河合橋 (京都市左京区)  
Kawai-bashi Bridge
河合橋 
河合橋 
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河合橋の北東、比叡山


河合橋から見た北側、桜の頃
 河合橋(かわいばし)は、鴨川デルタ(三角州)の東、高野川に架けられている。
 下鴨神社の南の参道脇にあり、摂社・河合神社に因み名付けられた。近代の建築家・武田五一の意匠設計による。
◆歴史年表 鴨川と高野川の合流部にある鴨川デルタ(三角州)は、古く「糺河原(ただす-がわら)」として知られた。
 南北朝時代-室町時代、糺河原では勧進猿楽が催されていた。
 江戸時代-近代以前、付近で加茂川と高野川が合流しており、中洲に板を渡した1本の仮橋「今出川口橋」が渡されていた。
 近代、明治期(1868-1912)、今出川口にも、本格的な木造の橋が架けられ、「出町橋」と名付けられた。
 1918年、建築家・武田五一の意匠設計により、出町橋を分割する形で、高野川に「河合橋」が新たに架橋された。
 1935年、鴨川大洪水により河合橋は流出している。
 1938年、洪水復興事業により河合橋は架け替えられた。
 現代、1966年、下流側の拡幅工事が行われた。
 1977年、上流側の拡幅工事が行われた。
◆武田五一 近代の建築家・建築学者・武田五一(たけだ-ごいち、1872-1938)。備後福山(広島県)の生まれ。父・備後福山藩士・司法官・平之助(直行)、母・八重の第5子。父の赴任に従い、神戸、姫路、岐阜、高知に住む。1888年、京都第三高等中学校補充科に入学した。1894年、京都第三高等中学校本科を卒業し、京都帝国大学工科大学造家学科に入学する。1897年、帝国大学(東京帝国大学)造家学科(建築学科)を首席卒業し、同大学院に進学した。1899年、大学院中退後、東京帝大助教授に任じられる。東京高等師範学校講師嘱託、東京美術学校教官になった。1901年-1903年、文部省より命ぜられ欧州留学する。ロンドン・カムデン美術学校で学び、各地を巡る。アール・ヌーボー、セセッションなどを体験する。1903年、帰国後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授になる。1904年、京都府技師を兼任し、平等院鳳凰堂・鹿苑寺金閣の保存に関わる。1907年、東京・福島行信邸で、日本初のウィーン・セセッションの様式を試みた。アール・ヌーボーの造形を紹介する。1908年、大蔵省臨時建築部技師を兼任し、国会議事堂建築のために欧米視察した。1912年、パナマ太平洋万国博覧会事務取扱嘱託になる。1915年、工学博士学位を取得する。勲四等瑞宝章を受賞した。1916年、法隆寺壁画保存会委員になる。1917年、片岡安らと「関西建築協会」を設立する。1918年、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)校長に転任した。1920年-1932年、京都帝国大学建築学科創立に伴い教授になる。1925年、大蔵省営繕管財局技師を兼任した。1929年-1931年、京都帝国大学営繕課長事務取扱として学内建築物の造営に関わる。1931年、欧米出張し、19カ国を訪れた。1934年以来、法隆寺大修理工事事務所長を務める。65歳。
 「関西建築界の父」といわれた。奈良・京都の古社寺保存修復、橋梁、博覧会場、公園、記念碑、都市計画、街路施設、家具意匠、染色なども手掛けた。主な作品として、旧日本勧業銀行本店(1899) 、日本初のセセッション建築とされる東京・福島邸(1907)、京都府立図書館(1909)、京都・円山公園(1912)、京都・同志社女子大学ジェームス館 (1913) 、京都・旧松風嘉定邸 (現・五龍閣、1914)、山口県庁舎・県会議事堂(1916) 、大阪・瀧安寺鳳凰閣(1917) 、兵庫・清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(1917) 、東京・旧村井吉兵衛邸(現・延暦寺大書院、1919) 、 兵庫・清水寺鐘楼 (1919)、兵庫・光明寺根本本堂(1925) 、 和歌山・高野山大学図書館 (1928)、代表作の東方文化学院京都研究所(1930)、京都・同志社女子大学栄光館(1932) 、鳥取・三朝大橋(1934年) など多数。葵橋、賀茂大橋なども設計した。
◆今出川口橋 江戸時代-近代以前に、付近で加茂川と高野川が合流していた。このため、出町(桝形通)と出町柳(田中)間は、鴨川デルタ(三角州の中洲)を挟み、1本の仮橋である今出川口橋が渡されていた。幅2.5mほどの板を渡していた。近代、明治期(1868-1912)になり、今出川口にも本格的な木造の橋が架けられ、「出町橋」と名付けられる。
 橋は、若狭街道の終着点であり、洛北の産物を都に売りに来る、必要な物資、糞尿(肥料)を運び出すための橋だった。
◆河合橋 現在の河合橋は、1918年に、建築家・武田五一の意匠設計により、出町橋の分割によって建設された。1935年、鴨川大洪水により流出している。1938年、洪水復興事業により架け替えられた数少ない橋になる。
 当初は、鉄筋コンクリート橋、桁橋8径間×7.28m、親柱は擬宝珠だった。
 現在は和風の石燈籠4基、石製高欄、西欧風の橋梁形式とブランケット(支持具)を配し、和洋の意匠が融合している。 
 橋長59.34m、橋幅10.9m、支間割15.67m・28m・15.67m、幅員10.9m、有効幅員10m(車道7m、歩道1.5m×2)、橋種は鋼橋、橋梁形式は桁橋3径間。路線名は柳通になる。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『武田五一の建築標本』、ウェブサイト「河合橋デザイン会議第1回会議資料2017年9月22日」、ウェブサイト「京都出町観光案内-出町四橋ものがたり」、ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧 、平成28年4月現在」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 河合橋 〒606-0801 京都市左京区下鴨宮河町
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