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| 坂本龍馬・中岡慎太郎像 (京都市東山区) Statue of Sakamoto,Ryoma and Nakaoka,Shintaro |
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| 坂本龍馬・中岡慎太郎像 | 坂本龍馬・中岡慎太郎像 |
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![]() 坂本龍馬・中岡慎太郎像 ![]() ![]() 碑文 ![]() ![]() 「坂本龍馬先生」 ![]() 「中岡慎太郎像先生」 ![]() 題字「吉田茂謹書」 ![]() 坂本龍馬像 ![]() 坂本龍馬像 ![]() 中岡慎太郎像 ![]() 中岡慎太郎像 ![]() |
円山公園内の高台一角に、京都市市街地を見下ろし、坂本龍馬・中岡慎太郎像(さかもと-りょうま・なかおか-しんたろう-ぞう)が立つ。 幕末期に、討幕の立役者の一人だった坂本龍馬、その盟友・中岡慎太郎が並ぶ巨大な像になっている。 ◆歴史年表 近代、1934年、初代の坂本龍馬・中岡慎太郎像が設置された。 第2次世界大戦(1939-1945)中に、像は金属供出で取り壊される。 現代、1962年、京都高知県人会初代会長・川本直水は、私財を投じて像を再建した。 ◆坂本 龍馬 江戸時代後期の尊攘派志士・坂本 龍馬(さかもと-りょうま、1835-1867)。本名は直陰、直柔(なおなり)、別名は才谷(さいだに)梅太郎、通称は龍馬。土佐(高知県)の生まれ。父・町人郷士・坂本八平、母・幸(こう)の次男。1846年、楠山(くすやま)塾に入門し、ほかの塾生との諍いにより退塾になった。1848年、城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場で小栗流剣術を修行した。旧6月3日、ペリー艦隊が黒船4隻を率いて浦賀沖に来航する。龍馬も品川海岸の警備に当たる。1853年、旧3月/旧4月中旬、江戸・北辰一刀流千葉定吉道場に剣術修行に出る。旧12月、兵学者・佐久間象山に入門し、西洋砲術を学ぶ。1854年、旧3月、「日米和親条約」が締結される。旧6月、帰郷し「小栗流和兵法十二箇条・二十五個条」を受けた。旧11月頃、土佐藩の画家・河田小龍から西洋事情を学ぶ。日本には大型船と操れる人材が必要だと諭された。1856年、旧8月、再び江戸・千葉道場に遊学し免許を得た。この頃、江戸で武市瑞山(半平太)、久坂玄瑞らを知り尊攘運動に加わる。1858年、旧1月、北辰一刀流長刀兵法目録の免許を受け、旧9月、土佐に帰国した。「安政の大獄」が起こる。1860年、旧3月、「桜田門外の変」が起こる。1861年、旧8月、武市らが結成した「土佐勤王党」に加盟し、出国した。 1862年、旧1月、武市の密書を持ち長州萩に久坂玄瑞を訪ね、草莽(そうもう、民間)の人々が立ち上がることを教えられる。旧3月、沢村惣之丞と共に土佐を脱藩した。九州、大坂、京都を経て江戸に出る。旧8月、千葉道場に滞在した。旧10月、千葉重太郎と共に、赤坂の軍艦奉行・勝海舟邸を訪ね弟子になり、航海術などを学ぶ。1863年、旧2月、勝の尽力により脱藩罪を赦免された。旧5月、海軍塾の資金依頼のために、越前福井藩を訪ねた。旧9月、土佐藩は勤王党弾圧を開始しており、武市らは投獄される。旧10月、神戸で勝の海軍塾・塾頭になる。旧12月、土佐藩の召喚令に従わず、再び脱藩の身になった。1864年、勝の主唱した海防の「神戸海軍操練所」の設立に尽力し、塾頭になる。旧4月、肥前国に横井小楠を訪ねた。旧8月、京都・薩摩藩邸で西郷隆盛と会見した。先の池田屋事件・禁門の変に操練所生徒が参加しており、旧10月、勝は失脚する。龍馬は薩摩藩の保護を受けた。旧11月、勝が軍艦奉行を免職になる。龍馬の身柄を薩摩藩に託した。この年、龍馬は楢崎お龍と知り合う。1865年、旧3月、海軍操練所が閉鎖になった。旧5月、大宰府で三条実美ら5卿に薩長同盟を説く。西郷と共に鹿児島へ初めて行く。