法金剛院 (京都市右京区)
Hokongo-in Temple
法金剛院 法金剛院
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表門









中門


本堂


本堂


本堂


ハス





スイレン


嵯峨菊


鐘楼



経蔵



庭園


アジサイ


平安時代の滝、「青女の滝」




サクラ


平安時代後期の女性歌人・待賢門院堀河(たいけんもんいん の ほりかわ)の歌碑、小倉百人一首より、「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物こそ思へ」






ツバキ


五位山


【参照】待賢門院陵(藤原璋子花園西陵)


待賢門院陵


【参照】上西門院陵(統子内親王花園東陵)


【参照】上西門院陵




【参照】法金剛院から出土した瓦経(がきょう)(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)
 双ヶ岡(ならびがおか、双ヶ丘)の南東、五位山(ごいさん)の南に法金剛院(ほうこんごういん)はある。山号を五位山(ごいざん)という。
 世界中の蓮を境内に集めており「蓮の寺」ともいわれている。四季を通じて「花の寺」としても知られる。
 京都には数少ない律宗・唐招提寺に属する。本尊は阿弥陀如来坐像。戌年、亥年生まれの守護仏の信仰がある。
 阿弥陀如来(三回忌)は京都十三仏霊場めぐりの第10番札所、関西花の寺第13番霊場。
◆歴史年表 平安時代初期、830年頃/天長年間(824-834)、この地には、右大臣・清原夏野(きよはら-の-なつの)の山荘が営まれていた。830年、第53代・淳和天皇を招いている。
 834年、嵯峨上皇(第52代)が臨幸し詩宴が催される。夏野の妻・葛井庭子、子・滝雄らが叙爵されている。
 837年、夏野の没後、寺に改められ「双丘寺(ならびがおかでら/そうきゅうじ)」と称した。境内には珍花奇花が植えられ、「花園」の地名の由来になったという。第52代・嵯峨天皇、第53代・淳和天皇、第54代・仁明天皇などの行幸が相次ぐ。(『日本紀略』)
 847年、仁明天皇は、遊猟に際して内山に登る。景勝地であったため、山に従五位下を授けたことから、以後、山は「五位山」と呼ばれるようになる。
 858年/857年、第55代・文徳天皇の勅願により大伽藍が建てられる。定額寺に列せられ、寺号は「天安寺」に改められた。858年、10月、文徳天皇没後、追善菩提の法儀が執り行われる。山陵は、天安寺近くに営まれた。以後、寺には僧80人を常住させたという。
 879年、第57代・陽成天皇は、応天門事件で失脚した大納言・伴善男の荘園を没収し、当寺に施入れした。以後、 寺運隆盛になる。
 974年/994年、宝蔵を焼失する。以来、次第に荒廃する。
 1129年、9月、第74代・鳥羽天皇の中宮・待賢(たいけん)門院は、仁和寺に御堂建立のために、境内を占わせたところ天安寺跡に決まる。(『長秋記』)
 1130年、待賢門院は、「仁和寺の御堂」として復興した。修理大夫・藤原基隆が造営を行う。養父で寵愛を受けた白河法皇追善のためであり、寺号も「法金剛院」に改めた。仁和寺・覚法法親王を導師として、盛大な落慶法要が行われる。境内には池、滝があり、御堂、東岸に女院の御所が建てられた。(『中右記』『長秋記』)。10月、西岸に阿弥陀堂(3間4面、檜皮葺)が建てられる。待賢門院は晩年をこの地で過ごした。再建時の境内は現在地の北、北東、南、南東にも広がり、現在の2倍を超える境内地を有していた。
