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| 中井弘の像 (京都市下京区) Statue of Nakai,Hiroshi |
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| 中井弘の像 | 中井弘の像 |
![]() 中井弘之像 ![]() 中井弘之像 ![]() 「櫻洲山人中井弘之像」 ![]() 碑文 ![]() 「昭和四十九年三月吉日 中井きせ 弘子 建立」 ![]() 胸像制作者名 |
円山公園内に「中井弘之像(なかい-ひろし-の-ぞう)」が立てられている。 中井は近代の政治家・外交官であり、駐日英国公使・パークス襲撃事件にも関わった。 ◆歴史年表 近代、明治期(1868-1912)/1911年?、像が建立されたとみられる。 第二次世界大戦(1939-1945)中、金属供出で像は失われたとみられる。 1964年、3月、円山公園内に像が、中井きせ・弘子により再建立された。 11月10日、銘板が加えられた。 ◆中井 弘 江戸時代後期-近代の武士・外交官・政治家・中井 弘(なかい-ひろし/ひろむ、1838-1894)。幼名は休次郎、休之進。号は桜洲(おうしゅう)、桜洲山人、別名は弘三、鮫島雲城、後藤休次郎、田中幸介など。薩摩国(鹿児島県)平の馬の生まれ。父・薩摩藩藩士・横山休左衛門(詠介)の長男。1852年、父は遠島になり、休次郎は元服し休之進を名乗った。1853年、横山家はお家取り潰しになる。藩校の造士館に学ぶ。薩摩鹿児島藩士になり、安政年間(1855-1860)、脱藩し土佐藩に行く。1856年、18歳で京都に入る。後藤象二郎・坂本龍馬らと知り合う。1857年、長崎の五代才助を頼った。1859年、江戸に入る。1860年、江戸・薩摩藩邸に拘束され、鹿児島に檻送された。1861年-1862年、鹿児島・谷山の獄に入牢された。1863年、大赦により鹿児島を出て長崎、京都に入る。1864年、京都での志士活動により幕吏に追われる。五代を介し宇和島藩主・伊達宗城の庇護のもと、藩の周旋役として京都で活動した。1866年、旧10月、幕吏から逃れるため、土佐藩士・結城幸安(後に実業家・政治家)とともにイギリスへ遊学(密航)した。1867年、帰国し、龍馬・象二郎らと協力し「船中八策」の構想に参加した。大政奉還建白書作成にも加わった。1868年、1月、外国事務各国公使応接掛になる。3月、イギリス公使・パークス一行の護衛として襲撃犯の一人を斬る。(パークス襲撃事件)。この年、中井家を興し、中井弘蔵と名乗った。1869年、全ての職を辞し鹿児島に帰郷した。父を喜界島より迎え、横山家を再興する。1870年、上京し、大久保利通、西郷従道らと廃藩置県を協議した。1871年、西郷隆盛が率いた御新兵の軍曹になり上京し、兵部省に入る。1872年、左院四等議官に任じられた。1873年、4月、岩倉使節団を追いパリで合流し、木戸孝允と会い、イタリア各地を視察した。12月、ヨーロッパを発ちアメリカ合衆国を経由して帰国する。1874年、10月、工部省調査のため駐イギリス公使館一等書記生を務めた。1876年、5月、帰国し、7月、工部省に入省した。1879年、9月、権大書記官になる。11月、外務省御用掛を兼任した。1882年、9月、工部省大書記官になった。1883年、11月、鹿鳴館が開館し、その命名者になる。1884年-1890年、第3代・滋賀県知事に就任する。県下で初めて商業学校を設立し、琵琶疏水工事事業(1885-1890)を進める。貴族院議員を歴任した。1890年、滋賀県知事を辞し、元老院議官になった。1893年-1894年、第5代・京都府知事に就任した。京都市長を兼任する。平安奠都千百年紀念祭に際し、第4回内国勧業博覧会(1895)を京都に誘致した。平安神宮造営(1895)、京都舞鶴間鉄道の建設に尽力し、志半ばで没した。1894年、正三位勲二等に叙された。著『漫遊記程』など。57歳。 書家としても知られた。「鹿鳴館」の名付け親になる。