長州で桂小五郎に薩長和解を説いた。旧閏5月、薩摩藩の援助の下で、長崎で株式会社の先駆・政治結社「亀山社中」を設立した。洋式銃砲の取り引きを行なう。下関で桂と会談し、薩長同盟を説く。旧6月下旬、中岡慎太郎と共に京都・薩摩藩邸で西郷と会談した。1866年、土佐藩は長崎に貿易のための「土佐商会」を設立した。旧1月21日(新3月7日)、京都で龍馬は中岡と協力し、対立していた長州藩・薩摩藩間の「薩長同盟」締結に尽力した。以後の倒幕への布石になる。旧1月24日(新3月10日)、龍馬は伏見の旅館「寺田屋」で伏見奉行所幕史に襲われ負傷する。寺田屋養女・お龍、大山彦八、三吉慎蔵らの機転により薩摩藩邸に逃げ込み難を免れた。(寺田屋事件)。旧2月、桂の求めで薩長同盟の保証人になった。旧3月、傷の療養も兼ね、お龍との新婚旅行に薩摩藩船で大坂から薩摩の霧島山へ向かった。旧7月、第二次長州征討(四境戦争)では長州軍を応援し、薩摩藩名義で購入したユニオン号を操り下関海戦に参戦した。高杉晋作と会談する。1867年、旧1月、長崎の「土佐商会」に出張の藩参政・後藤象二郎と会談した。土佐藩は藩主・山内容堂の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を模索し、龍馬を土佐藩に引き込む。 旧4月上旬、藩は龍馬の脱藩の罪を許した。亀山社中を土佐藩庇護のもとに「土佐海援隊」に改め、龍馬は海援隊長になる。紀州藩との「いろは丸事件」を解決する。旧5月、京都で「薩土密約(薩土討幕の密約)」の締結に立ち会う。旧6月頃より、薩摩藩・長州藩は武力討幕を模索しており、土佐藩はこの回避のための策を龍馬に求めた。旧6月9日、長崎からの土佐藩船中で、後藤と大政奉還・公議政治などを原案にする新国家構想「船中八策」を起草した。旧6月22日、京都で薩摩の西郷・大久保利通、土佐の後藤・福岡孝弟らとの間の「薩土盟約」締結で中岡と立ち会う。(旧10月破棄)。旧9月、脱藩以来、最初で最後の帰郷で実家に帰る。旧10月、後藤は前土佐藩主・山内に進言し、山内は「船中八策」案を元に、15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白した。旧10月14日(新11月9日)、朝廷も許可し政権の朝廷への奉還が実現した。龍馬は新政府の職制案「新官制案」を作成する。その後、土佐、長崎、福井などに移る。旧11月上旬、「新政府綱領八策」を起草した。旧11月15日(新12月10日)夜、京都「近江屋」で中岡とともに暗殺された。この日は龍馬の誕生日だった。幕府見廻組刺客の手によるともいう。(近江屋事件)。32歳。 1869年、正四位追贈。松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁(忠寛)、西郷隆盛らと親交した。 墓は霊山墓地(東山区)にある。 ◆中岡 慎太郎 江戸時代後期の尊攘派志士・中岡 慎太郎(なかおか-しんたろう、1836-1867)。男性。名は道正(みちまさ)、光次、号は迂山、変名は大山彦太郎、横山勘蔵、石川清之助など。土佐(高知県)の生まれ。父・北川郷大庄屋・中岡小伝次、母・うし。1855年、田野学館で武市半平太(瑞山)と出会い政治活動に目覚めた。武市の道場に入門し、坂本龍馬を知る。土佐藩士・間崎滄浪(まざき-そうろう)に経史を学ぶ。1857年、北川郷大庄屋見習いとして、北川郷の政務を行った。飢饉対策として村人にゆず栽培をすすめたという。1861年、旧8月、尊王攘夷運動を目的とする武市の土佐勤王党に入る。1862年、五十人組結成に参加し伍長になった。江戸で藩主・山内豊信の警護に当たった。1863年、帰郷し、藩論が公武合体に傾き、尊攘派の弾圧により、旧9月、脱藩した。長州で三条実美ら5卿の護衛に当たる。1864年、上洛し、旧7月、長州軍として禁門の変(蛤御門の変)に参加する。敗れ負傷した。長州藩に逃れ、忠勇隊隊長になる。以来、各所で薩長の和解に尽力した。 旧12月4日、筑前藩士・早川勇の従者「寺石貫夫」と名乗り、小倉の西郷隆盛と面談し、薩長連合成立への第一歩になる。1866年、旧1月21日(新暦3月7日)、京都・薩摩藩邸で龍馬とともに「薩長同盟」締結に立ち合う。