西福寺 (京都市左京区)
Saifuku-ji Temple
西福寺 西福寺 
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「上田秋成乃墓」の石標






世継地蔵尊


世継地蔵尊


世継地蔵尊



水子地蔵尊






十三重塔
 西福寺(さいふくじ)は、江戸時代後期の文人・上田秋成の墓所があることで知られている。山号は源智山という。
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来を安置する。 
 法然の霊跡札所。 
◆歴史年表 鎌倉時代前期、法然弟子の源智(1183-1239)によって開創されたという。
 江戸時代後期、1809年、上田秋成の没後、当寺に葬られる。  
 1864年、当寺のことが記されている。この頃、南禅寺に属したという。(『花洛名勝図会』)
◆源智 平安時代後期-鎌倉時代中期の浄土宗の僧・源智(げんち、1183-1239)。妙法院法印、号は勢観房(せいかんぼう)。父は平清盛の5男・武将・平師盛(もろもり)、母は秘妙。1185年、平家滅亡後、源氏の探索から逃れ、母・秘妙は密かに源智を法然の弟子・真観房感西に託した。1195年、13歳で法然の門に入り、円頓戒を受けた。源智は終生身分を隠し、感西、法然両師に仕えたという。後に慈円により出家する。その後、18年間、法然に近侍し、本尊、大谷の坊舎、円頓戒の道具などを譲り受ける。1212年、法然の臨終の際に、法然が書いた遺訓『一枚起請文(きしょうもん)』を授けられた。同年、法然没後、勧進し阿弥陀仏像を造立した。胎内に源智自筆の願文、4万数千人の結縁者交名(けちえんしゃ-きょうみょう)を納めた。(滋賀・玉桂寺)。その後、賀茂社の傍ら神宮寺・功徳院(知恩寺の基)に住し、隠遁生活を送る。念仏衆の紫野門徒を擁していた。1234年、東山大谷の法然廟を修理し、知恩院の基を築く。著『選択(せんちゃく)要決』、醍醐寺本『法然上人伝記』。56歳。
 墓は百万遍知恩寺(左京区)にある。
◆上田秋成 江戸時代中期-後期の歌人・国学者、読本作家・上田秋成(うえだ-あきなり、1734-1809)。幼名は仙次郎、通称は東作、別号は鶉居、漁焉など。大坂・曽根崎の娼婦の私生児として生まれた。父は旗本・小堀左門政報ともいう。母は松尾九兵衛富喜の娘ヲサキ。4歳で堂島の紙・油商嶋屋・上田茂助の養子になる。翌年、痘瘡に罹る。27歳で植山たまと結婚、翌年養父が亡くなり嶋屋を継ぐ。漢学を儒医・都賀庭鐘(つが-ていしょう)、国学を建部綾足(たてべ-あやたり)、加藤宇万伎(かとう-うまき)に学ぶ。1766年、浮世草子「諸道聴耳世間猿」を刊行。1771年、火事に罹災し、医学を志す。1776年、尼崎で医を開業した。1786年、本居宣長と古代の音韻、日の神をめぐり論争する。1787年、大坂近郊の淡路庄村に隠遁した。1788年、医業を廃した。1790年、左眼を失明する。1793年、60歳で妻とともに京都へ移る。知恩院門前の祇園袋町、南禅寺山内常林庵裏、東洞院四条、衣棚丸太町などに移る。歌人・国学者・小沢蘆庵、漢学者・村瀬栲亭、画家・松村月渓、歌人・伴蒿蹊(ばん-こうけい)、俳人・与謝蕪村らと親交した。1789年、妻を失い、翌年、両目を失明した。最期は、友人の歌人・羽倉信美(寺町広小路)の百万扁屋敷内で没した。76歳。
 煎茶の手引書『清風瑣言』(1794)により、その普及を助けた。近世日本文学の代表作とされる怪異小説『雨月物語』(1776)、『春雨物語』(1808)など著書多数。76歳。
◆本尊 本尊の阿弥陀如来は、法然の念持仏だったという。平安時代の恵心僧都(源信、942-1017)作ともいう。(『花洛名勝図会』)
◆文化財 ◈ 「上田秋成像」は江戸時代作で、狩野柳雪(1647-1712)筆による。
 ◈ 江戸時代の陶器製「上田秋成坐像」は、穏やかな表情で微笑み、胸前で手を合わせる。清水焼の初代・高橋道八作という。江戸時代、1803-1804年に作陶した。附上田秋成自筆の「自像筥(はこ)記」は、江戸時代、1808年の作による。
 ◈ 上田秋成筆「掛け軸」。