『詩経』の鹿鳴篇「小雅・鹿鳴」に因み「群臣嘉賓(ぐんしん-かひん)を招く場」の意味になる。 墓は東福寺・即宗院(東山区)にある。 ◆胸像 胸像は、近代、明治期(1868-1912)に建立され、第二次世界大戦(1939-1945)中に、金属供出で像は一度失われた。その後、現代、1964年に親族により再像・再建されたとみられる。また、その後、1967年に再建立された可能性がある。 ◈中井弘の胸像正面(北側)の銘板には、「櫻洲山人(おうしゅう-さんじん ) 中井弘之像(なかい-ひろし-の-ぞう)、左側に小さく「〇永?〇庵? 題」と見える。「櫻洲山人」は中井弘の号の一つだった。揮毫者は崩し字のため不明。 背面(南側)に「昭和三十九年(1964年)三月吉日 中井きせ 弘子 建立」とある。 両人は中井弘の三男・松太郎の娘という。像の背面に「〇市作 1964」と、像の制作者名2文字が刻まれている。現代、1964年に造像され、像が再建立されたとみられる。制作者の氏名は不明。 なお、正面の碑文には「昭和四十二年(1967年)十二月一日」と記されている。1967年12月1日になって、碑文の銘板が加えられるか、この年に像が再建立されたのかもしれない。 ◈碑文には「君は天保九年(1838年)鹿児島に生る/十八歳京に上洛/更らに英国に留学す/安政二年(1855年)帰朝するや/外国事務副監督として活躍せり/明治元年(1868年)二月新帝(第122代・明治天皇)初めて諸外国公使謁見の際/英国公使パークス卿攘夷浪士に襲わるるを身を以て救ふ/十七年(1884年)滋賀県知事となり/琵琶湖疏水事業を完成し/廿六年(1893年)京都府知事となり/内国勧業博覧会を開催し/又平安神宮を造営す/明治廿七年(1894年)十月十日薨ぜらる/行年五十七才/故人の徳を追慕し/聊(いささ)か茲(ここ)に功業を録するものなり 昭和四十二年(1967年)十二月一日 〇〇〇永? 九十三 花押」 撰文者については不明。 ◆パークス襲撃事件 近代、1868年2月(慶応4年1月)、明治新政府は、「宇内之公法(国際法)」に基づく外交を執り行うことを宣言した。3月にイギリス・フランス・オランダ各国公使が、第122代・明治天皇天皇(1852-1912)に謁見することを布告した。 1868年3月23日(慶応4年2月30日)、駐日イギリス公使・ハリー・パークス(1828-1885)の隊列は、宿泊所していた知恩院(東山区)から出発し、天皇謁見のために京都御所(上京区)に向かった。先頭が鴨川東の弁財天町(上京区)に差し掛かり、曲がろうとした時、刺客2人が左右の民家から躍り出た。護衛していた英国公使館付騎兵を襲った。応戦した護衛兵10人ほどが負傷し、幸いにもパークスは無事だった。刺客1人の勤王志士・朱雀操(すざく-みさお、?-1868)はパークスの傍らで護衛にあたっていた後藤象二郎(1838-1897)らによりその場で斬られた。 当日、中井弘(1838-1894)もパークス一行の護衛の任を担っていた。最初に中井が朱雀と斬り合いになり、中井は頭部に傷を負っている。中井は朱雀の胸部を刺し、駆けつけた後藤が朱雀を斬り、倒れたところで中井が首を刎ねた。もう1人の刺客・三枝蓊(さえぐさ-しげる、1840-1868)はその場で捕縛された。パークス一行は負傷者の手当のため、この日の参内を中止し知恩院へ引き上げている。 事件の翌日3月24日に、明治新政府はパークス宛の書翰を発出し、事件について謝罪する。襲撃関係者の厳罰・イギリス側関係者への賠償金の支払いを約束した。別の書面により改めて、パークスに対して御所への参内を再要請した。襲撃事件から3日後の3月25日に、パークスは天皇への謁見を果たしている。 事件後、後藤と中井はパークスらを救った功績により、イギリス・ビクトリア女王(1819-1901)から宝刀を贈呈されたという。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 碑文、『京都大事典』、『中井桜洲』、ウェブサイト「レファレンス協同データベース」、ウェブサイト「コトバンク」 |