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佛光寺 (京都市下京区) Bukko-ji Temple |
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佛光寺 | 佛光寺 |
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![]() 大師堂門(御影堂門) ![]() 大師堂門 ![]() ![]() 阿弥陀堂門(本堂門) ![]() ![]() ![]() 勅使門 ![]() 勅使門 ![]() 玄関門 ![]() 台所門 ![]() 台所門 ![]() ![]() 本堂(阿弥陀堂) ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂、阿弥陀如来立像 ![]() ![]() ![]() 本堂、南側、西半分は土蔵様 ![]() 本堂、妻飾り ![]() ![]() 渡り廊下 ![]() ![]() 大師堂(御影堂) ![]() サクラ ![]() ![]() イチョウ ![]() 大師堂 ![]() 大師堂 ![]() 大師堂、親鸞聖人坐像 ![]() 大師堂 ![]() 大師堂、右は黒書院の入り口 ![]() 南書院、この奥に白書院がある。 ![]() 鐘楼 ![]() 鐘楼、梵鐘 ![]() ![]() 手水舎 ![]() 手水舎 ![]() 手水舎 ![]() 手水舎 ![]() サルスベリ ![]() ![]() ![]() D&DEPARTMENT KYOTO ![]() d食堂 ![]() サルスベリ ![]() 【参照】豊園(ほうえん)水、洛央小学校南 ![]() 【参照】豊園水 |
高倉通仏光寺下ル西側に佛光寺(ぶっこう-じ、仏光寺)はある。山号を渋谷山(じゅうこく-さん)という。尼僧・了明(りょうみょう)以来、性差にとらわれない開かれた教団を目指している。 真宗佛光寺派本山。本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 創建・変遷の詳細は不明。 鎌倉時代、1212年、越後流罪より帰京した開祖・親鸞は京都に戻り、五条西洞院の花園亭に止宿した。その後、山科東野に草庵を結んだという。その後、弟子・真仏(しんぶつ)に託して関東布教の旅立ったという。(寺伝)。また、親鸞六老僧のひとり源海により、山科に草庵が結ばれたという。(『大谷遺跡録』『親鸞聖人正明伝』)。第84世・順徳天皇(1197-1242)により、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)にまつわる「興隆正法(こうりゅうしょうぼう)」の勅願を贈られ、当初は「興隆正法寺」、後に略して「興正寺」とした。「正しい法を興し栄えさす」の意がある。 1320年、聖徳太子像の開眼があり、願主・了源は5世・了海の遺骨を頭中に納めたという。(像内文書)。同年、了源により、京都・今比叡汁谷(しるたに、渋谷、現在の京都国立博物館付近)に移転したともいう。 1324年、7世・了源は山科に寺を建立したともいう。覚如は寺名を「興正寺」とした。(『存覚一期記』) 1327年、本尊が盗難に遭う。 1326年、了源は、存覚の指導により絵系図を作り布教を拡大する。 1328年頃/1330年/1320年、了源により、京都・今比叡汁谷に移転したという。第96代・後醍醐天皇は「阿弥陀佛光寺」の寺号を贈り、略して「佛光寺」の寺名になった。了源は、仏光寺派中興の祖とされた。 1331年、焼失している。(『存覚一期記』) 南北朝時代、1334年、再建された。本尊が開眼される。(『存覚一期記』) 1336年、源鸞の病没後、了源の妻・8世・了明が門主を継ぐ。 1352年、延暦寺大衆、祇園社により破却される。(『祇園社家記録』) 室町時代、本願寺を圧倒するほどの隆盛になる。 1465年、比叡山による本願寺破却の際には、妙法院門跡の口入により佛光寺の破却は免れた。(「仏光寺文書」)。