当道職屋敷址 (京都市下京区)
Ruins of Todo-yashiki
当道職屋敷址 当道職屋敷址 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

「盲人総取締所 当道職屋敷址」碑


豊園水、洛央小学校の同じ敷地内にある。かつてこの付近に豊臣秀吉の別邸・竜(龍)臥城があったという。秀吉が茶の湯の水に好んで使ったという豊園水という井戸があった。井戸は2006年に復活した。 

  佛光寺の北にある洛央小学校前に、「盲人総取締所 当道職屋敷址(もうじん-そうとりしまりしょ-とうどうやしき-あと)」と刻まれた碑が立てられている。
 当道とは当道座(どうどう-ざ)を意味し、中世-近世にかけて男性視覚障がい者の自治的互助組織として機能していた。
◆歴史年表 室町時代初期、琵琶法師・明石覚一(あかし-かくいち、1299/1300?-1371)は、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の勅許により、平曲家の等級を整備した。当道座と呼ばれ、自らは惣検校に就く。その邸宅「清聚庵」は職屋敷(しきやしき)(邸) と呼ばれ、視覚障がい者の技芸試験・裁判・売官などが行われた。
 安土・桃山時代、1587年頃、豊臣秀吉は、五条坊門高倉に別荘・龍臥城を造営する。
 江戸時代、1634年、23代惣検校・小池凡一は、平曲の由来、当道制度を成文化した『当道要集』を幕府に提出する。座は、寺社奉行の管理下に置かれる。
 1670年、土地下付により屋敷が拡充されている。
 1701年まで、赤穂浪士・浅野家断絶以前の京屋敷になる。小野寺十内以下が詰めていた。
 1788年、天明の大火で屋敷は被災した。その後、復興される。
 1864年、蛤御門の変で屋敷は焼失する。その後、再建されなかった。
 近代、1869年、跡地し収用され豊園小学校が開校した。
 1871年、太政官布告により当道制度が廃止され屋敷も廃される。
 現代、1992年、洛央校舎建設の際の発掘調査により、惣構の遺構が発掘された。遺構は保存されなかった。
◆明石覚一 鎌倉時代後期-南北朝時代の琵琶奏者・明石覚一(あかし-かくいち、1299/1300?-1371?)。初名は城了、 明石検校、覚一検校、覚都。関東の生まれ。足利尊氏の従兄弟で、尊氏から明石を領地として与えられ、明石姓を名乗ったという。平曲の始祖・生仏(しょうぶつ)の孫弟子/直弟子・城一(じょういち)と同一人物ともいう。幼年時に失明したともいう。播磨(兵庫県)書写山の僧であり、中年時に失明し平曲家に転向したともいう。筑紫出身の平曲一方(いちかた)流の祖・如一(じょいち)の弟子になる。
 視覚障がい者の団体である当道職屋敷を創設し、総検校(当道座の最高位)の地位に就いたという。晩年、筆録させた『平家物語』の詞章、曲節を改訂、増補した『覚一本』を完成した。「天下無雙の上手」と呼ばれ、一方流平曲を大成し芸能の域にまで高めて隆盛の基になる。第96代・南朝初代・後醍醐天皇、光明院(北朝第2代)、崇光院(北朝第3代)などの寵愛を受けた。天皇から『平家物語』の清書本「雲井の書」を賜ったという。覚一・真一は、『平家物語』中の源頼政が鵺退治し、褒美に菖蒲の前を賜る段の平曲を演奏し、聴衆の高師直(こう-の-もろなお)らを感動させたという。(『太平記』)
 平曲中興の祖、当道の祖になる。門弟に、通一、霊一、清一、景一などがいる。
◆生仏
 鎌倉時代前期の平曲家・生仏(しょうぶつ、?-?)。法名は性仏。東国の生まれ。比叡山の検校職を務めた。壮年で失明し、天台座主・慈円(慈鎮、1155-1225)の庇護を得た。慈円のもとにあった貴族・雅楽名手・信濃前司行長(しなののぜんじ-ゆきなが)と協力し『平家物語』を作り、初めて琵琶伴奏で語ったという。
 生仏については『徒然草』に記されている。平家琵琶(平曲)の開祖とされる。