 1133年、待賢門院は徳大寺法眼・静意に命じ、滝を5、6尺余り高くした。(『長秋記』)
 1135年、北斗堂が建てられた。(『百錬抄』)
 1136年、三重塔、八角経蔵が建つ。(『百錬抄』)
 1139年、3月、南御堂(9間4面)、11月、三昧堂(1間4面)が建つ。(『百錬抄』)
 1142年、待賢門院は院で落飾し、真如法と号した。
 1145年、8月、待賢門院は三条高倉邸で亡くなり、遺言により三昧堂(法華堂)下(現在の五位山東山麓中腹、花園西陵)に葬られた。
 1158年、大修理が行われる。
 1160年/1158年、上西門院も生母・待賢門院を慕い入寺する。
 1172年/1171年、東御堂(阿弥陀堂、1間4面)が建立され、丈六の阿弥陀仏を安置する。
 1181年、東御所が焼失した。(『吉記』)。その後、衰微する。
 1189年、上西門院統子が亡くなり、東御堂(現在の花園東陵)の傍らに葬られる。寺運は衰微する。
 鎌倉時代、1276年/1282年、円覚(導御)が奈良・唐招提寺より入寺し再興する。中興の祖になる。以後、八宗兼学の道場、融通念仏の根本道場になった。
 1316年、円覚の徳行により厨子入十一面観世音菩薩を造立している。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。
 安土・桃山時代、1586年、天正大地震により被災した。
 江戸時代、朱印地65石を有し、塔頭・亭子院(ていじいん)があった。
 1605年、慶長地震で被災した。
 1617年/1619年、泉涌寺長老・宝囿照珍(ほうゆう-しょうちん)和尚により、本堂、経蔵、鐘楼などが再建された。
 1695年、亭子院(ていじのいん、下京区)は、法金剛院内に子院として移された。
 近代、奈良・唐招提寺を例外とし、律宗寺院はすべて真言宗に所轄された。
 1868年、亭子院は廃絶している。
 1899年頃、京都鉄道山陰線開通に伴い、境内が二分され南部分を失い、以後は縮小した。
 1900年、律宗として独立した。
 現代、1964年以来、仁和寺所有の双ヶ丘の観光開発を巡り紛糾する。最終的には京都市が買収し、景観保全される。
 1968年、丸太町通の拡幅工事により、本堂、地蔵院を移築、釣殿、仏殿(収蔵庫)が新造された。庭園の発掘復元、整備も行われる。
 1970年、本堂が建立された。地蔵堂が現在地に移された。庭園を発掘し復元される。
 1971年、庭園が名勝指定になる。
 1996年、JR花園駅周辺整備工事に伴い駅南で発掘調査が行われた。池跡、三重塔跡の基壇が発見された。
◆清原夏野 平安時代初期の貴族・漢学者・政治家・清原夏野(きよはら-の-なつの、782-837)。初名は繁野(しげの)王、双岡(双ヶ丘)の東南に山荘を営み、通称は比大臣(ならびのおとど)、双岡大臣、北岡大臣、野路大臣。舎人(とねり)親王の孫・小倉王の第5王子、母は右馬頭・小野縄手(綱手)の娘。清原春子の父。803年、内舎人、804年、清原真人姓を賜い夏野と改め臣籍に下る。810年、蔵人、811年、従五位下で大伴親王(のちの第53代・淳和天皇)の春宮亮。815年、第52代・嵯峨天皇の近江梵釈寺の行幸に従い、その時の詩は勅撰詩集『経国集』に収められる。823年、参議。825年、従三位中納言・左衛門督、826年、左近衛大将・民部卿を兼ね、830年、大納言、832年、淳和天皇の即位に伴い、従四位下蔵人頭・左近衛中将、参議、右大臣になる。当初、私財を投じて播磨国に魚住泊を建設する。833年、従二位に昇進した。晩年、山荘に淳和天皇、嵯峨上皇を招いて詩会を催した。清原家の祖。56歳。
 桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明の5代天皇に仕えた。833年、淳和天皇の勅により、菅原清公、小野篁らと『令義解(りょうのぎげ)』を編纂し、日本法制史上に足跡を残す。藤原緒嗣(おつぐ)らと『日本後紀』の編纂に従事した。『内裏式』も修補し、常陸などの親王任国制はその提案による。
 没後、正二位を追贈された。法金剛院(右京区)が山荘跡という。
◆待賢門院璋子 平安時代の待賢門院璋子(たいけんもんいん-の-しょうし/しょうこ/たまこ、1101-1145)。藤原璋子(あきこ) 、法名は真如法。父は正二位行権大納言・藤原公実(きんざね)の末子、母は左中弁・藤原隆方娘で堀河・鳥羽天皇の乳母・光子。京都の生まれ。幼い頃より、第72代・白河天皇と寵姫・祇園女御(ぎおんにょうご)の養女として育てられた。白河上皇の猶子になり、院御所に住した。白河上皇は、璋子を藤原忠通に娶わせようとした。忠通は断り、後の保元の乱の遠因になった。1117年、17歳で白河天皇の孫、第74代・鳥羽天皇に入内、女御、1118年、皇后の宣下があり中宮になる。1119年、顕仁(あきひと)親王(第75代・崇徳天皇)が産まれる。ただ、顕仁親王は、白河法皇との間の子ともいわれている。鳥羽天皇は親王を「叔父子(おじご)」と呼び冷遇した。異説もある。璋子は6子を産むる。1123年、白河上皇は、顕仁親王を皇太子に立て、鳥羽天皇に譲位を迫った。5歳の顕仁親王(崇徳天皇)の即位により国母(こくも)に就く。1124年、24歳で待賢門院の称号を与えられ、女院になる。1127年、行真(まさひと)親王(第77代・後白河天皇)を産む。1129年、白河法皇の没後、皇子・覚性法親王を産む。1130年落飾し、法名は真如法になる。1133年、白河法皇の火葬場(衣笠山)に参る。1134年、白河法皇が遺言で禁じていた藤原勲子(泰子、高陽院)が中宮になる。さらに、美貌の藤原得子(美福門院)が入内し、鳥羽天皇の寵愛を受けた。待賢門院は、子・禧子内親王も喪い、病苦に苦しむ。1142年、得子呪詛事件が発覚する。美福門院との間の子・体仁親王(第76代・近衛天皇)が皇位継承した。待賢門院は次第に権勢を失う。末子・本仁親王を仁和寺の覚法法親王のもとに入室させ、自ら発願し創建した法金剛院で落飾し、真如法と称した。1143年、第3皇子・君仁親王を喪う。1145年、兄・藤原実行の三条高倉第で、鳥羽法皇に見守られて亡くなる。法金剛院境内北端の三昧堂地下石室に葬られた。45歳。
 箏の琴(十三絃琴)の名手として知られた。女房三十六歌仙の一人。『金葉和歌集』に入集。家集『待賢門院堀河集』。西行との贈答歌もある。
 1155年、近衛天皇の夭折後、待賢門院が産んだ2人の子、後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いが、1156年、保元の乱になった。
◆待賢門院堀河 平安時代後期の歌人・待賢門院堀河(たいけんもんいん-の-ほりかわ、?-?)。源顕仲(あきなか)の娘。第72代・白河天皇皇女・令子内親王(1078-1144、前斎院)に仕え「前斎院六条」、後に待賢門院に仕え「堀河」と称された。父が主催した歌合などに出詠した。『金葉和歌集』以下の勅撰集に入る。中古六歌仙の一人。家集『待賢門院堀川集』。