◆庭園 庭は境内の南端にある。降り井、手水鉢、飛び石などが配されている。
◆上田秋成・墓 本堂奥の内庭に、外柵に囲まれた上田秋成の墓がある。碑の高さ二尺七寸(82㎝)、幅一尺一寸五分(35㎝)、台座は高さ一尺一寸(33㎝)、横は二尺七寸(82㎝)という。
 秋成の妻・たま(瑚璉尼)は九条の農家の出だった。晩年は京都で送ることを決めていた。1793年、秋成60歳で、夫婦で京都に移る。秋成は南禅寺界隈に庵を結んだこともあるという。当時の西福寺住職・玄門(げんもん)と懇意になり、生前より当寺に自らの墓所を決めていたという。だが、1789年に妻が先発つ。秋成は最晩年に、視力のほとんどを失っている。窮乏の末、1809年、梨木神社の南東にあった友人の歌人・羽倉信美(寺町広小路)の百万遍屋敷内で没した。その後、西福寺に葬られたという。
 現在の秋成の墓石は、69歳の時に立てられた生前墓ともいう。ただ、1821年の秋成13回忌に、友人の画家・森川竹窓(1763-1830)らが建立したともいう。現在の墓碑には「上田無腸翁之墓」と刻まれている。この「無腸」とは「無腸公子(むちょうこうし)」の略で、蟹のことをいう。なお、秋成の号の一つに「無腸公子」がある。秋成は自らを「性は狷介峭直、世事に拘らず、名利を事とせず、嘗て謂う、人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。蓋しこれは蟹の異名である。」と語ったという。また、「無腸」には腹の坐っていない男、無節操な男の意味もあり自虐的な意味も含んだ。
 台座の上に墓標が立てられている。大きな蟹が正面を向く珍しいこの台座は、画家・伊藤若冲(1716-1800)が、石峰寺で五百羅漢を彫った残石を使ったという。秋成が無腸の号という縁で運ばせたという。(『春雨梅花歌文巻』)。石は、生前の仮住まいで愛用していた沓脱石ともいう。
 秋成の墓といわれるものは、香具波志神社(大阪市淀川区)にもあり、こちらは当寺に先立つ、江戸時代、1811年に立てられたという。秋成が幼少の頃に疱瘡を患い、加島稲荷(香具波志神社)に祈願した。68歳まで生きられると告げられたという。以来、当社への参詣を怠らなかったという。また、一時期、香具波志神社の境内にも住したらしい。秋成没後、3年を経て、生前に親交のあった神主・藤氏という人が墓を立てたという。
 西福寺の南、南禅寺の参道を経て旅館「八千代」(左京区南禅寺福地町34)がいまもある。この地は、秋成が南禅寺・新掌磯貝の懇意を頼り、晩年に隠棲した。自ら名付けた「うずら居の庵」の跡地という。(『花洛名勝図会』)。1807年秋、秋成は自ら書きためた草紙を無益とした。後世に残さないために、稿本の一部を庵の古井戸に投じた。隣人で秋成の生活を扶助していた大沢清規は、「今は心ゆきぬ 長き夢 見果てぬ程に 我が魂の 古井におちて 心さむしも」と詠んだ。井戸は「夢の井戸」と名付けられる。その井戸跡とされるものは、いまも旅館の片隅に残されている。
 1946年、作家・谷崎潤一郎は、秋成の墓を探し当てている。谷崎は、南禅寺の近くに一時居(前の潺湲亭)を移していた。
◆野仏庵 野仏庵(左京区一乗寺)に、上田秋成ゆかりという茶室「雨月席」がある。南禅寺より移築されたという。
◆年間行事 秋成忌(10月10日)。


*普段は非公開
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』、『花洛名勝図会』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都事典』、『増補版 京都の医史跡探訪』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』 、ウェブサイト「コトバンク」


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西福寺 〒606-8435 京都市左京区南禅寺草川町82-1   075-771-7909
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