梅宮社(明智祠)・明智光秀首塚 (京都市東山区)
 Umemiya-sha Shrine
梅宮社・明智光秀首塚 梅宮社・明智光秀首塚 
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五重石塔


「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の石碑


梅宮社(明智祠)


梅宮社(明智祠)


梅宮社(明智祠)、光秀木像が納められている厨子



梅宮社(明智祠)、光秀の木像、説明写真より


梅宮社(明智祠)

 三条通の白川橋南、川の東方路地奥に、小祠の梅宮社(明智祠)が祀られている。この地は、武将・明智光秀の首塚ともいう。地元の「梅光会」が塚を守っている。 
 石塔が立てられており、首より上の病に霊験あるという。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年6月13日、明智光秀は織田信長を急襲した。この本能寺の変後、光秀は小栗栖(伏見区)の竹薮道で、残党狩りの土民の襲撃を受けた。光秀は深い傷を負い、自刃したという。腹心がその首を落とし、知恩院前まで来た時に夜が明け、この地に埋めたという。また、村井長門守の士卒に発見され、粟田口黒谷道に晒された。その地に立てられた首塚が現在地に遷されたともいう。
 江戸時代、1845年、五重石塔が立てられ、光秀の首塚として知られるようになる。本来の所在地については諸説あり、近代以前はこれより東、上段にあったという。江戸時代、能の笛吹・明田理右衛門によりこの地に遷されたともいう。 
 近代以降、現在地に遷されたともいう。(『坊目誌』)
 1903年、光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智禅定門」と刻んだ墓石(石碑)が立てられ供養された。
◆明智光秀 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち-みつひで、1528?-1582)。名は十兵衛、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)。美濃(岐阜県)に生まれた。明智光綱の子。美濃の土岐氏支流ともいう。娘は細川ガラシャ。初め斎藤氏に仕えた。越前・朝倉義景に仕え、1566年、織田信長に仕えた。1567年、滝川一益に従い北国征伐に加わる。1568年、信長入京に当たり、政務に当り足利義昭のために公家側に働きかけた。1569年、公家寺社領仕置などに携わる。信長と義昭の対立を仲介する。1570年、信長の摂津、近江の出陣に従う。1571年、近江・坂本城主になる。1572年、浅井氏の小谷城包囲に参加する。1573年、越前朝倉氏攻略に加わる。1574年、大和多聞山城を守備し、美濃、河内に転戦した。1575年、功により惟任日向守と称した。信長の命で丹波の攻略に着手し、福知山城を築城した。年貢を軽減するなど民に慕われた。1579年、強く抵抗した八上城の波多野秀治らを下して丹波平定した。1581年、因幡鳥取城攻めに羽柴(豊臣)秀吉を援け、丹後の検地を断行する。1582年、甲州・武田勝頼攻撃に従う。信長より徳川家康の慰労を命じられ、さらに、備中高松城包囲に救援を命じられる。光秀は反発し、亀山城(亀岡市)に入り、愛宕山に詣り謀反を決意した。備中出陣の名目により、6月1日、兵1万3000を率い、亀山城を発した。老ノ坂を経て、2日、本能寺を急襲し、信長を自刃に追い、二条御所の信忠を自滅させた。(本能寺の変 ) 。13日、取って返した秀吉との山崎の戦いに敗れる。一旦、勝竜寺城に入る。坂本城に落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃により傷を負い、自刃して果てたという。「三日天下」といわれた。故実、典礼に通じた。法名は秀岳宗光。56歳。
◆溝尾庄兵衛尉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・溝尾庄兵衛尉(みぞお-しょうべえのじょう、1538-1582)。溝尾茂朝、勝兵衛、庄兵衛。明智光秀の重臣として仕えた。明智五宿老の1人。1582年、本能寺の変、山崎の戦いにも参加した。敗走中の小栗栖で、光秀の命令で介錯を務めた。首は坂本城まで持ち帰ったともいう。その後、自害したという。45歳。