慎太郎は三条実美と岩倉具視、西郷と高杉晋作を連携させた。旧10月、土佐の同志に宛て第二回目の「時勢論」(「窃に知己に示すの論」)を執筆し、大政奉還論を説く。旧11月、土佐の同志に宛て第三回目の「時勢論」(「愚論窃に知己の人に示す」)を執筆し、軍制改革案などを示した。1867年、旧4月、脱藩の罪を許され、旧5月21日、京都で西郷、小松帯刀、乾退助らの間で「薩土密約(薩土討幕の密約)」が締結され立ち会う。旧6月22日、京都・薩摩藩邸で西郷らとの間の「薩土盟約」に龍馬と立ち会う。(旧10月破棄)。白川の土佐藩邸を本陣とし陸援隊を結成した。夏、第四回目の「時勢論」執筆し、武力討幕を説き同士たちの決起を促した。旧7月、土佐藩より遊軍の陸援隊隊長に任命される。旧9月、土佐の大石弥太郎に軍制改革を説いた「兵談」を書き送る。旧11月15日(新12月10日)、龍馬とともに京都「近江屋」で襲われ重症になる。旧17日、亡くなった。(近江屋事件)。著『時勢論』(1867)。30歳。 墓は霊山墓地(東山区)にある。 ◆菊池 一雄 近現代の彫刻家・菊池 一雄(きくち-かずお、1908-1985)。男性。京都市の生まれ。父・日本画家・菊池契月の長男。1928年、第一高等学校文科在学中に、藤川勇造につき彫刻を学び、小林万吾の同舟社で石膏デッサンを学ぶ。1929年、創設された二科技塾で塑像を始めた。1930年、17回二科展に「トルソ」「カリスト君」が初入選した。1932年、東京大学文学部美学美術史科を卒業する。二科展への出品を続け、1934年、21回二科展に「A子像」で特待を受賞する。1935年、故・藤川勇造門下で結成された新彫塑協会に早川巍一郎らと参加し、1936年、1回展に「ミューズの女」などを発表した。渡欧し、パリでシャルル・デスピオ、ロベール・ブレリックに師事し、1937年、サロン・ドートンヌ展に「花束」が入選する。1939年、帰国し、1940年、5回新制作派協会展に滞欧作「ギリシャの男」「裸婦像」など4点を招待出品し、同会会員になる。1946年、京都に移り、1947年、京都市立美術専門学校彫刻科教授に就任した。1948年、12回新制作派展に「青年像」を発表し、1949年、同作で第1回毎日美術賞を受賞した。刊行した著書『ロダン』は、1950年度、毎日出版文化賞を受ける。1952年-1976年、東京芸術大学教授をつとめた。1958年、第1回高村光太郎賞を受賞した。1967年、9回アントワープ国際彫刻ビエンナーレ展に出品する。1972年、第1回平櫛田中賞を受賞した。1976年、神奈川県立近代美術館・京都市美術館で退官記念回顧展が開催される。1982年、第10回長野市野外彫刻賞を「転生」で受賞する。1983年、創設された本郷新賞の運営委員、選考委員をつとめた。作品集『菊池一雄』(1976)。76歳。 作品としてはほかに、「坐」(1964)、「アトリエの女王様」(1975)、記念像として大作「自由の群像」(1955、東京・千鳥ケ渕公園)、「原爆の子の群像」(1958、広島平和公園)、「坂本龍馬・中岡慎太郎」(1962、京都円山公園)、「海の男たち」(1970、神奈川県三浦半島観音崎)、「平和の群像-あけぼの-」(1983、高松市中央公園)などがある。 戦後の具象彫刻を代表した。 ◆川本 直水 近現代の実業家・川本 直水(かわもと-なおみ、1908-1990)。男性。高知県の生まれ。1938年、京都のタクシー業界をまとめ京聯自動車、京都タクシーを設立する。1944年、丹波交通を設立した。1947年、京都高知県人会を結成し初代会長になった。1948年 、京聯自動車は保津川遊船を買収し、「曳上げ舟」作業を木炭トラック車による回送(嵐山-亀岡間)により効率化を図る。1957年、丹波交通は京都交通に商号変更する。1958年、五智山蓮華寺(右京区)の山上石仏群を現境内に移設する。1962年、円山公園の坂本龍馬・中岡慎太郎像を再建した。1964年、保津川遊船を阪急へ売却する。大阪浪速交通・東京観光バスを売却した。1960年代、名鉄が京都観光バスなどを買収した。1967年、京都交通が中丹交通、舞鶴交通を合併する。