◆上西門院 平安時代後期の皇族・上西門院(じょうさい-もんいん、1126-1189)。名は恂子(じゅんし)、尊称皇后・統子(とうし)、法名は真如理。父・第74・鳥羽天皇の第2皇女、母は藤原璋子(待賢門院)。第77代・後白河天皇の姉。京都の生まれ。1126年、生後間もなく内親王の宣下を受ける。1127年、准三宮、2歳で賀茂斎院に卜定される。1129年、斎院に入った。1132年、病により退下(たいげ)した。1145年、母・待賢門院の没後、遺領の仁和寺法金剛院領(後の上西門院領)を受け継ぐ。1155年、弟・雅仁親王(後白河天皇)が即位する。1158年、未婚内親王のまま、弟・後白河天皇の准母として尊称・皇后宮になる。母を偲び法金剛院に入寺する。1159年、院号宣下を受けて女院(上西門院)になる。1160年、平治の乱で、後白河院とともに内裏の一本御所に幽閉された。弟・仁和寺御室覚性入道親王を戒師とし、法金剛院で出家し真如理と称した。東御堂(丈六阿弥陀堂)を建立した。64歳。
 遺言により三昧堂下(現在の五位山中腹)に葬られた。陵墓は花園東陵(右京区)にある。
 絶世の美女と謳われた。和歌を好み、歌壇を築き、側近に女性歌人・上西門院兵衛、建春門院平慈子らがいる。
◆西行 平安時代後期の真言宗の僧・西行(さいぎょう、1118-1190)。佐藤義清(のりきよ、憲清、則清、範清)、別号は大宝房、大本房、大法房、法名は円位。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使・左衛門尉佐藤康清。母は監物(けんもつ)源清経の娘。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられる。1137年、鳥羽院(第74代)の下北面(げほくめん)の武士になる。1140年、妻子を捨てて出家し、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1141年、東山の双林寺、長楽寺などに草庵を結んだ。1144年頃/1147年、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1156年、鳥羽法皇の葬送に参り、保元の乱に敗れ仁和寺に籠った崇徳上皇に参じた。1168年/1167年/仁安年間(1166-1169)、讃岐の崇徳院の墓陵参拝、弘法大師の遺跡巡礼を目的とし、中四国を巡る。1172年、平清盛主催の千僧供養に参加した。その後、高野山で聖生活に入り上人になる。1177年、高野山の蓮華乗院の移築に関わる。治承年間(1177-1181)、伊勢国二見浦に移る。神祇信仰を深め、内宮祠官荒木田氏と交わった。1186年、俊乗房重源に委嘱され、東大寺再建のため平泉での砂金勧進を奥州藤原氏に行う。この2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国・弘川寺(大阪府河南町)に庵を結ぶ。弘川寺で亡くなる。73歳。墓は弘川寺にある。
 和歌に秀でた。平清盛、平忠盛、平時忠、待賢門院、崇徳院、徳大寺実能らと交わる。大原三寂(寂念、寂然[藤原為業])、寂超)、藤原俊成、待賢門院堀河、上西門院兵衛と親しくした。家集に『山家集』、勅撰集の『千載集』、『新古今和歌集』には94首が入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残した。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