10世・唯了以来、得度、受戒は妙法院で行われていた。 1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。その後、摂津平野へ一時移転した。以後、寺勢は衰える。 1469年、14世・経豪(きょうごう)が就く。 文明年間(1469-1487)/1481年、経豪は末寺門徒を率い、本願寺の蓮如に帰依し、興正寺を創建した。そのため、佛光寺は弟・経誉が14世に就き再興する。有力末寺48坊中にわずか6坊(中坊、西坊、南坊、角坊、奥坊、新坊)のみが残り、以後衰退する。 安土・桃山時代、1586年、豊臣秀吉の東山渋谷での大仏殿造営に伴い、代替地の竜臥城跡地(現在地、五条坊門高倉)へ移転になる。 1596年、京都大地震により御影堂など諸堂が倒壊・損壊する。(『御影堂奉加帳』) 江戸時代、1603年、御影堂が再建される。6坊が経費を負担し、用材は大坂、近江より運ばれた。(『御影堂作事使日記』) 1606年、慶長の大地震により倒壊している。 1647年、境内は東西93間、南北33間あり、祖師堂15間4面、弥陀堂10間4面あった。(『仏光寺記録』) 1654年、御影堂が再建される。 1788年、天明の大火により御影堂、阿弥陀堂、大善院、唐門、茶所などが類焼した。 1802年、再建される。 1803年、御影堂、阿弥陀堂などの諸堂、堀、長倉の塀なども描かれている。(『二十四輩順拝図絵』) 1830年、旧7月、京都大地震(文政の大地震)で土蔵が崩落し、仏光寺通の通行が止まる。(『甲子夜話』) 1864年、禁門の変(元治の大火)により御影堂、阿弥陀堂が焼失した。 近代、1884年、御影堂が再建された。 1904年、本堂(阿弥陀堂)が再建されている。 現代、2014年、境内に「D&DEPARTMENT KYOTO / d食堂 」が開店した。 ◆了源 鎌倉時代中期-南北朝時代の真宗の僧・了源(りょうげん、1295-1336)。男性。号は空性(くうしょう)。父・興正寺4世・了海の3男。興正寺7世を継ぐ。1324年、了源は山科に一宇を建てた。覚如は興正寺と命名した。1328年頃/1330年/1320年、寺を洛東渋谷に移し、第96代・南朝初代・後醍醐天皇より佛光寺の名を授かり改称した。1336年、布教中に伊賀で殺された。41歳。 日本初で真宗教団を組織した。浄土真宗佛光寺派。佛光寺派中興の祖、真宗教団中興の祖とされる。(佛光寺所伝)。 また、もと武家家人の中間(俗名は金森弥三郎)ともいう。覚如に学び興正寺を建立した。焼失後に再興する。光明本尊、交名帳、絵系図を使った結縁勧進により、西日本での多くの信者を獲得し、真宗教団組織の基礎を築く。(本願寺所伝)。 逸話があり、伊賀(三重県)七里峠で賊に襲われた。死に臨んで賊徒に対し「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし」と諭したという。 ◆源鸞 鎌倉時代後期-南北朝時代の真宗の僧・源鸞 (げんらん、1319-1347) 。詳細不明。男性。父・了源、母・了明の長男。佛光寺8世を継ぐ。1347年、在職13年で病没した。28歳。 ◆了明 鎌倉時代後期-南北朝時代の真宗の尼僧・了明(りょうみょう、1294-1376)。詳細不明。女性。俗名は順子。出自は不明。7世・了源の妻。8世・源鸞、10世・唯了の母。1347年、源鸞の病没後に後家尼として佛光寺派9世になる。教団の実質上の宗主を勤め教団が拡大した。男尊女卑の時代では稀有なことだった。以後、教団は女性に開かれる。83歳。 ◆存覚 鎌倉時代後期-南北朝時代の真宗の僧・存覚(ぞんかく、1290-1373)。男性。京都の生まれ。諱は光玄(こうげん)、通称は中納言、法印権大僧都。父・本願寺第3世・覚如、母・僧・教弘(きょうこう)の娘の長子。東大寺で受戒し、興親と称した。以後、延暦寺の尊勝院玄智に師事し、十楽院、証聞院などで修学する。この間、日野俊光の猶子になり光玄と称し、存覚と号した。1310年以後、父・覚如を補佐し門弟教化にあたる。1316年、室・奈有を迎え、5男3女をもうけた。