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| 働く少年の像 (京都市東山区) Statue of a Working Boy |
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| 働く少年の像 | 働く少年の像 |
![]() ![]() 「働く少年の像 京都市名誉市民 牧野 虎次 書」 ![]() ![]() ![]() 「1958 響子」 ![]() 副碑、銘板 ![]() 銘文 ![]() 銘板・銘文(1982) |
円山公園内に「働く少年の像」が立てられている。少年が新聞配達をする姿が表現されている。 ◆歴史年表 現代、1961年、11月17日、京都で「働く少年をたたえる会」が発足した。 1962年、11月3日、「働く少年をたたえる会」により、円山公園内に「働く少年の像」の除幕式が行われた。朝倉響子の作による。 1982年、6月21日、銅像標識台座の除幕式が行われる。 1999年、3月、銅像標識の新銘板の除幕式が催された。 ◆牧野 虎次 近現代の教育・宗教家・社会事業家・牧野 虎次(まきの-とらじ、1871-1964)。男性。筆名は朝陽学人。近江(滋賀県)の生まれ。父・安良、母・寿子(裏千家の茶人)の2男。1885年、官立大阪大学分校に入り中途退学し、1887年、同志社英学校に入学した。新島襄の直弟子になる。金森通倫(みちとも)から受洗した。1892年、同志社普通学校の卒業後、1895年、教誨師になる。熊本東亜学館教師、同志社予備校寮長、北海道釧路集治監(刑務所)教誨師になる。(北海道バンド系)。政府の方針転換により連袂(れんべい、複数人での行動)辞職し、土佐基督教会伝道師などを歴任した。渡米し、1902年、エール大学神学校を卒業する。その後、『基督教世界』の編集、1903年、京都四条教会牧師、1909年、欧米各国の宗教界・社会事業を視察する。1916年、大阪・日本組合教会幹事、共励会、1917年以降、内務省嘱託などを歴任した。1922年、満鉄初代社会課長、1925年、大阪府社会課嘱託、1931年、同志社大学講師になる。文学部神学科内に専攻の社会事業学を設置し、社会奉仕活動を展開した。1933年、東京家庭学校校長に就く。1936年、同志社総長事務扱、1938年、同志社大学長になった。1941年-1947年、第11代総長に就任する。戦時下で、軍部・官憲の弾圧を受け、文学部東亜研究所・工業専門学校を設けて乗り切る。戦後、ホノルル・マキキ聖城教会牧師、シカゴ基督教会牧師になった。1947年、総長辞任の慰労金をもとに奨学金を創設した。京都府社会福祉協議会会長、1948年、京都府教育委員会委員長になった。1952年、 藍綬褒章を受章する。1954年、京都市名誉市民に選ばれる。1958年、同志社大学名誉文化博士を授与された。1964年、正五位勲三等瑞宝章を受章した。著『旧新約全書総論』『基督の人訓』など。92歳。 青年時代から社会事業に尽力した。戦後、世界平和を説き世界連邦建設同盟京都連合会長、国際宗教同志会会長として活躍する。米国政府の永久市民権を与えられた。 ◆千 玄室 近現代の茶道家・千 玄室(せん-げんしつ、1923-2025)。男性。幼名は政興。汎叟宗室。斎号は鵬雲斎、若宗匠時代は宗興。14世家元・淡々斎千(碩叟)宗室の長男。1941年、同志社中学校の卒業後、同志社大学予科に入学した。1943年、学徒出陣により第14期海軍予備学生として大日本帝国海軍に入隊する。舞鶴の海兵団、土浦海軍航空隊、徳島海軍航空隊に転属し海軍少尉に任官された。1945年、特別攻撃隊に志願する。8月15日、終戦になり、10月、復員し同志社大学に復学した。1946年、同志社大学法経学部経済学科を卒業する。ハワイ大学で美学を専攻し、人文博士号を取得した。1947年、京都第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)茶儀科嘱託講師になる。1949年、大徳寺管長・後藤瑞巌老大師に付く。参禅得度し、斎号鵬雲斎を授けられる。虚心庵住職になる。1950年、ハワイ大学に修学した。1959年、日本青年会議所会頭に就任する。1964年、父・宗室の死去により、15代・裏千家今日庵家元宗室を襲名した。1989年、文化功労者に選定された。1991年、中国・南開大学で哲学博士号を取得した。