◆円覚 鎌倉時代中期の律宗の僧・円覚(1223-1311)。法号は修広、通称は十万上人、諡号は円覚上人、法名は道御(どうご/どうぎょ)。大和国に生まれた。3歳で東大寺門前に捨てられる。僧に拾われ、出家得度する。1240年、唐招提寺、その後、法隆寺に学ぶ。唐招提寺24世長老に就く。厩戸王(聖徳太子)による融通念仏執行の夢告に従い、1258年、上洛する。1258年、壬生寺で初めて融通念仏を厳修した。壬生寺を再興し、法金剛院の中興の祖になる。勧進のため融通大念仏を行った。嵯峨・釈迦堂、法金剛院など洛中48カ所の道場で融通念仏を広めた。帰依者が十万人になる毎に大斎会を設け「十万上人」と呼ばれた。亀山天皇は「円覚十万上人」の号を授ける。法命寺に葬られ、五位山に墓塔が立つ。88/89歳。
 愛宕山の地蔵菩薩に祈り、母に再会したという。
◆吉田兼好 鎌倉時代-南北朝時代の随筆家・歌人の吉田兼好(よしだ-けんこう、1283-1352)。卜部兼好(うらべ-かねよし)、兼好法師。吉田に住み俗称は吉田とも称した。吉田神社の神職・治部少輔兼顕、母は金沢貞顕の執事倉栖の娘。慈遍の弟/兄。京都の生まれ。公家の堀川家の家司になる。1301年、第94代・後二条天皇即位により、六位の蔵人として仕える。1307年、左兵衛佐になる。鎌倉で歌作し北条氏と関わる。1308年、天皇の死去により退いた。1313年以前、出家し山科小野庄に隠棲し兼好と称した。関東に出て小野庄に戻り、1319年頃、『徒然草』(序-32章)を書いたとみられる。1337年、全段完成した。
 儒教・老荘の思想にも通じた。歌人としても知られ、和歌は二条為世に学び、二条派の和歌四天王(ほかに頓阿、浄弁、慶運)と称される。家集『兼好法師集』、『続千載集』『続後拾遺集』にも収められた。
 各所を経て、当時、仁和寺境内だった双ヶ丘に草庵を設け、244章段の随筆集『徒然草』を著した。晩年は伊賀国に移り死去したという。その遺志に従い、双ヶ丘二ノ丘西麓辺りに葬られたという。江戸時代中期、1704年頃、長泉寺境内に墓が移されたともいう。69歳。
 「諸寺過去帳」の「法金剛院の部」に、「観応元年(1350年)四月八日、六十八歳死」の記載がある。このため、没年は1350年とされてきたが、1352年ともいわれている。法金剛院に墓はない。
◆森蘊 近現代の庭園史家・森蘊(もり-おさむ、1905-1988)。東京生まれ。森慎一郎の6男。1928年、東京帝国大学農学部に入学、造園、建築史を学ぶ。1952年、奈良文化財研究所に入り、建造物研究室室長になる。桂離宮、修学院離宮、奈良・大乗院、円成寺、京都・浄瑠璃寺、法金剛院、平泉・毛越寺、観自在王院などの古庭園の文献、発掘、調査研究し、復元を行う。日本建築学会賞、日本造園学会賞を受賞した。著に『桂離宮の研究』『日本庭園の伝統』など。日本庭園史の基盤を築いた。83歳。
◆仏像 ◈本堂の本尊「阿弥陀如来坐像」(270㎝/224㎝)(重文)は、平安時代後期、1130年に院覚(いんかく)作という。法金剛院阿弥陀像とされている。侍賢門院発願により西御堂の本尊だった。表情は引き締まり、衣文は細かい。弥陀定印を結び結跏趺坐、布目地に薄い宝相華模様の八角九重蓮台に坐る。飛天光背、二重円相部に透し彫り。定朝様、周丈六(丈六の4分の3)、木造、内刳、寄木造、漆箔。
 ◈美仏「十一面観世音観音坐像」(69.2cm)(重文)がある。厨子内に納められている。鎌倉時代、1316年に院派の法印・院涴(いんえん、院吉)作、願主・朝海による珍しい四手(四臂)の像になる。胎内銘により、中興の祖・円覚上人の3回忌追善法要のために造仏されたという。