1971年、創業の地である西ノ京円町から撤退した。1989年、広島バスと共同で「SANYO EXPRESS・もみじ号」(京都祇園 - 広島間高速バス)を運行した。著『世界の観光』『坂本龍馬 』など。81歳。 京聯・京都交通の創業者になる。観光・輸送事業に着目し、観光バス会社を立ち上げ、一時は巨大企業グループ・大都産業を率いた。東京のはとバスなど、大型貸切バス営業を定着させた。比叡山・東山の有料ドライブウェイ整備、清水寺バス駐車場・京都市駐車場設置などに取り組む。日本最初の長距離バス・日本急行バスなども手掛けたという。観光としての保津川下りの基盤を築いた。 ◆像 近代、1934年に初代の坂本龍馬・中岡慎太郎像が設置されている。その後、第2次世界大戦(1939-1945)中に、金属供出により取り壊されている。 現代、1962年に、京都高知県人会初代会長・川本直水(1908-1990)は、私財を投じて像を再建した。なお、京都霊山護国神社(東山区)の境内墓地には、同型で小振りな坂本龍馬・中岡慎太郎像が立てられている。 銅像建立者:川本直水(1908-1990)、原型製作者:菊池一雄(1908-1985)、玉垣寄贈者:高知県知事・溝渕増己(1900-1984)、題字:吉田茂(1878-1967)、鋳物造:株高橋鋳工場。 銘文には次のようにある。 「贈正四位坂本龍馬先生贈正四位中岡慎太郎先生銅像銘 土佐藩士坂本竜馬先生 中岡慎太郎先生は維新回天の偉業達成の為に最も重要な事績を遺しながら 惜しくも大政奉還の後僅かに三旬を経た慶応三年一月十五日 旧幕府士の為に京都に斃れた 坂本先生は 特に海外の情勢に鑑み乍海軍操練所の設立につくし隊長となり 更に西郷 木戸の間を斡旋して薩長両藩を連合させ 藩主山内容堂を動かして慶応三年十月十四日大政奉還の建白を実現せしめた 先生がかつて長崎に於いて後藤象二郎に示した八策が 昭和天皇によって宣布せられた五ヶ条の御誓文の基底をなしたことは 即ち先生の卓越した経国の理念を知るに足るものである 中岡先生もまた陸援隊長となり坂本先生と共に薩長土同盟の達成を見るに至らしめた 両先生は単なる軍国主義者ではなく 始めてわが国議会政治の確立を唱え 外交の重要性を力説して 海運貿易の発達に伴う内外経済の平衡と文明開化を熱望し 以て国勢の興隆に率先推進した大先覚者であった 殊に坂本先生は その平日愛誦した「天我レニ自由ヲ与ヘヨ 然ラズンバ死ヲ授ケヨ」と自作の詩の一説にある如く わが国に於ける自由主義の先駆をなし その影響が 最も強く板垣退助に及んでいることは顕著な事実である しかるに 両先生の健軍の趣意は昭和軍閥にゆがめられ 銅像も戦時中に撤去の厄に遇った 坂本先生は三十二才 中岡先生は二十九才をもって賊害されたが その不朽の鴻業と高邁なる識見には永く萬人の軌範と仰ぐべきところであるところを確信して こゝに銅像を再建し顕彰の実を挙げんとするものである 昭和三十七年(1962年)五月三日 撰文 京都高知県会長 川本直水」 ◆京都高知県人会 近代、1906年に京都在住の高知県出身者有志が、明治維新史蹟である「旧霊山(りょうぜん)官修墳墓」で40年祭を斎行し、現在の墓前祭の始まりになった。 1916年より毎年、坂本龍馬・中岡慎太郎墓前祭と郷土出身志士の招魂祭を、両援会(坂本龍馬・中岡慎太郎両先生を顕彰奉賛する有志の集まり)・黒潮会(県人会の前身)が主催した。 現代、1947年11月15日に「京都高知県人会」が発足し、初代会長・川本直水が就いた。 ◆年間行事 京都高知県人会による銅像の清掃活動(3月第1日曜日) ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「京都霊山護国神社」、ウェブサイト「高知県立坂本龍馬記念館」、ウェブサイト「中岡慎太郎館」、ウェブサイト「北海道坂本龍馬記念館」、ウェブサイト「東文研アーカイブデータベース」、ウェブサイト「京都高知県人会」、ウェブサイト「京都・亀岡保津川下り」、ウェブサイト「京都交通(旧)」、ウェブサイト「コトバンク」 |
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