葵橋 (京都市左京区) 
Aoi-bashi Bridge
葵橋 葵橋 
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葵橋から北方向


鴨川、比叡山


【参照】「賀茂祭図屏風」、雪堂。葵祭の祭列は、御幸橋(葵橋)を渡り上賀茂神社に向かう。鴨川に設置の京都府土木事務所の案内板より


【参照】葵橋を渡御する1926年の葵祭の祭列、鴨川設置の京都府土木事務所の案内板より

【参照】葵橋を渡御する葵祭の祭列、鴨川設置の京都府土木事務所の案内板より


【参照】1956年、葵橋を渡る市電、鴨川設置の京都府土木事務所の案内板より、京都新聞

【参照】葵橋西詰を走る市電(『京都市電の廃線跡を探る』、1977年、撮影・中村浩史)、鴨川設置の京都府土木事務所の案内板より


【参照】かつて橋を渡っていた市電
 葵橋(あおいばし)は、糺の森、下鴨神社の南西にあり、橋からは北山を望むことができる。
 下鴨神社の参詣に用いられ、かつて賀茂祭(葵祭)の行列は橋を渡っていた。
◆歴史年表 近世(安土・桃山時代-江戸時代)後期、仮橋が架橋されたという。出町と下鴨村間を結び、鞍馬街道(現在の下鴨中通)の入口に当った。
 近代、明治期(1868-1912)、民間の寄付により、本格的な橋が架け替えられている。
 1918年、9月、木橋は台風による水害で一部が陥没し半壊する。この時、建築家・武田五一の設計により、橋の一つ下流の旧出町橋の分割工事が行われていた。新しく架橋された「新出町橋(現在の出町橋)」を一時的に「葵橋」と改称し、旧葵橋は廃されている。
 昭和期(1926-1989)初期、木橋が架けられていた。
 1935年、「昭和10年鴨川大洪水」により木橋は流失する。
 現代、1956年、市電が通る中央部分が完成する。市電専用橋だった。
 1957年、道路橋になる。「新葵橋」とも呼ばれ、現在地に葵橋が復活する。
 1959年、上流側が完成した。
 1960年、現在の葵橋が架橋された。下流側が完成する。
◆武田五一 近代の建築家・建築学者・武田五一(たけだ-ごいち、1872-1938)。備後福山(広島県)の生まれ。父・備後福山藩士・司法官・平之助(直行)、母・八重の第5子。父の赴任に従い、神戸、姫路、岐阜、高知に住む。1888年、京都第三高等中学校補充科に入学した。1894年、京都第三高等中学校本科を卒業し、京都帝国大学工科大学造家学科に入学する。1897年、帝国大学(東京帝国大学)造家学科(建築学科)を首席卒業し、同大学院に進学した。1899年、大学院中退後、東京帝大助教授に任じられる。東京高等師範学校講師嘱託、東京美術学校教官になった。1901年-1903年、文部省より命ぜられ欧州留学する。ロンドン・カムデン美術学校で学び、各地を巡る。アール・ヌーボー、セセッションなどを体験する。1903年、帰国後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授になる。1904年、京都府技師を兼任し、平等院鳳凰堂・鹿苑寺金閣の保存に関わる。1907年、東京・福島行信邸で、日本初のウィーン・セセッションの様式を試みた。アール・ヌーボーの造形を紹介する。1908年、大蔵省臨時建築部技師を兼任し、国会議事堂建築のために欧米視察した。1912年、パナマ太平洋万国博覧会事務取扱嘱託になる。1915年、工学博士学位を取得する。勲四等瑞宝章を受賞した。1916年、法隆寺壁画保存会委員になる。1917年、片岡安らと「関西建築協会」を設立する。1918年、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)校長に転任した。1920年-1932年、京都帝国大学建築学科創立に伴い教授になる。1925年、大蔵省営繕管財局技師を兼任した。1929年-1931年、京都帝国大学営繕課長事務取扱として学内建築物の造営に関わる。1931年、欧米出張し、19カ国を訪れた。1934年以来、法隆寺大修理工事事務所長を務める。65歳。
