佛光寺旧跡の碑(興正寺跡) (京都市山科区) 
Bukko-ji Historic Places,Stone monument
佛光寺旧跡の碑(興正寺跡) 佛光寺旧跡の碑(興正寺跡) 
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 山科区東野百拍子町(ひゃく ひょうしちょう)の駐車場の一角に「佛光寺旧址」という大きな石碑が建つ。この地に、親鸞が堂舎を立てたという伝承に因むという。佛光寺の前身である興正寺跡になる。ただ、実際には現在地の北西、西野(にしの)から厨子奥 (ずしおく)付近に存在したともいう。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 鎌倉時代、1212年、越後流罪から帰京した開祖・親鸞は京都に戻り、山科に草庵を結んだという。その後、弟子・真仏(しんぶつ)に託して関東布教の旅立ったという。(寺伝)。また、親鸞六老僧のひとり源海により山科に草庵が結ばれたという。第84代・順徳天皇(1197-1242)により、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)にまつわる「興隆正法」の勅願を贈られ、当初は興隆正法寺(こうりゅうしょうぼうじ)、後に「興正寺」とした。「正しい法を興 し栄えさす」の意がある。
 また、鎌倉時代、1324年、7代・了源は山科に寺を建立したともいう。覚如は寺名を「興正寺」とした。
 1328年頃、了源により、京都・今比叡汁谷(しぶたに、現京都国立博物館付近)に移転した。第96代・後醍醐天皇は「阿弥陀佛光寺」の寺号を贈り、略して「佛光寺」の寺名になった。
 近代、1917年、伝承に基づき「佛光寺旧址」の石碑が建てられる。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆了源  鎌倉時代の浄土宗の僧・了源(りょうげん、1295-1336)。詳細不明。興正寺4世・了海の3男、7世となる。浄土真宗仏光寺派。布教中に伊賀で殺された。また、もと武家の家人の中間(俗名は金森弥三郎)ともいう。覚如に学び興正寺を建立し、焼失後再興する。光明本尊、交名帳、絵系図を使った結縁勧進により西日本での多くの信者を獲得し、真宗教団組織の基礎を築く。
 伊賀七里峠で賊に襲われた。死に臨んで賊徒に対し「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし」と諭したという。号は空性(くうしょう)。仏光寺派中興の祖とされる。
◆源海 平安時代-鎌倉時代の僧・源海(1164-1253)。武蔵国の坂東武者の生まれ。安藤隆光。幼くして二人の息子を失い、1200年、出家し、1214年、関東に移った親鸞を常陸笠間の稲田の草庵に訪ね弟子になった。1245年、鵠沼(げぬま、神奈川県藤沢市)に清光山(鵠沼山)萬福寺を創建した。1250年寺を実子・真弟の誓海に譲る。後に関東六老僧の一人とされた。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 碑文、『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『浄土真宗本願寺派』『日本の名僧』


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