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粟田口刑場名号碑 (京都市山科区) Stone Monument of Awataguchi-keijo(The ruins of execution site) |
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粟田口刑場名号碑 | 粟田口刑場名号碑 |
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![]() ![]() 「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号石碑 ![]() ![]() 「萬霊供養塔」の石碑 ![]() 【参照】近くにある「修路碑」、近代、1877年京都府により建立、三条實美揮毫。 ![]() 【参照】峠近く、九条山バス停付近にある地蔵堂 ![]() 【参照】地蔵菩薩、足元にも多くの小さな地蔵が祀られていた。 |
三条通を蹴上、九条山方面に坂道を上ると、やがて峠道にいたる。三条通はかつて、江戸より京都に至る東海道の街道筋に当たっていた。 坂道を日ノ岡側へ少し下ると南側(右手)に崖が迫る。小さな石段がつけられており、切り開いた薄暗い薮に通じている。山裾に墓碑が2基のみ、互いに少し離れて立つ。「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれ、一方は東面、もう一つは北面している。 江戸時代、九条山西麓に粟田口処刑場(厨子奥村の飛び地)があり、京都の公開処刑場になっていた。重罪犯は火刑、磔、獄門に処されていた。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年、粟田口処刑場で、明智光秀は斬首され晒された。 1588年、この地でキリシタンが処刑されている。 江戸時代、1688年、北野・西光院が三条街道沿いの粟田口刑場(厨子奥村)に「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字名号石碑を立てたという。(「比留田家文書」) 1692年、ケンペルは、西光院の六字名号石碑について記している。(「江戸参府旅行日記」) 1717年、木食養阿が重罪人の霊を弔い、六字名号石碑「粟田口大名号碑」を立てた。(「安祥寺文書」) 1866年、禅林寺(永観堂)が日ノ岡峠、十条の撲殺場に2基の名号石を立てたという。? 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、供養塔は取り壊され、一部は石垣や道路などに転用されたという。 1871年、舎密局(せいみきょく)より京都府に解剖所設置が申請される。 1872年、舎密局の申請により京都府は、粟田山中に粟田口解剖場(京津線旧九条山駅後方)を置いた。京都療病院管轄になる。 1873年、粟田口解剖場で4刑死体が解剖され、医師ら数百名が参観する。 1874年/1873年以降、病院内に仮解剖所設置に伴い、粟田口解剖場は廃される。 1895年、御陵阿弥陀寺の諦誉聴信の発願により、1基の供養塔が建立されている。 1912年、さらに1基の供養塔が京津電気鉄道により立てられた。 1939年、国道改良工事後、法華経信者により墓石片を集め、道路沿いに1基の供養塔を再建したともいう。 ◆光秀の首 明智光秀(1528-1582)は、小栗栖で溝尾勝兵衛の介錯により絶命し、首は路傍に隠された。その後、土民に掘り返された光秀の首と胴は、本能寺の「信長はたられ候跡」に晒された。さらに、六条河原で晒されていた光秀家臣・斎藤利三の遺体とともに、各首、胴が縫合され、6月14日、日ノ岡の粟田口刑場まで運ばれ、この地に晒されたともいう。 ◆粟田口刑場 粟田口刑場は実際には厨子奥村飛地(京津線旧九条山駅付近の山手)、また、現在の蹴上浄水場と九条山駅の間、三条通(府道43号線)を挟んだ山手付近、また、東山ドライブウェイの陸橋の西より浄水場東端の間にあったという。日岡(日ノ岡)刑場とも呼ばれ、磔刑、獄門があった。近代以前に解剖については行われなかった。 刑場は近代以降に廃止され、跡地付近には京都府勧業掛所管の解剖所が置かれ、医学教育のための刑死者の解剖が行われた。1873年以降は廃止になり、青蓮院内の療病院に移された。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都大事典』、『旧版 古寺巡礼 京都 23 禅林寺』、『史料京都の歴史 11 山科区』、『京都の監獄史』、『京の医史跡探訪』、『秀吉の京をゆく』、『洛東探訪』、『京都歩きの愉しみ』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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