建仁寺開山堂(開山塔) 〔建仁寺〕 (京都市東山区) 
Kennin-ji Temple,Kaizan-do
建仁寺開山堂  建仁寺開山堂
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開山堂(開山塔)


経蔵
 建仁寺境内の西に、建仁寺開山・栄西を祀る塔頭・開山堂(かいざんどう)の楼門が見えている。塔所は開山塔とも呼ばれている。かつて護国院、古くは興禅護国院といった。現在は、本坊に属し、山内の住職が一年ごとの輪番制で勤行している。
 境内には楼門、開山堂、客殿、経蔵などが建ち並び、すべて非公開になっている。 
◆歴史年表 鎌倉時代、1215年、この地(現在の入定塔)で開山・栄西が入定したといわれている。
 室町時代、1442年、祖塔が修造される。
 1465年、足利義政の命により、山内の復興のために普光庵の雪巌永崇、全密西堂、恵光蔵主らが高麗に派遣された。
 1458年、雪巌らは、金一万貫を得て帰国、建仁寺の三門、僧堂、さらに開山塔、経蔵も修造された。この時、高麗蔵経642函も持ち帰られる。
 1480年、祖塔が修造される。
 安土・桃山時代、1598年、祖塔が修造される。
 江戸時代、1663年、開山塔を修理する。
 1664年、開山塔の修造成り、新彫の祖像の開眼法要が行われる。
 1713年、祖師像新彫安座点眼法要が執り行われる。
 1754年、北?道爾が祖塔を重修する。
 1837年、宝蔵が焼失し高麗蔵経の大半が失われる。
 1850年、鎌倉・寿福寺は、祖塔再建のために本山、塔頭に100両を寄進する。
 近代、1877年、妙心寺・玉龍院客殿を移築し現在の客殿とする。
 1884年、現在の開山堂が建立された。鳴滝・妙光寺の門を移築し現在の楼門とした。
 現代、2011年-2014年、楼門の半解体修理が行われる。
◆栄西
 鎌倉時代の臨済宗の僧・栄西(えいさい/ようさい、1141-1215)。備中(岡山県)の吉備津神社の社家・賀陽(かや)氏に生まれた。幼名は千寿丸。千光祖師ともいわれる。天台宗の安養寺の静心につく。1153年、13歳で比叡山に上り、1154年、出家し栄西と称した。1157年、法兄・千命により密教を学ぶ。1159年、比叡山北谷八尾の竹林房、顕教の有弁に学ぶ。比叡山を下り、1167年、故郷の安養寺で灌頂を受け、備前・金山寺、日応寺、伯耆の大山寺で行を行う。1168年、宋船で宋に半年間留学し、天台山、阿育王山で臨在禅に触れる。現地で東大寺の重源と遭う。台密葉上流を開く。1175年より、今津の誓願寺に住した。1185年、第82代・後鳥羽天皇の勅により神泉苑で祈雨修法を行う。葉上の号を贈られる。1187年再び南宋に入宋するが、念願したインド行きはかなわなかった。天台山、天童山に入り、大蔵経を三度読破する。臨済宗黄竜派、万年寺の虚庵懐敞に禅を学び、印可を得た。1191年、帰国し臨済宗を開宗した。翌1192年、筑前に報恩寺を建てた。平戸の庵(後の千光院)で日本初の臨在禅(禅規)を行う。1194年、栄西、達磨宗の大日能忍らは、延暦寺衆僧により、禅宗弘法を禁じられた。やむなく、1195年、日本初の禅寺・聖福寺を博多に建立した。臨済禅は公家に拮抗する鎌倉幕府、2代将軍源頼家に信を得る。1199年頃、鎌倉に移る。1200年、北条政子発願により鎌倉・寿福寺を開く。源頼朝一周忌の導師を勤めた。1202年、幕府の外護により建仁寺などを建立、重源を継いで、1206年、奈良・東大寺の僧正にも就いた。1208年、法勝寺再建にも関わる。1211年より、宋より帰国した泉涌寺開山・俊じょうを建仁寺に招き律学を講じさせた。1213年権僧正。日本臨済宗千光派の祖。鎌倉の寿福寺で亡くなったとも、建仁寺で亡くなったともいう。境内、開山堂に栄西を祀る。建築を学び、『喫茶養生記』(1214)を著し茶を勧めた。門弟2000人、孫弟子1万人にものぼったという。
