(禁門の変)では、子・信太郎ともに長州軍に加わる。戦に敗北すると妻子を残し長州に避難した。薩摩軍により家財道具は没収され、家は焼き払われた。その後、理兵衛は、萩・長州藩の士分となる。1867年王制復古後、1870年京都に戻る。1872年に萩で暗殺された。
 社は1915年、西半丁のところにあった福田家旧宅内(現在の穂積家)に祀られ、1935年に当社に遷されたものという。
◆落柿舎 境内北東に芭蕉・去来の句碑が立つ。かつて一時期、落柿舎が境内にあったという。芭蕉「ほととぎす 大竹やぶを もる月夜」。
◆建築 南より拝所、拝殿、本殿がある。拝殿は1988年建立された。銅板葺、総ヒノキ造。
◆文化財 近代日本画家で儒学者、車折神社の宮司も務めた富岡鉄斎(1837-1924)の作品、富士山の絵「望嶽図」など約100点を所蔵している。財団法人・車軒文庫により管理されている。作品は、春秋に予約制で公開されている。
◆絵馬 富岡鉄斎筆の絵馬がある。
◆祈念神石 社殿前に祈念神石といわれる石が積み上げられている。石には「祈願成就」などと書かれている。
 まず、小石(神石)を社務所で授与され、本殿前で願い事を祈願する。石は自宅に持ち帰り、神棚か高い位置にお札と共に置いて願掛けする。願いが成就すると、別の石にお礼を書いて神前に奉納する。小石もまたこの時に返却する。
 少なくとも江戸時代にはすでに行われていた慣わしという。商売繁盛、合格祈願などの信仰がある。
◆樹木 桜と紅葉の名所になっている。祭神・清原頼業は桜を愛したという。廟にも多くの桜が植えられ、桜の宮と呼ばれた。江戸時代には桜並木があったことから、桜大明神などとも呼ばれたという。
 境内には、文人画、平安朝の仏画、大和絵を描いた近代の日本画家・富田渓仙(1879-1936)が寄進した「渓仙桜」がある。
 ダイオウショウがある。
◆三船祭 大堰川(桂川)で行われる三船祭(5月第3日曜)は、平安時代、第59代・宇多上皇の舟遊びに由来しているという。ただ、祭りは昭和御大典(1928)より始まった。御座(ござ)船、龍頭船、鷁首(げきす)船、扇流し船など20数隻が出て、平安時代の王朝貴族の風情を再現する。三船(みふね)の名称は、平安、鎌倉時代の第80代・白河天皇が、漢詩、和歌、奏楽に長けたものを三隻の船に分乗させたことによる。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、節分祭(2月節分)、辰巳稲荷神社初午祭(2月初午の日)、入学祭(3月4日)、芸能神社例祭(4月10日)、葵忠社例祭(4月第3日曜日)、例祭(大祭)・水神社例祭(5月14日)、三船祭(5月第3日曜日)、夏越の大祓式(6月30日)、夏祭(8月14日)、万灯会(8月14日-16日)、重陽祭(9月9日)、七五三参り(11月)、火焚祭(11月23日)、冬至祭(12月冬至の日)、晦日の大祓式(12月31日)。
 月次祭(毎月4日、14日、24日)、芸能神社月次祭(毎月10日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都を歩く 50 嵐山』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 下』『京都美術の 新・古・今』『新選組と幕末の京都』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』『京都ご利益徹底ガイド』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 古社名刹巡礼の旅 28 嵯峨野と高雄』


  関連・周辺桂川・嵐山      関連・周辺正定院     周辺      関連鹿王院      関連落柿舎     関連是住院     関連富岡鉄斎邸跡(京都府議会公舎)       

拝殿




狛犬、砂岩

拝殿、山口れいき筆という。

拝殿

本殿、千木

八百萬(やおよろず)神社、本殿の奥(北)に祀られている。


祈願成就のお礼の石、これらの石は自宅、山、川、海などで自ら拾ってきたものに、「お礼」などと記されている。

手水舎



芸能神社、祭神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)、1957年、末社・地主神社より分祀され創建された。


芸能神社

芸能神社、朱塗りの玉垣、2000枚以上あるという。

芸能神社


水神社、祭神は「罔象女神」(みずはのめのかみ) かつて大堰川(桂川)は、現在の境内の付近まで流れがあったという。この地は清原氏の領地となっていた。洪水の災害が起きると、官吏である清原氏は、復旧工事のために氏人を選び、工事の監督を命じていたという。松尾大社付近、桂川の堤罧原堤(ふしはらつつみ)は、清原氏により築かれ、清原氏分家の伏原家の家領に分譲された。
 社は、室町時代、1473年まで境内に祀られていた。その後、境内にある末社・滄海神社に合祀された。1962年、現在地に社殿が建立されている。
 かつては、毎朝、この祠下にある浄水井から水を汲み、法寿殿(車折大神)にお供えしていたという。
 5月14日の例祭においては、三船祭斎行の奉告、水上行事の安全が祈願される。

愛宕神社

辰巳稲荷神社、祭神は、宇迦之御魂神、本社辰巳の方位に鎮座する。五穀豊穣、生業繁栄の守護神、例祭は初午の日、毎月午の日。

堀派祖霊社

大国主神社(大黒さま)、祭神は大国主大神、1957年勧請。

芸能道具塚(*塚は手扁がない)社、茶筅、毛筆、刷毛など納める、芸能上達 4月10日に祭礼。

祖霊社

葵忠(きちゅう)社、江戸時代から近代にかけての福田理兵衛を祀る。例祭(4月第3日曜日)。
 社は、大正期に西半丁のところにあった福田家旧宅内(現在の穂積家)に祀られていたものが、当社に遷されたものという。

清少納言霊社、清少納言は清原氏と同族とされている。


清めの社

天満神社(そらみつあまつかみのやしろ、天満天神社)、菅原道真とは関係ない。雷除け、農業、園芸の守護神。

晴明神社


滄海神社(弁天神社)、祭神は市杵島姫命、室町時代、1473年に創建された。滄海とは大海原のことで、渡来した水の神、弁財天を象徴している。室町時代創建の天龍寺末寺が廃寺となり、その守護神が現在地に遷座された。かつての祭神は弁才天だったが、近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、市杵島姫命を祭神とした。


地主(じぬし)神社、祭神は嵯峨天皇、かつてこの付近には、柳鶯寺という寺があったという。嵯峨天皇は行幸の際にこの寺で休んだ。後に、その縁により嵯峨天皇が祀られた。その後、寺は廃寺となり、当社境内に遷され、地主神社として祀られた。1961年に復興された。


渓仙桜


境内には「車前石 (くるまざきいし)」ゆかりか、奉納された大岩がいくつか置かれている。

「言の葉を千とせの後に伝へゆく筆のいさをはつきしともおもふ」、鉄斎の筆を納めた「筆塚」。珪質頁岩。 

舞の碑

【参照】有栖(ありす)川

【参照】渡月橋北詰西にある車折神社嵐山頓宮。

【参照】車折神社嵐山頓宮

【参照】車折神社嵐山頓宮

【参照】車折神社嵐山頓宮

【参照】車折神社嵐山頓宮、架かる石橋は、琴聴橋、駒留橋といわれ、仲国が小督の調べを聴いた処ともいう
車折神社 〒616-8343 京都市右京区嵯峨朝日町  075-861-0039  8:30-17:00
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