 頭上に11面(頭頂に仏面1面、頭上の正面に菩薩面3面、向かって右に瞋怒(いかり)面3面、向かって左に狗牙上出面3面、背面に大笑面1面がある。手に錫杖、蓮華、数珠、水瓶を持つ。八角九重蓮華台に坐し、粉溜塗(白土の下地に金泥を塗る)、衣は金箔押、納衣は粉溜盛上鳳凰文様、豪華な玉石を繋ぐ瓔珞を垂らす。胎内に15000人の記帳が納められていた。像立には院派16人の仏師が関わったことがわかる。光背は透彫り蓮華唐草。木造、寄木造、金泥、截金、玉眼。
 「厨子」(重文)は当時のものという。扉は三方開き、各方二折りの漆黒の観音開き、内部天井に天蓋に見立てた八葉蓮華、内部周囲に十二天の彩色画、背後に観世音菩薩三十三身応化図が描かれている。宝形造。
 ◈平安時代後期作の「地蔵菩薩立像」(127.2㎝)(重文)は、天安寺時代の仏像という。翻波式一木造、手首を除き、仏像、台座、蓮台まで一木造、内刳りはない。
 ◈「僧形(そうぎょう)文殊坐像」(78㎝)(重文)は、平安時代作になる。結跏趺坐し、目を閉じた老僧姿をしている。天安寺時代の仏像という。聖僧文殊とも呼ばれ、戒律と知恵の師とされた。かつて、食堂に安置されていた。寺伝では賓頭盧尊者といもいう。一木造。
 ほかに、平安時代の「不動明王立像」、平安時代の「毘沙門天立像」、鎌倉時代の「阿弥陀如来坐像」がある。
◆地蔵 「金目(かなめ)地蔵菩薩坐像」(重文)は、平安時代作になる。目が金色のために呼ばれている。「協(かなえ)地蔵」、「要(かなめ)地蔵」、「叶(かなえ)地蔵」、「金目(かなめ)地蔵」と転訛したともいう。(『山州名跡志』)。
 「要」とは、扇の要を意味し、宇田川、御室川の交流点に当ることを指した。地名の扇野町の由来にもなった。「叶」とは、苦を抜いて楽を与える地蔵の意味ともいう。
 右手は与願印を結ぶ。錫状を持ち、左手は宝珠を載せる。結跏趺坐。寄木造、彩色、一丈六尺(484㎝)。
 かつて境内南端の南大門東の塔頭・地蔵院の本尊だった。その後、門前西の小堂に遷される。1970年に境内西北の小堂に再び遷された。毎月、1日・23日に開帳されている。
◆創建時 創建時の境内は、極楽浄土が再現され、池の西に「西御堂(丈六阿弥陀堂)」、池の南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東の五位山に女院の東御所(宸殿)が建ち並んだ。これらは、西を西方浄土とし、西御堂に安置の阿弥陀如来を拝した。
 その後、池の東に三重塔(現在の境内南西、「塔の本」付近)、金泥一切経を納めた八角経蔵、水閣、東御所の北に北斗堂、五位山の東中腹に三昧堂も建てられている。池の南に南御堂、馬場屋があった。東の東御門を入ると、中門、中門廊、侍所を経て、東御所に至る。その北に北斗堂があり、境内の北東隅に東御堂があった。
 最盛期には北は近衛大路末、南は春日小路末、東は西京極大路、西は西京極大路の西220m、南北3町(360m)、東西2町(240m)にあった。
◆建築 表門、鐘楼、経蔵、中門、書院、札堂(本堂)、仏殿、庫裡、茶室などが建つ。
 ◈「本堂(礼堂)」は、江戸時代、1617年に再建された。本堂の車寄は唐破風造になる。1916年に建てられている。かつて、京都五花街の一つ、宮川町歌舞練場(東山区)正面にあり、1969年に歌舞練場を改修した際に移築された。歌舞会と同じ「三ツ輪」の紋が残されている。右手に寝殿造、釣り殿風の建物を付している。鉄筋コンクリート造。3間3面、単層、入母屋造、本瓦葺、正面に1間の向拝。
 ◈「仏殿」は、中央切妻造、左右に収蔵庫(切妻造、翼堂付)。鉄筋コンクリート造。
 