◆当道座・職屋敷 平安時代後期-鎌倉時代前期の天台僧・慈円(1155-1225)に扶持されていた雅楽の名手・信濃前司行長(しなののぜんじ-ゆきなが、?-?)は、視覚障がい者・生仏(しょうぶつ、?-?)の協力を得て『平家物語』を作ったという。生仏は、琵琶伴奏で語った。琵琶法師らも琵琶の弾奏に合わせ、語物(かたりもの)を伝えたという。(『徒然草』226段)。
 琵琶法師は諸国を巡り平曲(平家琵琶)を演奏し、字の読めない多くの人々にも迎えられた。武家社会に受け入れられ、室町幕府の庇護を受けた。琵琶法師は、地方の民謡を都にもたらし、流行歌(はやりうた)、小歌、早物語なども取り入れていく。
 室町時代初期に、平曲を演奏する男性視覚障がい者の芸能僧たちは、布教・勧進のための宗教組織から離れ、琵琶法師の自治組織である当道座(とうどうざ)を結成した。第54代・仁明天皇の皇子・人康親王(さねやす、831-872)を、雨夜尊(あまよみこ)と崇め始祖にした。村上源氏に属する久我家が本所になった。886年には親王の近侍した者に検校、勾当の官位が与えられたともいう。
 鎌倉時代後期-南北朝時代の覚一(1299/1300?-1371)は、初代の最高責任者である職検校(一老検校/総検校/惣検校)に就く。覚一は当道職屋敷(とうどうしき-やしき)の「清聚庵」(東は高倉通、西は東洞院、北は仏光寺通、南は高辻通)を賜り政務を行った。屋敷には職検校をはじめ十老検校までの10人(職十老、十﨟)が詰めた。職務として、当道座支配のための官位免許、官金配分、裁判などを取り仕切り、治外法権的な立場を獲得した。
 当道座は当道職屋敷に置かれた。官位は盲官と呼ばれ、覚一より定まったともいう。平曲の技量に合わせて四官あった。検校、別当、勾当(こうとう)、座頭の4級の官位を整備し統轄した。江戸時代には官位はさらに細分化され、四官十六階七十三刻とされた。官位に応じ上納金を収めて官位を得ることができた。
 16世紀(1501-1600)に入り平曲の衰退が始まり、後半には三味線が入り演奏楽器になる。後に筝も加わった。
 江戸時代前期、1634年に惣検校・小池凡一らが平曲の由来・当道制度を成文化した『当道要集』を江戸幕府に答申している。以後、幕府の保護を受け、自治権も与えられる。1670年に土地下付により屋敷を拡張している。元禄年間(1688-1704)には、江戸に惣(総)六屋敷が置かれ、長は総録と称した。関東8カ国は江戸が支配した。
 検校は将軍への拝謁も許され、惣検校は大名と同様の権威と格式を持っていた。座法による裁判権も有している。表芸の平曲(平家琵琶) 、裏芸として三曲(箏、地歌三味線、胡弓、後に地歌、箏曲) 、鍼灸(しんきゅう)、按摩(あんま)などの生業を独占した。ほかに学者、棋士、元禄年間(1688-1704)以降は金銭貸付業に就く者もあった。別組織として、盲僧座、瞽女(ごぜ)座などもあった。
 1788年の天明の大火で屋敷は被災している。その後、復興される。1864年に蛤御門の変で再び屋敷は焼失する。その後は、再建されなかった。
 近代、1869年に、跡地は収用され豊園小学校が開校した。1871年に、鶴岡惣検校の時に、太政官布告により当道制度が廃止され屋敷も廃される。1878年に京都盲唖院、それを中心にした京都當道会が設立されている。
◆龍臥城 安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉は聚楽第を完成させた。さらに、この頃、五条坊門高倉に別荘・龍臥城を造営する。城郭の機能も備えていたという。
 佛光寺寺伝によるとその前年の1586年、秀吉の懇請により寺基を五条坊門の龍臥城(現在地) に移したという。
◆惣構 室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477) 後、町人が自治・自衛のための城郭と堀、惣構(そうがまえ)を築いた。この付近では南北に築造されている。洛央小学校付近で校舎を斜め(北西から南東)に横切り、南の佛光寺境内を南北に縦断していた。1992年の校内の発掘調査では、堀は深さ2m、幅6.5m、長さ50mの規模で確認されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『洛中洛外』、『京都大事典』 、「京都當道会」の駒札、ウェブサイト「京都當道会」、『京都當道会史』、『筝と筝曲を知る事典』、ウェブサイト「コトバンク」  


関連・周辺  周辺佛光寺  関連京都當道会  関連,relevance四宮大明神(琵琶・琴元祖四宮大明神)   関連,relevance徳林庵(山科地蔵)  関連,relevance十禅寺   関連,relevance諸羽神社  関連,relevance蝉丸神社(大津市)    
当道職屋敷址 京都市下京区仏光寺通東洞院東入ル北側(洛央小学校前) 洛央小学校  075-344-2093
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光