1322年、1342年、教学上の相違・家庭問題などにより、父・覚如から2度にわたって義絶された。父子和解後も存覚は本願寺留守職を継がなかった。1353年、大谷の北辺今小路に常楽台を創建し、親鸞の『教行信証』の初めての注釈書『六要鈔』10巻を完成させる。1373年、大谷の北辺今小路で没した。著『浄土真要鈔』『選択集註解鈔』など多数。84歳。 博学・文才があり、本願寺教団の教学基礎の確立に寄与した。関東など広く教化する。了源の興正寺(のち佛光寺)創建をたすけた。その生涯は、子・綱厳(こうごん、慈観)に口述筆記させた『存覚上人一期記』がある。 ◆湛幸 鎌倉時代後期の仏師・湛幸(たんこう、?-?)詳細不明。男性。尾張法印湛幸。慶派仏師。京都・佛光寺の聖徳太子立像、兵庫県有馬・善福寺の南無仏太子像、佐賀県にも仏像が残されているという。 ◆円空 鎌倉時代後期の僧・円空(えんくう、?-?)。詳細不明。男性。乗専。覚如に教えを受けた。出雲路派本山・豪摂寺を開いた。 ◆良円 南北朝時代の画僧・良円(りょうえん、?-?)。詳細不明。男性。法橋。1362年、摂津多田(兵庫県)の光遍寺を開いた空円の像を描いた。 ◆経豪 室町時代中期-後期の浄土真宗の僧・経豪(きょうごう、1451-1492)。詳細不明。男性。法名は尭円。京都の生まれ。父・佛光寺12世・性善(しょうぜん)、母・西園寺実種の娘の長男。1469年、佛光寺14世を継ぐ。比叡山の横槍が入る。1481年、多くの末寺(48坊中42坊)を率いて佛光寺を去る。諸国門徒の大半も従った。本願寺派・蓮如に帰依し、蓮教と改名した。山科に佛光寺の旧称を号した興正寺を建てた。42歳。 ◆経誉 室町時代中期-後期の浄土真宗の僧・経誉(きょうよ、1455-1512)。男性。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。父・佛光寺12世・性善、母・西園寺実種の娘の2男、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子になる。知恩院・徳山和尚の弟子になる。1481年、兄の佛光寺第14世・経豪が本願寺法主・蓮如を慕い出奔し、末寺46坊のうち42坊が佛光寺から離れた。前法主・叔父・光教らの意向により、佛光寺第14世を継いだ。以後、佛光寺立て直しに尽力し、残った6坊を重用する。摂津国平野(大阪府)の檀家・奥野清順に末寺転派阻止に功があったとし、親鸞ゆかりの宝器・漢方薬を授かったという。1483年、先の応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した佛光寺の再建を募った。同年、法眼に叙任され、1487年、大僧都に任じられた。58歳。 ◆真意尼 江戸時代後期-近代の尼僧・真意尼(?-?)。詳細不明。女性。第25世管長・真達の妻。1888年、第27世管長に就き、2人目の女性管長になる。現在の両堂などを再建する。1905年、管長を退職した。 ◆仏像・木像 ◈本堂安置の「阿弥陀如来立像」(99.5㎝)は、内陣須弥壇上に安置されている。平安時代末期作とみられる。了源の「山科佛光寺造立勧進帳」に記された「弥陀の尊形においては、有縁の古像を得てこれを渇仰し」に相当するという。温和な尊顔と長い脚が特徴であり、納衣は通肩、来迎印を結ぶ。 像底は2㎝上げ底。納衣に盛上彩色、載金による袈裟文様があり、了源の取得時に加えられたともいう。木像、寄木造、彫眼。 ◈本堂脇壇に美仏、「厩戸王(聖徳太子)立像」(94.5㎝)(重文)が安置されている。像内に鎌倉時代後期、「元応二年(1320年)正月廿八日」銘の造立文書が納められていた。近代、1934年に、造立文書・了海の遺骨(骨粉)包紙が頭中より発見された。7世・了源が山科に念仏道場を建てる際に、願主になり尾張法印湛幸(たんこう)が造仏した。文書は、円空が筆をとり、、了源は花押だけをすえている。1939年に重文指定された。 16歳の厩戸王(聖徳太子)像とされ、父の第31代・用明天皇の看病をした際の姿という。「孝養太子像」といわれ、比較的に早い時期の基準例になる。