◈「経蔵」は、江戸時代、1617年に建立された。経典が納められている。
◆庭園 池泉回遊式浄土庭園「法金剛院庭園青女の滝 附五位山」(2000㎡)(国の特別名勝)がある。庭園は、数少ない平安時代の遺構とされる。作庭年、発願者、作庭者、改修者氏名が判明した貴重な例になる。
 平安時代末期、末法思想が流布した頃、待賢門院は五位山麓に、浄土信仰の西方極楽浄土の世界を造らせた。作庭は仁和寺の石立僧・伊勢房林賢(りんけん)と徳大寺の静意が行う。
 庭園は、東西を川で仕切り、池が造られた。1130年、日本最古の人造の滝といわれる「青女(せいじょ)の滝」の巨石による滝口が組まれた。石組から3年後、1133年、待賢門院は滝をさらに高くすることを望み、徳大寺浄意に命じる。浄意は5尺(1.5m)の石を滝上に積み、12尺(3.6m)の滝を改めて組んだ。青女の滝の青女とは、秋の神であり、霜と雪を降らすという。滝からは北の双ヶ池より遣水が引かれ、曲水を経て池泉に注いだ。林賢は「衣もてなづれどつきぬ石の上によろづよを経よ滝の白糸」と詠い、滝近くに歌碑を立てている。「衣の滝」とも呼ばれる。分銅形の苑池は、汀を砂質土で造り、中島が造られ、欄干付の反橋が架けられていた。州浜、巨石の伏石、立石が据えられていた。
 池の西に西御堂(丈六阿弥陀堂)、南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東に女院の御所(宸殿)が建ち並ぶ。西を西方浄土とし、西御堂に安置の阿弥陀如来を拝することができた。苑池には阿弥陀経中の蓮が植えられ、桜、菊、紅葉の名所になる。西行などの歌にも詠まれた。
 近年の発掘調査により、当初の池泉は、東西140m、南北150mに及び、瓢形をしていたという。汀に白砂が敷かれていたという。現在の池泉は、かつての北の一部分にすぎない。現在、南に池泉が広がる。池の北には、現代、1968年に造園史家・森蘊(1905-1988)により発掘された「青女(せいじょ)の滝」がある。1970年に発掘復原された。滝の石組は掘り出され、滝と池の間には遣水がある。
◆文化財 「蓮華式香炉」(重文)、「黒漆燈台(京都市指定文化財)。
 安土・桃山時代の第107代「後陽成天皇宸翰(しんかん、天皇自筆文書)」、「竜虎」「松竹」大文字2幅。
 鎌倉時代の絹本著色「伝道宣(どうせん)像」1幅、南北朝時代の絹本著色「円覚上人像」1幅、平安時代の紙本墨書「大小乗律論疏目録」2巻(重美)。
 画像「待賢門院璋子」。非公開。
 かつての子院・亭子院の関連古文書。
◆仏足石 境内に安置されている仏足石は、正面が踵になっている。律宗では、釈迦の御跡を慕い行くことを仏道と説いていることによる。
◆五位山 境内背後に五位山(ごいやま)がある。「内山(うちやま)」ともいう。古く「双ヶ丘東墳墓」とも呼ばれた。
 平安時代、847年、仁明天皇は、遊猟に際して内山に登る。景勝地だったため山に従五位下を授けたことから、以後、山は五位山と呼ばれるようになる。
 江戸時代には、文徳天皇陵と呼ばれていた。
◆歌・西行 西行をはじめ多くの歌人が侍賢門院、上西門院を偲び、寺の景色を詠んだ。『山家集』『千載集』『玉葉』『続古今集』などの歌に残る。
 平安時代の僧侶・歌人である西行(1118 -1190)は、鳥羽院の北面の武士になり、その後出家、諸国を巡り多くの和歌を残した。出家の動機は、美貌の待賢門院、美福門院への失恋、親しい友の死ともいわれている。西行の庵は小倉山や嵯峨にあり、法金剛院とは距離的に近かった。西行は、待賢門院を思慕し、寺を度々訪れる。後宮、女房達(堀川、兵衛、帥 [そら] )と和歌を通じた交流があった。
 晩年の待賢門院についても心痛めていたという。「なにとなく 芹と聞くこそ あはれなれ 摘みけん人の 心知られて」と西行は詠んだ。
 この芹摘むとは、高貴な女性へのかなわない恋を意味する。西行の歌は、次の逸話を踏まえている。かつて、後宮の庭掃除に従事していた男が、風で舞い上げられた御簾越しに后(檀林皇后)を垣間見た。以後、男は思慕し、恋のわずらいにより亡くなる。死後、男の遺族は遺言に従い、芹を摘んで仏前に供えた。男の娘は、後に後宮の女官になり、后に仕えた。女官が父のことを伝えると、后は以後、目をかけ身近に仕えさせたという。(『俊頼髄脳』)
 1145年に待賢門院は亡くなる。1146年、1147年、西行は法金剛院に紅葉見物した。その際に、待賢門院を偲び歌を詠んでいる。「十月中の十日頃法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、侍賢門院の御とき思い出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける」。
 「紅葉みて 君が袂や しぐるらむ 昔の秋の 色をしたひて」(『山家集』)。「尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花とちりにし 君が行くへを」。
◆亭子院 亭子院(ていじのいん)は、西洞院大路の西、油小路の東、七条坊門小路南、北小路北の方一町にあった。現在の植松公園(下京区植松町)は、敷地の東北部に当たる。