1993年、立命館大学客員教授に就任する。1997年、文化勲章を受章した。2002年、長男に家元を継承し、玄室に改名した。2008年、ソウル・中央大学校で文学博士号を取得する。2012年、ユネスコ親善大使、2017年、2025年の国際博覧会誘致特使になった。著『茶の精神』『茶の真諦』など多数。102歳。 国内のみならず茶道文化の普及発展に努めた。特攻隊生き残りとして、「一盌(いちわん)からピースフルネスを」の言葉を掲げ、平和活動・国際交流に尽力した。50数カ国を訪問し、フランス政府・コマンドール芸術文化勲章など各国から勲章を贈られた。 ◆朝倉 響子 近現代の彫刻家・朝倉 響子(あさくら-きょうこ、1925-2016)。女性。本名は朝倉矜子。東京の生まれ。父・彫刻家・朝倉文夫の2女。姉・日本画家・舞台美術家・朝倉摂(本名は富沢摂)。父の方針により学校へは通わず、義務教育内容は家庭教師より教わる。はじめは姉とともに絵を描き、後に彫刻を制作した。1939年、東京府美術館で開催された第12回「朝倉彫塑塾展覧会」へ「習作」5点を出品する。1942年、第5回新文展に「望」で初入選し、1946年、第2回日展に「晨」で特選を受賞した。以後、1947年、1950年、1951年、特選を受賞する。1952年、第8回展、1957年、第13回展で審査員を務める。出品作はいずれも女性であり、多くは裸体立像だった。1954年、第1回現代日本美術展へ「首」を出品し、以後も8回展(1968年)まで毎回出品した。1958年、「新聞を配る少年保護育成の会」の依頼により約1年をかけ「新聞配達の少年像」を制作した。像は東京・有栖川宮記念公園に設置された。1959年、第5回日本国際美術展へ「男の顔」を出品し、以後、9回展(1967年)まで毎回出品する。1960年、本郷千駄木町にアトリエを新設した。1961年/1961年、文藝春秋画廊で初の個展を開催し、形ではなく「意味」の造形化を試みた。1965年、朝日新聞社主催の第16回選抜秀作美術展に「ともえさん」(第6回現代日本美術展、1964年)を選抜出品し、文部省買上になる。1967年、ギャラリー・キューブで個展開催し、石彫・ブロンズによる作品10余点を出品し、3点のトルソ(胴体)では形態の単純化・抽象化が見られた。1960年代後半頃より、作品に着衣のものが多く見られる。1971年、第2回現代国際彫刻展に「女」を招待出品した。1973年、ギャラリー・ユニバースで個展を開催し、着衣の女性像「WOMAN」など18点を発表する。1970年代後半頃より、モデルの写真を撮り、写真からの造形化を試みた。1979年、「F(後に「憩う」と改題)」で第7回長野市野外彫刻賞を受賞する。1982年、前年の個展で発表した「ニケ(NIKE)」で第13回中原悌二郎賞優秀賞を受賞した。2000年、大分県・朝倉文夫記念文化ホールでの回顧展「愛の園生 朝倉文夫記念公園開園10周年記念 朝倉響子展」が開催された。2016年、没後に初の父娘三人展「朝倉文夫 摂 響子 三人展」が東京・朝倉彫塑館で開催された。作品集『朝倉響子彫塑集 光と波と』『Kyoko』。90歳。 野外設置の作品も多い。主な作品に「WOMAN」(町田駅北口)、「ふたり」(仙台市・西公園)、「フィオーナとアリアン」(東京・教育の森公園)、「マリとシェリー」(東京芸術劇場)などがある。 ◆働く少年の像 現代、1962年11月3日に、京都の円山公園で「働く少年の像」除幕式が行われた。前年に発足した「働く少年をたたえる会」(後に社団法人)が建立した。彫刻家・朝倉響子(1925-2016)の作による。像には、「1958 響子」と刻まれ、1958年に制作されている。その後、1982年6月21日に銅像標識台座の除幕式が行われる。1999年3月には、銅像標識の新銘板除幕式が催された。 1969年以来、同会により像前で「銅像まつり」などが催されていた。 ◈像の南側左脇の銘文には 「この像は、働く少年少女たちに仕事への誇りと責任を、大人たちには彼らへの愛情と理解をと呼びかけています。人生の大切な時期を自分自身の力で、切りひらこうとしている彼らを励まし、彼らの健やかな成長を願い、私たちは育成に努めてきました。多くの皆様の理解と協力をいただき、昭和36年(1961年)に結成された当会にこれからも皆様のご支援をお願いいたします。 社団法人 働く少年をたたえる会 会長 千玄室こ」とある。 ◈像の北側の台座銘板には 「この像を建てたわけ 雨にも風にも負けないで元気に新聞を配る少年たちそれは働く少年の象徴です/その清純な姿が朝倉響子先生の手によって表現されました/この像は/少年たちには仕事への誇りと責任を/おとなたちには働く少年への深い愛情と理解をと呼びかけています 昭和三十七年(1982年)十一月三日 働く少年をたたえる会 働く少年をたたえる会副会長 花田辰信 書」とある。 ◆働く少年をたたえる会 現代、1961年11月17日に、京都の「働く少年をたたえる会」初代会長・牧野虎次郎(1871-1964)、理事長・千宗興(裏千家千玄室)(-2025)により発足した。 翌1962年11月3日に、円山公園内で「働く少年の像除幕式」が行われている。1967年5月3日には「第1回奨学金給付」が実施され、以後毎年、年3回に分けて実施された。1969年3月23日には、「働く優良少年表彰式」が像前で行われ、以後、「銅像まつり」が毎年開催された。また、創立周年記念式典は度々催されていた。 1970年2月14日に、会は社団法人として京都府より許可される。1971年12月20日に、会の広報誌「若い京都」創刊された。1974年2月1日には、本部事務所(上京区新町通丸太町上ル)開設される。1982年3月8日には、会は労働大臣表彰を受賞した。同年6月21日に、銅像標識台座除幕式が行われている。1999年11月3日に、銅像祭り・銅像標識の新銘板除幕式が催された。 ◆高崎節子 新聞配達少年像の建立を最初に提唱したのは労働省官僚・高崎節子(1910-1973)だった。高崎は、元教師であり、小説家でもあった。現代、1948年から労働省に入り、戦後の「混血児」、人身売買、女性・児童労働、学校・教育問題などに取り組む。 1955年に高崎は、日本から諸外国への移民問題・女性・児童労働環境視察のためにブラジルを視察する。現地で新聞配達の少年銅像が建てられているのを知った。当時の日本では、家族の家計を助けるために、新聞配達の大部分は18歳未満の少年たちが担っていた。そのため、休日労働、深夜業、学業問題などが指摘されていた。 1956年11月に、東京婦人少年室は東京都新聞販売同業組合と合同で、第1回「新聞を配る少年の集い」を都内の少年配達員6000人を招き開催している。 日本新聞販売協会専務理事・花田辰信(?-?)は、高崎の新聞配達少年銅像建設に賛同し、日販協第8回理事会でこの件を提案し可決した。1957年4月に、高崎は「新聞を配る少年保護育成の会」を設立し、常任相談役として新聞配達少年の労働条件改善・全国での銅像建立に取り組んだ。1958年5月に、「新聞少年の像」を東京・有栖川宮記念公園(港区)に建立している。その後は、配達労力軽減のため夕刊紙の休刊を訴えた。1964年頃から日曜夕刊紙が休刊になっている。当時、高崎は「新聞のおばさん」と呼ばれていたという。 ◈像制作者の彫刻家・朝倉響子(1925-2016)は、像制作の思いを語っている。 「“配達少年”の少年らしい明るい健康さと働く真剣さを強調したい。それを見て少年たちが励まされるようなものにしたい。今まで“えらい人”の銅像はあったが、働く庶民の姿を街頭に建てた例は少ない。その意味でも新しいものを生み出したい」(朝日新聞朝刊 1957年5月27日) 像は、少年が野球帽に半袖半ズボン姿に襷掛けで、左肩に新聞の束を下げ配達している姿を現している。額からは一筋の汗が流れ落ちている。その後、朝倉作の同型の像が岡山市、京都市、広島市、神戸市などにも立てられたという。 なお、同時期に、「新聞を配る少年を讃たたえる歌」の歌詞も一般募集されている。審査員は西条八十(やそ、1892-1970、サトウハチロー(1903-1973)らであり、作曲は富田勲(1932-2016)だった。 日本新聞博物館(横浜市)には、「新聞少年の像」が現代、2004年に寄贈されている。この像は彫刻家・翁朝盛(おきな-ちょうせい/あさもり、1906-1968)の作だった。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都大事典』、『同志社人脈』、ウェブサイト「同志社人物誌-同志社大学」、ウェブサイト「新聞少年の像 -東京都港区」、ウェブサイト「朝日新聞 2025年11月27日」、ウェブサイト「東文研アーカイブデータベース」、ウェブサイト「創立50周年記念式典の式次第 - 花柳喜久苗」、ウェブサイト「花乱社」、ウェブサイト「コトバンク」 |