◆梅宮社
 梅宮社(うめみやしゃ)の詳細は不明。洛西梅宮大社(右京区)の分霊を祀ったという。梅宮大社に対して「東梅宮」と呼ばれたという。
 かつて、尊勝院(東山区)の旧境内にあり、鎮守社として祀られていた。祇園社(八坂神社、東山区)の末社だったという。
◆光秀の首塚 安土・桃山時代、1582年6月2日、明智光秀は織田信長を急襲した。この本能寺の変後、羽柴秀吉は、中国地方から急遽引き返する。12日、秀吉は天王山を占拠し、光秀の居城・勝龍寺付近を焼いた。
 13日、夕方、山崎の戦いが始まる。光秀の軍は敗北する。その日に光秀は、勝龍寺城(長岡京市)に一旦入る。夜陰に乗じ、家臣十数名と近江坂本城へ向かった。大亀谷(伏見区深草)から東へ向かう。小栗栖(伏見区)の竹薮道で、残党狩りの土民・飯田一党の襲撃を受けた。光秀は深い傷を負い、家臣・溝尾庄兵衛尉の介錯により自刃したという。
 ◈ 光秀の首は路傍に隠されたという。その後、土民に掘り返され、首と胴は本能寺の「信長はたられ候跡」に晒された。さらに、六条河原で晒されていた光秀家臣・斎藤利三の遺体とともに、各首、胴が縫合され、粟田口刑場まで運ばれた。この地でも晒されたともいう。
 ◈ また、溝尾により、光秀の首は隠されたという。また、溝尾により坂本城に持ち帰られたという。また、腹心がその首を落とし、知恩院前まで来た時に夜が明け、この地に埋めたともいう。溝尾が埋めたともいう。また、村井長門守の士卒に発見され、粟田口黒谷道に晒された。その地に立てられた首塚が現在地に遷されたともいう。
 ◈ 首塚は、首が晒されたという地(粟田口東8丁目の西小物座町北側)に古墳とともにあったともいう。その後、現在地の東に遷され、近代以降に現在地に遷したという。(『坊目誌』)
 ◈ 塚は、粟田口神明山黒谷道の東三町計にあり、白川橋南に古墳とともに遷されたともいう。(『拾遺都名所図会』)
 ◈ 塚は西小物座町の辺(現在の蹴上交差点付近)にあり、この地に首が晒された。人家の背後に埋められていたともいう。祟りを畏れ、首塚の木々は生い茂り荒廃したままに放置された。18世紀後半に、明田理右衛門(利右衛門)という能の笛吹(能楽師)が、光秀の子孫ということで塚を無償で譲られた。理右衛門は樹木を伐採し、石塔婆を私邸(現在地付近、東山区梅ノ宮町)に遷し祀ったともいう。(『華頂要略』)。
 理右衛門の死後、首塚の所有者は転々とする。江戸時代、1835年には光秀250回忌が営まれ、宗教施設として整備されていた。近代、1871年になり京都府は塚が「逆罪人」の首を祀っているということで撤去を命じる。当時は現在地の20mほど東にあったという。その後、1881年以降に再興され、現在地に遷されたともいう。(「朝日新聞」)
◆光秀祠 光秀祠がある。かつてこの近くに寄席があり、市川団蔵という役者が光秀を演じた。近代、1903年に光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智禅定門」と刻んだ墓石(石碑)を立て供養したという。高さ1m、土台は貴船石、碑は鞍馬石。
 祠には、光秀木像が祀られている。かつては、端切れもあったという。その後、失われた。光秀の遺骨は残されているという。
◆五重石塔 五重石塔が立てられている。江戸時代、1845年の銘がある。五輪塔の笠石5個を集めている。花崗岩。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『秀吉の京をゆく』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『史跡探訪 京の七口』、『続・京都史跡事典』、『京都の自然ふしぎ見聞録』 、「朝日新聞 2020年12月20日付」ウェブサイト「コトバンク」   


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梅宮社・明智光秀首塚  〒605-0061 京都市東山区梅宮町474-23,三条通白川橋下ル東側)  
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