美豆良(みずら、角髪、髪を左右に分け、毛先をそれぞれ耳の辺で結び綰[わが]ねた髪型)を結う。三角形の目が慄然としている。袈裟に横被、右手に笏、左手に柄香炉を持つ。像内に了源の師・父である了海の木像を納める。理知的な風貌、豪華で写実的な衣装表現により、現存する太子像の中で最高作品の一つとされている。 木造、彩色、寄木造、胎内を内刳、玉眼嵌入。 ◈本堂両余間に彫像の「七高僧坐像」がある。龍樹・天親(インド)、曇鸞・道綽・善導(中国)、源信・源空(日本)になる。 後醍醐天皇位牌を安置する。 ◈本堂脇壇に「法然上人坐像」を安置している。 ◈「了源木像」(80.1㎝)は、南北朝時代、1344年作になる。像内に「康永三年(1344年)」年記の納入品があった。 ヒノキ材、寄木造、彩色仕上げ、玉眼嵌入。 ◈大師堂の内部須弥壇上に「親鸞聖人坐像」、両脇壇に「中興了源上人坐像」、「前住上人絵像」、両余間に「九字と十字の名尊号」を掲げている。 ◆建築 ◈ 「阿弥陀堂門(本堂門)」は、近代、1879年に建立された。四脚門、切妻造、前後に唐破風、銅版葺。 ◈ 「御影堂門」は、扉・脇・腰の各所を彫刻で装飾している。切妻四脚門。 ◈ ほか「勅使門」、「玄関門」が建つ。 ◈「阿弥陀堂(本堂)」は、近代、1904年に再建されている。本尊・阿弥陀仏を安置している。向背に三層の垂木がある。 10間4面(間口15.6m、奥行21.25m)。単層、入母屋造、本瓦葺。 ◈「大師堂(御影堂)」は、近代、1884年に再建された。親鸞聖人坐像他を安置する。 間口26.5m、奥行33.1m、向拝は間口10.2m。単層入母屋造、本瓦葺。 ◈ 大師堂の北に、黒書院、白書院、南書院、寝殿、大玄関がある。 ◆文化財 ◈ 「光明本尊」は、南北朝時代、1356年に法橋良円(?-?)による。畳一枚ほどの絹布に描かれていている。中央に「南無不可思議光如来」の九字の名号を書き、釈迦・弥陀二尊、印度・中国・日本三国の諸高僧、厩戸王(聖徳太子)の像を描き、後ろより光明が輝く本尊図をいう。親鸞没後、南北朝時代にかけて多く描かれ、佛光寺派末寺に多く伝わる。滋賀県西通寺のものが最高の作品といわれている。 ◈ 紙本着色「絵系図」(重文)は、了源の頃、道場に所属する門徒の肖像を描いて名簿代わりにした。師弟関係が系図として書かれている。了源(1295-1336)が本願寺存覚(1290-1373)の指導を受けて製作したのが始まりという。その当初のものとみられ、「序題」と呼ばれる巻頭の趣意書・像主の法名は存覚自身の筆跡による。了源、了明尼などが写実的に描かれている。布教には、これらの絵系図、名帳が用いられた。一時は本願寺を凌ぐほどに信徒を増やしたという。42㎝×491.4㎝。 ◈ 鎌倉時代の紙本墨書「一流相承系図」(重文)は長性院と共有する。 ◆寺号 佛光寺の寺号について伝承がある。佛光寺が繁盛するにつれ、それを妬む輩が現れる。ある夜、賊は本尊・法宝物を盗み、竹やぶに投げ捨てた。また、賊は本尊を奪い逃げようとした。余りの重さと良心の呵責に耐え切れず、二条河原に捨てたという。 その夜、第96代・後醍醐天皇の夢枕に、東南より一筋の光が差し込む。光のもとに人を遣ると、阿弥陀如来の木像が出てきた。寺の阿弥陀如来像の台座と木像が一致したことから、勅願により「阿弥陀佛光寺」、略して「佛光寺」の寺号が贈られたという。 ◆井水 「豊園(ほうえん)水」の井戸跡がある。別荘の竜(龍)臥城跡地で、秀吉が茶の湯に用いたという。 境内北西にある現在の洛央小学校(下京区仏光寺通東洞院東入)付近は、かつて秀吉が聚楽第に続き築いた別荘・竜臥城の跡地に当たる。その名に因み、近代、1869年に開校した豊園小学校(1875年に改名)があった。 ◆惣構 室町時代後期の応仁・文明の乱(1467-1477)後、町人が自治・自衛のための城郭と堀、惣構(そうがまえ)を築いた。この付近では南北に築造されていた。境内北の洛央小学校付近で校舎を斜め(北西から南東)に横切り、佛光寺境内では南北に縦断していた。 現代、1992年の小学校建設に伴う発掘調査で、堀の深さ2m、幅6.5m、長さは50mの規模で確認されている。 ◆ロングライフデザイン 境内に、現代、2014年より「D&DEPARTMENT KYOTO / d食堂 」が開店した。地域の「ロングライフデザイン」を発掘し、地域らしさを伝えるコミュニティショップ・ネットワークを目指している。仏光寺は京都の活動拠点になっており、ギャラリー・地元食材を使う食堂も併設している。 趣旨は、地域コミュニティと連動した、京都の息の長いデザインを掘り起こし、伝え、学ぶ活動の展開にある。また、京都の歴史・風土・環境に配慮したものづくりを続ける生産者の「もののまわり」の視点に依拠し、持続する営みの本質に迫るワークショップ、脱炭素社会へ向けた取り組みのワークショップなども行っている。 事業内容は、デザイン生活用品商品企画・製造・販売など、 レストラン事業・食品企画販売、 ブランド構築・コンサルティング、 グラフィックデザイン制作、 WEBサイト企画・デザイン・制作、 書籍雑誌編集・出版、 地域観光資源発掘・コンサルティング、 旅行事業・ツアー企画・監修、 デザインコンサルティング部門など幅広い。 ◆樹木 イチョウの大木がある。クロガネモチ、シダレザクラ、ベニシダレザクラ、サルスベリなどがある。 ◆アニメ ◈劇場版アニメーション『名探偵コナン 迷宮の十字路』(原作・青山剛昌、監督・こだま兼嗣、制作・トムス・エンタテインメント、2003年4月)の舞台になった。本堂、山門、周辺のが登場する。 ◈アニメーション『四畳半神話大系』(原作・森見登美彦、制作・マッドハウス、 2010年4月-7月、全11話)の第4話「弟子求ム」で、「明石さん」と「私」が当寺付近を歩いている。 ◆年間行事 修正会(1月1日-3日)、中興上人御祥忌(第7世・了源上人の祥月命日法要)(1月7日-8日)、源空上人御祥忌(源空[法然]上人の祥月命日法要)(1月24日-25日)、涅槃会(2月15日)、厩戸王(聖徳太子)御祥忌(聖徳太子の祥月命日法要)(2月21日-22日)、春期彼岸会・彼岸経(春分の前後3日、計7日間)、善導大師御祥忌(善導大師の祥月命日法要)(3月26日-27日)、春法要・ 親鸞聖人の御誕生会・御歴代年回法要(4月2日)、立教開宗記念(4月15日)、盂蘭盆会(8月14日-15日)、秋期彼岸会・彼岸経(秋分の前後3日、計7日間)、前代門主御祥忌(第32代惠照尼公の祥月命日法要)(11月11日-12日)、御正忌報恩講(宗祖親鸞聖人の御祥月命日法要)(11月21日-28日)、歳暮法要(12月31日)。 日次法要は、晨朝(じんじょう、朝のお勤め)・茶所布教(晨朝後のお茶所での法話) 。月次法要は、中興上人忌日(第7代了源上人命日法要) (毎月7日・8日) 、前代門主忌日(第32代惠照尼公命日法要) (毎月11日・12日) 、聖徳太子忌日(命日法要) (毎月22日の晨朝中) 、源空(法然)上人忌日(命日法要)(毎月25日の晨朝中) 、善導大師忌日(命日法要)(毎月27日の晨朝中)、宗祖聖人御忌日 (宗祖親鸞聖人命日法要)(毎月27日・ 28日 )。 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『浄土真宗本願寺派』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都 歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 上』、『仏教めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『仏像を旅する 京都』、『洛中洛外』、『京都の歴史災害』、『京都 神社と寺院の森』 、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「佛光寺」、ウェブサイト「興正寺」、ウェブサイト「D&DEPARTMENT KYOTO / d食堂 」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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