若州(若狭)小浜藩邸跡 (京都市中京区)  
The ruins of residence of Wakashu-obama Domain
若州(若狭)小浜藩邸跡  若州(若狭)小浜藩邸跡
50音索引,Japanese alphabetical order   ホーム,Home 50音索引,Japanese alphabetical order   Home
「 若州 小浜藩邸跡」の石碑、酒井忠和書


石燈籠


石燈籠、「蔓延二辛酉年二月」
 二条城の南、池ノ内町に「若州 小浜藩邸跡(わかしゅう-おばまはんていあと)」の石碑、燈籠がある。
 この地には、江戸時代に若州(若狭)小浜藩邸の京屋敷があった。江戸時代後期の藩主・酒井忠義は、2度、京都所司代の任に就いている。
◆歴史年表 江戸時代初期、藩邸の京屋敷は、当初は西ノ京池ノ内町にあった。
 その後、藩邸は姉小路神泉苑町に移る。
 1863年12月-1867年9月21日、一橋(徳川)慶喜が住した。慶喜が二条城に移るまでの3年10カ月間、京屋敷は幕府の活動拠点になった。
 現代、2002年、石碑、駒札が小浜市により立てられる。
◆酒井忠義 江戸時代後期の若狭小浜藩藩主・酒井忠義(さかい-ただあき、1813-1873)。幕末維新期の若狭小浜藩(福井県)藩主。酒井忠進の6男。二条所司代屋敷で生まれた。義兄・酒井忠順(ただより)の養子。1834年、藩主酒井家12代になる。奏者番、寺社奉行を経て、1843年、第48代・京都所司代になる。奢侈(しゃし)禁止令解除、第121代・孝明天皇践祚などを司る。1858年、日米修好通商条約調印により朝幕関係が悪化し、第52代・所司代に再任される。老中・間部詮勝を補佐した。将軍継嗣問題で、井伊直弼の腹心・長野主膳の進言により一橋派志士を弾圧し、かつての家来・梅田雲浜を逮捕した。1858年-1859年、大老・井伊直弼の安政の大獄の発端になる。1860年、桜田門外の変後、1862年、公武合体のための将軍・徳川家茂と皇妹和宮の結婚に導く。同年、島津久光の挙兵上京の対応にともない辞職し、隠居、蟄居処分を受けた。1868年、藩主・忠氏が死去し、名を禄(ただとみ)と改め、再相続し14代になった。1869年、版籍奉還により小浜藩知事になる。1871年、廃藩置県に伴い免官、居を東京に移した。61歳。
◆若州小浜藩邸 若州屋敷は二条城南西の池ノ内一帯にあった。譜代(1600年の関ヶ原の戦い以前からの徳川氏家臣大名)の若州小浜藩酒井家の京都藩邸跡になる。若州屋敷とも呼ばれた。
 敷地は神泉苑町通から智恵光院通のまでの東西220m、御池通から三条通までの南北260mあった。さらに、西側に家臣の屋敷があり、全体で2万坪(66116㎡)の広さがあった。
 一橋(徳川)慶喜(1837-1913)は、1863年12月-1867年9月21日まで藩邸に住していた。幕府の活動拠点になり、四候会議(福井藩第14代藩主・松平慶永[春嶽]、土佐藩第15代藩主・山内豊信[容堂]、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城)、京都守護職、老中、所司代らとの協議を重ねた。その後、二条城に移り、1867年の二条城での大政奉還の布告につながったという。
 若狭小浜藩の幕末の動きとして、13代忠氏(1835-1876)は、水戸天狗党を追討している。1868年、鳥羽・伏見戦では、東軍(幕府軍)に従い橋本で敗れる。敗走途中に山陰鎮撫総督に降伏し、以後、官軍に協力した。
◆燈籠 若狭小浜藩遺構は、燈籠1基が残っており、石碑の傍らに立てられている。近くの住家庭園にあった藩邸の燈籠を移したという。
 灯籠の側面に江戸時代、「蔓延二辛酉年2月(1861年)」、正面に「白須甲斐守源政春」と刻まれている。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 「福井県小浜市の説明板」、『京都 幕末維新かくれ史跡を歩く』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area二条城(元離宮二条城)  周辺,surrounding area    関連,relevance     
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 若州(若狭)小浜藩邸跡 〒604-8375 京都市中京区西ノ京池ノ内町 
50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home   top 50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home   top
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光