 栄西の禅は、天台僧として禅を末法の教えとし、禅による天台宗の復興を唱えた。戒律自主厳守の斎戒勧進を勧める。『興禅護国論』(1198)では、末法の世で戒律の重要性、最澄が伝えた禅の復興を主張した。人は仏性を本性とするとした。禅は他宗教義を否定するのではなく、天台の摩訶止観を引き継ぐものとし、天台、密教、禅の統合を試みた。
◆円爾弁円 鎌倉時代の臨済宗の僧・円爾弁円(えんに べんえん、1202-1280)。駿河国に生まれた。久能山の堯弁に天台教学を学ぶ。1219年、園城寺で得度、奈良東大寺で具足戒を受けた。上野国・長楽寺の栄朝から禅を学び、久能山、鎌倉・寿福寺 へ移った。1220年、京都へ入り、1223年、園城寺に戻った。1235年、入宋して律、天台、径山万寿寺の臨済宗・無準師範などに臨済宗楊岐派を学ぶ。1241年、帰国、博多に崇福寺、承天寺、肥前に万寿寺などを開山した。1243年、東福寺に招かれている。また、建仁寺に入り、1258年、再興した。1269年、東大寺大勧進職なっている。朝廷、鎌倉幕府の帰依を受けた。第88代・後嵯峨、第89代・後深草、亀山上皇(第90代)に大乗戒を授けた。天皇より与えられた国師号「聖一国師」(1311)はその初例となった。
 宋より多くの仏典、典籍持ち帰るとともに、製粉機械の図を伝え製麺を起こした。また、杭州径山の茶種を持ち帰り、静岡茶の茶祖とされている。多くの弟子を育てている。
◆明全 鎌倉時代初期の臨済宗の僧・明全(みょうぜん、1184-1225)。伊勢の生まれ。臨済宗黄竜派。房号は仏樹房。比叡山横川・杉井坊明融により出家、建仁寺の栄西に禅律を学びその法嗣。15歳の道元が師事した。1223年、道元、高照、廓然らと入宋し、景福寺の妙雲、明州・太白山景徳寺で、栄西の師・無際了派に参じた。栄西顕彰のため「日本国千光法師祠堂記」を立石した。病に倒れ、天童山の了然寮で亡くなる。
 明全は栄西と道元を引き合わせた人物という。明全没後4年、道元は明全の遺骨を日本に持ち帰る。道元は「舎利相伝記」を著し、建仁寺に手篤く葬ったという。
◆一庵一麟 南北朝時代-室町時代の臨済宗の僧・一庵一麟(いちあん いちりん、1329-1407)。摂家貴族・九条道教の子。臨済宗黄竜派・竜山徳見の法嗣。薩摩・大願寺、万寿寺、建仁寺67世、天竜寺、南禅寺の住持。文筆にすぐれた。
◆源頼家 鎌倉時代の第2代将軍・源頼家(みなもと の よりいえ、1182-1204)。鎌倉生まれ。父は源頼朝、母は北条政子の長男。1199年、父の死により鎌倉殿の地位を相続、頼朝の遺跡継承を認める宣旨を受け、1202年、征夷大将軍になる。土御門通親に乗じて失政、訴訟の直断を停止され、以後、外祖父・北条時政らの宿老による合議に移された。1203年、時政は頼家急病の機を突き、3代新将軍に源実朝を立て、執権時政が幕政を握る。頼家は出家、伊豆・修禅寺に幽閉の身となり、北条氏により暗殺された。墓は指月殿(修善寺町)の傍らにある。23歳。
◆開山堂 開山堂(開山塔)は、楼門の東(奥)に建てられている。建物は、江戸時代、1884年に建立された。入母屋造、本瓦葺の礼堂(らいどう、7間5間)、石壇の相の間(あいのま)、祠堂(しどう)からなる。
 堂正面に額「華蔵(けぞう)世界」の扁額が掛る。堂内には第103代・後土御門天皇より贈られたもう一つの扁額「華蔵世界」が掛けられている。霊松廟とも呼ばれるのは、かつて霊木の松が植えられていたことに因む。松は、江戸時代、1747年に枯死した。
 堂内には四半敷きのせん瓦が敷かれ、無尽燈が灯る。天井は礼堂に2段の格天井、相の間に中央1間に鏡天井、両脇に化粧屋根裏・海老虹梁、相の間の中央に香炉が置かれ、その奥に土檀(0.6m×2.7m×3.6m)が盛られている。石と瓦で積み上げられている。その上は木柵で囲まれ、中央に土饅頭様の石が載せられている。この地は、開山・栄西が入定(にゅうじょう)した地といわれ、入定塔(墓所)と呼ばれている。土中に座棺が納められている。