 「関西建築界の父」といわれた。奈良・京都の古社寺保存修復、橋梁、博覧会場、公園、記念碑、都市計画、街路施設、家具意匠、染色なども手掛けた。主な作品として、旧日本勧業銀行本店(1899) 、日本初のセセッション建築とされる東京・福島邸(1907)、京都府立図書館(1909)、京都・円山公園(1912)、京都・同志社女子大学ジェームス館 (1913) 、京都・旧松風嘉定邸 (現・五龍閣、1914)、山口県庁舎・県会議事堂(1916) 、大阪・瀧安寺鳳凰閣(1917) 、兵庫・清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(1917) 、東京・旧村井吉兵衛邸(現・延暦寺大書院、1919) 、 兵庫・清水寺鐘楼 (1919)、兵庫・光明寺根本本堂(1925) 、 和歌山・高野山大学図書館 (1928)、代表作の東方文化学院京都研究所(1930)、京都・同志社女子大学栄光館(1932) 、鳥取・三朝大橋(1934年) など多数。葵橋、賀茂大橋なども設計した。
◆葵橋 近代、明治期(1868-1912)に、民間の寄付により本格的な橋が架け替えられた。
 1918年、9月、木橋は台風による水害で一部が陥没し半壊している。この時、建築家・武田五一の設計により、橋の一つ下流では旧出町橋の分割工事が進んでいた。この「新出町橋(現在の出町橋)」の架橋のために、葵橋は再建しないことが決定する。反対運動があり、府に市会議員が町民代表として葵橋の存続を陳情した。府は、新出町橋を葵橋の代替とし、橋名も一時的に「葵橋」と改称し、旧葵橋は廃されている。橋は賀茂祭の祭列も渡った。ただ、幅員は狭く、見物人は橋の上で見ることはできなかった。祭列は橋の下から仰いで見るのが最も美しいとされ、人々は河原に集まって見物した。 昭和期(1926-1989)初期には、木橋が架けられていた。賀茂祭(葵祭)の際には、路頭の儀の祭列はこの橋を渡っていた。
 1935年の「昭和10年鴨川大洪水」により流失する。1956年に市電が通る中央部分が完成する。市電専用橋だった。1957年に道路橋になる。「新葵橋」とも呼ばれ、現在地に葵橋が復活する。1960年に現在の葵橋が架橋された。
 橋種は3径間連続鋼プレートガーターになる。橋長75m、橋幅22.6m、路線名は下鴨京都停車場線になる。
◆市電 京都市電河原町線は、1955年に河原町今出川-洛北高校前間が延伸開業した。このため、葵橋の拡幅工事も行われている。1956年の開通当初は道路が完成しておらず、市電の軌道のみが敷かれていた。市電は、鴨川、高野川の9橋を渡った。葵橋はこれらの最後に開通している。葵橋を挟んで葵橋東詰、葵橋西詰の2駅が設けられていた。
 河原町線は1977年に廃止されている。
◆映画 映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 」(監督・山田洋次、第29作、1982年、松竹)では、三角州で寅(渥美清)が露天を開く場面がある。鴨川畔の葵橋、出雲橋の間の堤で陶芸家の老人(13世・片岡仁左衛門)に出会う。葵祭も紹介されている。
◆アニメ ◈劇場版アニメーション『ハル』(監督・牧原亮太郎、制作・WIT STUDIO、2013年6月8日)の舞台になった。葵橋、西詰付近が登場する。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 京都府土木事務所の案内板、『京の橋ものがたり』、『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』、『シネマの京都をたどる』、『鴨川・まちと川のあゆみ』、『武田五一建築標本』、ウェブサイト「京都出町観光案内-出町四橋ものがたり」、ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧 、平成28年4月現在」、ウェブサイト「コトバンク」


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