粟田口 (京都市東山区) 
Awataguchi
粟田口 粟田口
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白川小学校校門脇に立つ「粟田口」の石標
 三条大橋の東、白川に架かる白川橋の東から蹴上付近にかけては、かつて「京の七口」の一つ粟田口(あわたぐち、大津口、三条口)といわれた。
 粟田口は、三条大橋、蹴上付近にも置かれたという。街道は、三条街道、近江路とも呼ばれた。
◆歴史年表 奈良時代以前、この地は、豪族・粟田氏により開拓が行われ粟田郷といわれていた。
 平安時代、東海道、大津、伊勢方面の出入口になり、粟田口と呼ばれた。
 平安時代中期、粟田口には刀鍛冶の集落があった。
 永延年間(987-989)、刀鍛冶・三条小鍛冶宗近が三条粟田口に住み、三条小鍛冶と呼称された。
 平安時代中期、刀鍛冶・三条小鍛冶宗近が住んでいる。
 康史年間(1142-1144)、大和の刀工・林国家は京都に移り、姓を粟田氏に改めたという。
 平安時代末、刀鍛冶・粟田口吉光らが住んでいる。藤原忠雅の粟田口山荘が営まれる。
 1156年、保元の乱が起こる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)
、川の名から一帯は白川(白河)と呼ばれた。
 鎌倉時代初期、刀工・粟田国友、国安、国清は、第82代・後鳥羽天皇(1180-1239)の番鍛冶になる。宗近三条派の刀工・粟田口派が粟田口三条坊(粟田口鍛冶町)に住んだという。
 鎌倉時代中期、刀工・粟田口吉光が住した。
 南北朝時代-室町時代初期、絵師・粟田口隆光が粟田口に住む。
 室町時代、軍事上の要衝地であり、率分関も置かれた。 
 1467-1477年、応仁・文明の乱が行われる。
 1536年、天文法華の乱が起こる。
 1568年、織田信長が入京する。
 江戸時代、白川橋より東を粟田口と呼んだ。毎年12月20日(果の二十日)には、六角獄を出された罪人の市中引き回しが行われていた。三条、一条と回り、一条戻り橋を経て、再び三条へ戻り、粟田口にあった刑場へ送られていた。
 江戸時代前期、陶工・三文字屋九右衛門が住む。
 寛永年間(1624-1645)、陶工・三文字屋九右衛門が、粟田神明山付近の土により粟田焼を始める。
 1802年、滝沢馬琴が「京都の陶は、粟田よろし。清水はおとれり」と記している。(『羇旅漫録』)
 江戸時代-近代、付近には茶器・粟田焼窯元が多く存在した。制作された。
 1867年、粟田口の陶工による「京薩摩(きょうさつま)」がパリ万博に出品され好評を博した。
 明治期(1868-1912)、陶工・錦光山宗兵衛は粟田焼を海外に輸出した。
◆三条小鍛冶宗近 平安時代中期の刀鍛冶・三条小鍛冶宗近(さんじょう こかじ むねちか、? -1014)。橘平太仲宗。橘仲遠の子ともいう。東三条院の藤原兼家の番鍛冶だったともいう。人を討つことを謀り、薩摩三重野(みしげの)に流罪になる。刀工・正国の弟子になり鍛冶を学んだともいう。永延年間(987-989)/989年、赦され京都三条粟田口に住み、三条小鍛冶と呼称された。名工と謳われた。
 室町時代、謡曲「小鍛冶」では、刀の焼入れに伏見稲荷山の土を用いたという。その度に稲荷明神に祈願し、986年、第66代・一条天皇の即位に際して、剣「小狐丸」を製作した。話は浄瑠璃、歌舞伎にも採られた。
◆粟田口国家 平安時代後期の刀工・粟田口国家(?-?)。国頼の子。康史年間(1142-1144)、大和より京都に移る。地名の粟田より粟田氏を名乗る。子に、国友、久国、国安、国清、有国、国綱がある。
◆粟田口吉光 鎌倉時代後期の刀工・粟田口吉光(あわたぐち よしみつ、 ?-?)。藤四郎。国吉の子、弟子ともいう。正応年間(1288-1293)、活躍したとみられる。1尺以下の短刀の名手といわれた。「平野藤四郎」「一期一振」などの名物があり、武将に愛好された。
 京都粟田口派、「三作(ほかに正宗、郷義弘)」の一人。作風は小板目鍛え、刃文は直刃、腰に互の目を連ねる。
◆粟田口隆光 南北朝時代-室町時代初期の絵師・粟田口隆光(あわたぐち りゅうこう/たかみつ、 ?-?)。以盛、粟田口法眼。土佐光顕の3男。民部少輔に任じられ、後に出家し、法眼になる。父から土佐派の画法を学ぶ。絵巻物、水墨画を得意とした。清凉寺「融通念仏縁起絵巻」(1414)2巻のうち絵二段、「石山寺縁起絵巻」を描く。粟田口街道に住んだ。
 粟田口派は洛東の寺社の御用絵仏師集団であり、やまと絵も手掛けた。
◆三文字屋九右衛門 江戸時代前期の陶工・三文字屋九右衛門(さんもんじや くえもん、?-?) 。九左衛門。尾張瀬戸の生まれ。瀬戸物の焼物師であり、1624年頃、粟田口で開窯、茶器を焼き「粟田焼(粟田口焼)」として知られた。3代将軍・徳川家光以来、幕府御用御茶碗師を務めた。粟田焼の始祖。
粟田口 粟田口は、古く愛宕郡粟田郷に属した。粟田口の地名由来は、粟田氏一族が住したことによる。
 粟田郷は、上粟田郡、下粟田郡に分かれている。上粟田郷は浄土寺、鹿ヶ谷、岡崎付近、下粟田郷は粟田口南、四条以北を指した。
粟田山 粟田口東に連山の粟田山がある。歌枕にもなっている。「粟田山こゆともこゆと思へども猶逢坂ははるけかりけり」(『古今和歌六帖』、喜撰法師、八九九)。
◆京の七口 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆京薩摩 近代、粟田口の陶工により、薩摩焼をより洗練させた「京薩摩(きょうさつま)」が制作された。1867年、パリ万博に出品され好評を博した。
 1870年、錦光山工房窯元の6代・錦光山(きんこうざん)宗兵衛は、京薩摩の技法を開発する。1880年頃までジャポニズムの流行に乗り、欧州への輸出が隆盛になる。1884年に7代が水金(すいきん)を上絵の具に用い金彩色を向上させる。1900年、7代はパリ万博で金賞を受賞する。アールヌーボーの隆盛に合わせ、洋画家・浅井忠も加わり意匠が改良された。1904年、7代はセントルイス万博で大賞を受賞する。1914年の第一次世界大戦後は次第に衰微し、1935年に窯は閉じられた。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『史跡探訪 京の七口』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』『京都の地名検証』 、ウェブサイト「コトバンク」


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