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宝迎寺 (京都市山科区) Hogo-ji Temple |
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宝迎寺 | 宝迎寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 地蔵尊 ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() ![]() おさん茂兵衛供養塔 ![]() 「俗名 茂兵衛 おさん 菩提」 ![]() 【参照】「大塚西浦町」の町名 |
山科の旧奈良街道沿いに宝迎寺(ほうごう-じ)がある。 山号は 白蓮池山、院号は 荘厳院という。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来を安置している。 ◆歴史年表 平安時代、1184年、薬師堂として創建された。その後、戦乱などで荒廃する。 室町時代、応永年間(1394-1428)、宝迎寺に改め再建されたという。 近代、1868年頃、京津街道の改修工事に際し、粟田口刑場よりおさん・茂兵衛の墓塔を移したという。 ◆地蔵尊 長屋門の右手の地蔵尊は空海(774-835)作という。 ◆建築 長屋門がある。 ◆おさん・茂兵衛 江戸時代前期、1683年旧9月22日、裸馬の背に乗せられ後ろ手に縛られた男女3人は、市中引き回しの上、粟田口刑場に送られた。2人の男女は磔刑になり、もう一人の女は斬首後、3人の首は数日間晒された。 姦通の罪により磔になったのは大店の大経師(だいきょうじ)屋意俊(いしゅん)(烏丸通仏光寺下ル)の妻・おさん(さん)、手代・茂兵衛(もへえ)だった。晒し首になったのは、2人の密通の仲を持った下女・たま(玉)だった。おさん・茂兵衛の2人は丹波に逃れ、発見され捕らえられていた。 大経師屋とは、毎年、土御門(つちみかど)家が作成した新年の暦(大経師暦)を出版し、京都・大坂一円に販売する権利を独占していた大店だった。 すぐに事件を題材にし脚色された歌祭文(うたざいもん)が語られた。これは、近世俗曲の一つであり、事件・風俗などを詠み込み、門付け芸人が三味線などの伴奏で歌って歩いた。 江戸時代前期、1686年には井原西鶴(1642-1693)は、浮世草子『好色五人女』に仕立て、「大経師おさんと茂右衛門の姦通」(巻3)として出版している。 江戸時代中期、1715年に初演された、浄瑠璃「大経師昔暦(だいきょうじ-むかしごよみ)」は、近松門左衛門(1653-1725)作による。処刑後33回忌の年に当たっていた。そのほか、歌舞伎劇・古典落語にもなった。 ◆墓 「おさん茂兵衛供養塔」が本堂裏手の墓地にある。近代、1868年頃、京津街道の改修工事に当寺檀家総代・阿口(あぐち)源蔵が関わっていた。 この時、街道筋の粟田口刑場は取り潰されている。墓塔などは工事の礎石などに転用されていた。源蔵は、2人の菩提を弔うために、石柱墓塔を当寺に移したという。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「浄土宗寺院紹介」、『京都戦国武将の寺をゆく』、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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