 奥の祠堂(真室)は、享和年間(1801-1804)に建立された。西に階段が付けられている。その上に、江戸時代、1664年に慶派・左京法橋康乗(1644-1689)作といわれる木像の祖師像(開山像)が安置されている。また、像は、1713年、雲外東竺(うんがい とうじく、1630-1730)が新彫したものともいう。右前方に江戸時代、1705年作の乙護法(おとごほう)天童像があり、行者・慈伝が寄付した。天童は開山に常に給侍していた人という。
 階段下の脇壇右(南)に江戸時代、1752年、仏師・辰巳蔵之丞作の開基・源頼家木像がある。束帯坐像になる。左(北)に祖師塔銘(開山略歴文)を刻む木碑が安置され、碑は亀の背に載る。清住院の全室彦勲が寄進し、撰文は1404年の如蘭による。
 開山堂ではいまも勤行が行われている。鎌倉時代、10世・聖一国師(円爾、1202-1280)以来の慣習に因る。国師は午前0時に東福寺での読経を済ませた後、駕籠で建仁寺に向かい、夜半に勤行していたという。江戸時代以前、開山の法系になる黄龍派(おうりゅうは)の両足院、霊源院の住持が行った。その後、輪番制に代わる。現在、山内の各住職が18声の鐘を撞き、洗面、献粥後に読経を行っている。午前2時、午前10時、午後2時の一日3回行われている。
◆建築 石段上の楼門は西面している。近代、1884年(1885年、1887年とも)に鳴滝・妙光寺の門を移築した。建物は江戸時代中期に建立されている。宝陀門(ほうだもん)、宝陀閣とも呼ばれ、門の正面に「宝陀閣」の額が掲げられている。楼閣造、3間2間1戸二重門。両側に山廊が付く。本瓦葺。内部は鏡天井、四半敷、花頭窓付。階上は化粧屋根裏、棟木、棟札、陶製十六羅漢などを安置する。2010年より2年の歳月をかけて半解体修理が施された。
 客殿(方丈)は、開山堂の北(左)に建てられている。1877年に妙心寺・玉龍院客殿を移築した。江戸時代中期に建立されている。南面し、中央に桟唐戸、舞良戸、板戸、前に広縁がある。客殿本尊として赤旃檀釈迦如来像を安置している。像は、嵯峨・清凉寺の同像摸刻になる。障壁画は、室中に江戸時代の加藤文麓(1706-1782)筆、水墨画「龍虎図」は東に龍、西に竹林の虎を描いている。原在中(1750-1837)筆の上間二の間の「松鶴波図」、二の間の「白梅群禽図」、下間一の間の「水墨山水図」、杉戸絵「孔雀図」は番を描く。「瀧図」で飾られている。
 楼門の南東に経蔵がある。室町時代、1435年に建仁寺山内の諸堂が焼失している。1465年、足利義政の命により、山内の復興のために普光庵の雪巌永崇、全密西堂、恵光蔵主らが高麗に派遣された。1458年、金一万貫を得て帰国し、建仁寺の三門、僧堂、さらに開山塔、経蔵も修造された。この時、高麗蔵経642函も持ち帰られている。義政も訪れ高麗蔵経を閲覧したという。その後、江戸時代、1837年に宝蔵が焼失し蔵経も失われる。ただ、塔頭・堆雲軒に寓居していた越前・常照寺、本願寺派の僧が宝蔵より持ち出し閲覧していた49函は残り、その後経蔵に納められた。
 前庭に明全塔が立ち、道元が宋より持ち帰った師・明全の遺骨が納められている。
◆菩提樹 開山堂、楼門、客殿で囲まれた前庭に、石の囲いの中に左右2本の菩提樹が植えられている。釈迦正覚の聖木とされ、栄西が宋より持ち帰ったものという。「伝法中興のしるしをためさん」として寺の東北隅に植えたものという。
 なお、インドボダイジュはクワ科、日本のボダイジュといわれるものはシナノキ科とみられる。
◆墓 経蔵の南東、木立の中に明全(仏樹房)の墓(明全塔)がある。小さな五輪塔が立てられている。
 明全の墓の東に一庵一麟の墓がある。 


*普段は非公開建物、庭園の撮影は禁止
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』『京都 神社と寺院の森』


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開山堂の前にある洗鉢池


開山堂 〒 京都市東山区小松町584,大和大路四条下る     
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