 第53代・淳和天皇の女御・永原原姫(?-868)の邸宅であり、池中の中島に亭(亭子、あずまや)を設けていたことから亭子院と呼ばれた。原姫没後、大納言・藤原基経(836-891)の別邸になる。その娘・温子(872-907)は、第59代・宇多天皇の女御(後に中宮)になり、亭子院は里第(東七条宮)になる。宇多法皇は御所とし、御息所・藤原褒子(?-?)などが住した。第60代・醍醐天皇も度々行幸した。
 温子の女房に歌人・伊勢(872頃- 938頃)がいた。宇多上皇により、911年、亭子院酒合戦、913年、亭子院歌合などの宴が催されている。931年に宇多上皇没後、寺院に改められる。
 南北朝時代、1389年、足利義満は油小路の東、七条坊門小路の南の4町を安堵した。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により被災する。江戸時代、1695年、法金剛院(右京区)に子院として移された。近代、1868年に廃絶している。
◆遺跡 1996年のJR花園駅周辺整備工事に伴い、駅南で発掘調査が行われた。池跡、建物基壇(礎石2基、据付け穴4基)が発見された。
 南北2間(一辺4.8m)の建物跡であり、平安時代、1136年に建立された三重塔跡と確定した。
◆京都十三仏霊場めぐり 阿弥陀如来(三回忌)は京都十三仏霊場めぐりの第10番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦(あしゅく)如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆陵・墓 ◈五位山北に「待賢門院西陵(たいけんもんいんりょう、鳥羽天皇中宮花園西陵)(右京区花園扇野町)」がある。中世以降は所在不明になっていた。近代、1871年に茶畑より石棺が発掘され、瓦(法華経を彫刻)が出土し確定された。小円墳。
 ◈「上西門院陵(じょうさいもんいんりょう、尊称皇后統子内親王花園東陵)(右京区花園寺ノ内町)」の小円墳(周囲90m)がある。法金剛院東御堂で火葬され納骨されたという。
 ◈五位山の長老の墓に中興の祖・円覚の墓塔も立つ。
◆花暦 花の寺として知られ四季を通じてさまざまな花が開く。薮椿、桜(都の八重桜、枝垂桜待、賢門院桜)(4月上旬-中旬)、桔梗、石楠花、牡丹、皐月、花菖蒲、紫陽花(6月中旬-7月上旬)、蓮(天竺蓮、法金剛院蓮、大賀蓮、誠蓮など87種)(7月初旬-8月上旬)、白彼岸花(9月中旬-下旬)、嵯峨菊(11月上旬-下旬)、紅葉(11月中旬-下旬)。
 待賢門院は古歌にある奈良の都の八重桜を法金剛院に移そうとした。そのため、興福寺に東円堂を建立し、源勝僧都を介して移植された。(『興福寺流記』)。その後、法金剛院境内の都の八重桜は絶えた。近年、東大寺知足院より再び移植されている。
◆双池 双ヶ丘の南端三ノ丘の北東、五位山との間付近に、「双池(ならびのいけ)」といわれる池があった。推定では、標高44m、南北80-90m、東西40-50mほどの大きさだったという。(『広隆寺資材交替実録帳』)。
 現在、法金剛院境内に残る池泉の前身になる。平安時代初期、遊猟地であり、天皇の行幸が度々あり、歌枕の地になる。江戸時代までに水が涸れ、田に変わった。
◆年間行事 修正会(1月1日-3日)、春の彼岸会(3月21日)、仏正会花祭(4月8日)、観蓮会(7月初旬-8月初旬)、観音功徳日(8月18日)、秋の彼岸会(9月21日)、本尊供(10月15日)。
 本尊供(毎月15日)、金目地蔵菩薩坐像開帳(毎月1日・23日)。


*仏像の写真撮影は禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の古都から 9 法金剛院』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『洛西探訪』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 4 洛西』『洛中洛外』『歴代天皇・皇后総覧』『京都の寺社505を歩く 下』『院政期の京都 白河と鳥羽』『京都大事典』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『新版 京のお地蔵さん』『仏像』『京都の仏像』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『京都仏像を訪ねる旅』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『日本の名僧』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『京都まちかど遺産めぐり』『掘り出された京都』『古都歩きの愉しみ』『京都歩きの愉しみ』『京都の地名検証』『掘り出された京都』『京の福神めぐり』『週刊 日本の仏像 第25号 仁和寺 国宝薬師如来と御室』『週刊 京都を歩く 29 太秦』『週刊 古寺名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』『週刊 日本の仏像 第25号 仁和寺 国宝薬師如来と御室』、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「コトバンク」


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