義経地蔵(蹴上義経地蔵) (京都市東山区)  
Yoshitsune-Jizo
義経地蔵  
義経地蔵
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義経地蔵


「義経大日如来」の銘


王玉大明神



 義経地蔵(よしつね-じぞう)は、蹴上(けあげ)インクラインの頂部、蹴上舟溜近くに祀られている。蹴上義経地蔵、義経大日如来とも呼ばれてきた。
 蹴上は東海道が九条山を越え京都に入る東玄関口にあたり、義経地蔵が地名の由来になったともいう。
◆歴史年表 詳細は不明。
 平安時代、1177年、源義経は、鞍馬山より橘次末春(金売吉次)に従い、奥州に下った際に、この地を通りかかったという。(『異本義経記』)
 近代、大正期(1912-1926)初め、地蔵は一度売られ、町民により再び戻され祀られたという。
◆源義経 平安時代後期-鎌倉時代前期の武士・源義経(みなもと-の-よしつね、1159-1189)。幼名は牛若丸、 遮那王、源九郎、通称は九郎判官、九郎御曹子。義朝の9男、母は九条院雑仕女(ぞうしめ)・常盤御前、頼朝の異母弟。1159年、父が平治の乱で敗死し、平氏より逃れる。母、兄・今若(後の阿野全成)、乙若(後の円成)とともに平氏に捕らえられた。義経ら子は、寺に入ることを条件に許される。義経は、公卿・藤原長成の援助により、鞍馬寺・東光坊阿闍梨蓮忍に預けられた。後、禅林坊・覚日のもとへ移る。1177年、義経は、金商人・吉次と鞍馬寺を脱し、自ら元服し奥州平泉・藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受けた。1180年、兄・頼朝の挙兵に呼応し、駿河国(静岡県)黄瀬川に駆けつけた。1183年、頼朝の代官として畿内近国に派遣される。1184年、宇治川の戦で源(木曾)義仲を討ち、一ノ谷の戦で、平敦盛(あつもり)・忠度(ただのり)らを討つ。1185年、阿波水軍を奇襲で破り、屋島の戦、壇の浦の戦で平氏を全滅させた。頼朝の推挙を経ず検非違使、左衛門尉に任官、後白河上皇(第77代)に接近し支配権を固めた。東国の武士との争いは絶えず、頼朝から厳命された天皇位を象徴する三種の神器の一、宝剣を回収でなかった。義経は、西海から生け捕りにした平宗盛、礼門院を連れ京都凱旋したものの頼朝と対立した。畿内近国の支配権も奪われ、恩賞も取り上げられた。鎌倉入りも許されず、頼朝から刺客・土佐房昌俊が差し向けられた。義経は後白河法皇による頼朝追討宣旨を得て、叔父・行家と結んだ挙兵は失敗し、愛妾・静御前と共に吉野、再び奥州・藤原秀衡を頼り逃れた。1187年、秀衡の没後、その子・藤原泰衡は頼朝に屈し、義経は陸奥・衣川館(ころもがわのたて)で泰衡に討たれ自刃した。31歳。
 南北朝時代の『義経記』以来、義経は「判官物」として取り上げられ、能、幸若(こうわか)、浄瑠璃、歌舞伎の題材になる。各地に悲劇の名将として義経伝説が多く生まれた。
◆義経地蔵 義経地蔵は、鎌倉時代作という。厚肉彫りの阿弥陀坐仏であり、舟形光背を背負う。義経伝説と大日如来の信仰が一体化し、義経大日如来とも呼ばれた。本来は、石造地蔵(九体仏)の一つであり立像もあったという。地蔵は、義経伝説とは関係なく、近くの粟田口刑場で処刑された人々を弔うために安置されたともいう。
 地蔵は地元の東物座町(ひがし-こものざ-ちょう)の人々により守られてきた。近代、大正期(1912-1926)初め、地蔵は売られたという。地蔵が町民の夢枕に立ち、帰りたいと願った。町民たちは元に戻して再びこの地に祀ったという。
 坐高90㎝、高さ160㎝。
◆蹴上・義経伝説 蹴上は古く「松坂」と呼ばれ、松の生い茂る急な峠だったという。蹴上の語源としては、「馬の蹴り上げ」、「力を入れて蹴り上げる」が由来という。また、「つま先上がりになるほどの急坂」を意味するともいう。
 義経地蔵は、蹴上の地名に関わりがあるともいう。平安時代後期-鎌倉時代初期の武士・源義経(1159-1189)にまつわる伝承が残る。
 義経は、平家打倒を胸に秘め、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している。
 1177年秋、日の岡峠(現在の蹴上)に差し掛かり、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市(与一)重治(せきはら-よいち-しげはる)の一行とすれ違う。その従者の一人(馬とも)が峠で湧水を撥ね、義経の衣を汚した。一行は謝罪もせずに通り過ぎたため義経は怒った。9人(10人とも)の武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払ったという。また、与一も斬られたともいう。
 義経は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。村人は、斬られた9人の菩提を弔うために、9体の石造地蔵(九体仏)を九体町(山科区)に安置して弔ったともいう。また、我に返った義経は村人に菩提を弔うように頼んで旅を続けたという。九体仏の1体が安置されたのが現在地、九体町付近だったという。(『異本義経記』『山城名勝志』『雍州府志』)
 九体仏のうちの1体は、「義経大日如来」としてこの地に安置された。かつて、祠の傍らに「鎧掛けの松」があったという。九条山には4体の石仏がいまも点在するという。国道北側に3体が祀られているともいう。
 義経が血糊の刀を洗ったとされるのが「太刀洗池」といわれる。蹴上の南東に当たる、現在の山科区御陵血洗町(みささぎ-ちあらいちょう)付近にあったという。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、『昭和京都名所図会 2 洛東下』、「京都新聞 2013年5月27日付-野仏に出会う 蹴上の義経地蔵」、『雍州府志』、『京都大事典』、『琵琶湖疏水の歴史散歩』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 義経地蔵(蹴上義経地蔵) 〒605-0044 京都市東山区東小物座町
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